ふと目を覚ました時、そこはマイルームではなかった。教室とは違う真っ白な室内をぼんやり見渡し――そして自分の腕にかかる重みに気づき、一気に覚醒する。
「マスっ……マスター」
がばっと起きあがろうとして、しかし少女がまだ眠っている事に気づき、声を潜める。
彼の胸に寄り添って目を閉じているマスターに、一見して異常はなかった。その温もりにほっと息を吐き、アーチャーは頭を枕に戻す。
(そうか。儀式の後、うっかり寝てしまったのか)
アサシンによってマスターとの経路を断たれてしまったアーチャーは、魔力を事欠き、現界さえ危ぶまれるほど衰弱した。
もはや自力で立つ事さえ出来ないほど弱った彼を救う為、遠坂凛のお膳立てで、マスターとアーチャーは魔術回路をつなぐ儀式を行ったのである。
元より未熟な魔術師であるマスターにはそれが相当な負担だっただろう事は、想像に難くない。
全てが終わった後、少女は失神するように眠りに落ち、それを抱き寄せて眺めていたアーチャーも、いつしか睡魔に身を任せた。
壁掛け時計を見れば、開始から二時間半が経っている。
遠坂凛が保健室にトラップを張り、他のマスターを牽制してくれているとはいえ、サーヴァントたる彼まで眠ってしまうとは。
(うまくいったとはいえ、気を緩めすぎたな)
自身を省みれば、気力も魔力も充溢している。これならば問題なく、戦場に立ってマスターを守る事が出来るだろう。無意識に頬をゆるめながら、アーチャーはそっと少女を揺さぶった。
「……マスター。そろそろ起きてくれ、マスター」
「……ん……ぅん……?」
深い眠りの淵から引き戻され、マスターは軽く眉根を寄せてぼんやり目を開いた。何度か瞬きをし、ふらりと顔をあげて彼と視線を合わせ――
「アーチャー! 体は、魔力は大丈夫!?」
「ぐぉっ」
血相を変えていきなり詰め寄ってくる。胸に全体重をかけてのしかかられ、さすがのアーチャーも息を詰まらせた。むせそうになるのを何とかこらえて上体を起こすと、
「私は大丈夫だ、マスター。君との経路は問題なく繋がって、魔力も滞りない」
マスターを支えて答える。普段と変わりない口調を意識しながら、しかしどうしても声に、常ならぬ優しさがにじみ出てしまう。
アーチャーは少女を見下ろし、心からの感謝を口にした。
「マスター、ありがとう。君のおかげで、私は命拾いした。この恩義には、私の剣によって報いよう。期待していてくれ」
「うん……うん、わかった。無理はしてほしくないけど……」
少女は小首を傾げ、微笑んだ。安堵の故か、つぶらな瞳を潤ませ、頬を紅に染めながら、
「でも、あなたを信じてる。私は頼りないマスターだけど、絶対あきらめない。だから……最後まで一緒に戦おうね、アーチャー」
眼差しに無垢な信頼を乗せて、まっすぐにアーチャーを見つめる。
(マスター……)
不安も恐怖も、何の陰りもない、純真な瞳。それが自分に向けられている事に、アーチャーは胸が締め付けられる思いがする。
この少女を守りたい。この少女の願いを叶えてやりたい。そして願わくば――自分だけのものにしてしまいたい。
サーヴァントとして、それは逸脱した望みだ。この身はいずれ消えゆく定め、現世(うつしよ)の人間に肩入れしたところで、未来が約束される事はない。
だがそれは、少女とて同じ事ではなかろうか。
彼女に地上の体は無い。
データから生まれたマスターもまた、システムによって生かされているにすぎない。極端な話、いつセラフが彼女をバグと認定し、その存在を抹消してもおかしくない、そんな儚い存在なのだ。
(――ならば、何を躊躇う事がある)
いずれ消えゆくこの身であれば、せめて今。今だけでも己の想いに忠実であって、悪いことがあろうか。
「……あぁ、マスター。オレは誓おう。最後まで、君と共に戦うと」
「アーチャー……?」
だからアーチャーは少女の頬を手で覆い、そっと引き寄せた。先ほどの儀式では意識して触れなかったその唇に、ゆっくりと顔を近づけ――
『ちょっと、あんた達! いつまで待たせるつもり!?』
甲高い電子音とともに凛の声が響きわたり、主従は飛び上がるほどに驚いた。
「あ、え、凛!?」
慌ててベッド脇の棚に畳んだ制服から端末を取り出し、マスターが応じる。
『儀式はもう終わったでしょ? うまくいったかしら』
「う、うん、大丈夫だと思う。アーチャーも元気になったみたい」
『そう。――なら、そっちにいっても大丈夫? 今後の事を話し合いたいんだけど』
「え……あ、えぇっと、ちょっと待って!」
びくーんとマスターの肩が跳ね、顔が見る見るうちに赤くなっていく。それを見て、アーチャーもようやく思い出した。二人は今、人様には見せられないほど肌もあらわな姿になっている事に。
「じゅ、準備が出来たら連絡するから、もう少しだけ待ってて!」
『分かったわ』
慌てるマスターの様子から、何を想像したのか。続く凛の声は、
『どんな準備がいるんだか知らないけど、あまりわたしを待たせないことね。でないと、今すぐそこに踏み込んじゃうわよ?』
にんまりと、あの悪魔のように愛らしい笑顔を浮かべているだろうと十分に想像できて、アーチャーは頬をひきつらせた。
(これは間違いなく、凛のおもちゃにされるフラグに違いない)
人の弱みを見つけたとき、凛は鼠(えもの)を前にした猫のように生き生きと、相手が白旗をあげるまで存分にからかいぬく性分なのだ。
自分はまだその処し方を分かっているからいいものの、マスターは格好の獲物に違いない。せめて自分がフォローしてやらねば。
「マスター、急ごう。彼女がああまでいうのなら、本当に今すぐやってきてもおかしくない」
「わ、わかって、るっ」
アーチャーはマスターが半分ほど脱がした服を着直すだけでいい。が、マスターは途中で回復してきたアーチャーがはぎ取った為、ほとんど一糸纏わぬ姿にまでなっている。
脱ぎ散らかされた服を引き寄せ、慌てて着始めるが、焦っている為か、羽織ったシャツのボタンをしめるのにも苦労しているようだ。
「大丈夫か、マスター」
余程、あの儀式が負担になったのかもしれない。見かねたアーチャーは前に回り込み、おぼつかないマスターを手伝おうとしたが、しかしその少女の肌にいくつも赤い跡を見つけ、硬直した。
「……」
どう見ても間違えようにない、キスマークの数々。どう考えてもそれをつけたのは自分だ。しかし、
(オレはいつ、こんなにしたんだ?)
と自問しても、覚えがない。もしや、儀式だなんだと言い訳しながら、自分も我を忘れるほど、少女との共寝に夢中になっていた証左か、これは。
「――っ」
改めてその思いを自覚した途端、急に恥ずかしさがこみ上げてきて、かぁぁぁっと顔が熱くなる。凍り付いたこちらを不審そうに見上げたマスターもそれを認めたのか、目を瞠って息を飲み、
「……あ、ああああアーチャー、い、いいから! 私、自分で出来るから! ちょっと、あっち、向いてて!!」
血の上る音さえ聞こえそうな勢いで赤面して叫ぶ。あ、あぁ、と我ながら間の抜けた声を漏らしながら、アーチャーは背を向け、火照る顔に手を当てた。
(いかん……もうまともに対応出来る気がしない)
後ろから聞こえる衣擦れの音に、少女のあんな姿こんな姿がかえって思い起こされて動悸が激しくなる。
これでは、マスターともども凛のおもちゃにされること必至だ。そう思いながらも、アーチャーは自身を抑えられず、緩む口元を隠すことしか出来なかった。
体調こそ元通りだが、いつもの自分を取り戻すには、かなりの時間を要するようだ。
あるいは、もう元には戻れないかもしれないが――そうなったらそうなったで、仕方ない。もはや手遅れだということは、自分自身が一番分かっているのだから。