彼女が街にやってきた 14

 それは幸せな四日間だった。
 自らの足で地を踏み、自らの目で見た街の光景は、明るくて、平凡で、穏やかで、少し変わっていた。
 繰り返される日常。見知らぬはずなのに、なぜか親しみを感じる人々。かつての自身も経験しただろう平和な日々は、その全てが愛しく、大切な思い出になった。
 ――だから、今日。空っぽになった心に新たな思いを注いでくれた、優しい人たちの為に、彼女は自身の夢を終わらせると決意していた。

 はしる。はしる。はしる。立ち止まってはいけない。ためらいは、すなわち命取りになる。だから彼女は走り続ける。
 ――はぁっ、はぁっ、はぁっ――
 心臓が激しく脈打ち、息が乱れ、体が熱を発して汗が吹き出してくる。
 これまで何度も追跡の手をかわしてきた分、遠回りに遠回りを重ねて、ずいぶん長いこと、闇に沈んだ街の中をかけずり回っていた。
 ――いかなきゃ――
 いくら疲労困憊しても、ここで諦める事など論外だ。
 強い決意に引きずられるように、走る。
 今や彼女は全てを思い出し、この街で起きている異常事態も認識している。
 尋常ではあり得ない、奇跡の力で具現化された街の夢。それは本当に心地よく、楽しい事ばかりで、出来うることならいくらでも浸っていたかったが、
 ――帰らなきゃ――
 帰らなければ。自分のあるべき世界へ、帰らなければ。頭のてっぺんからつま先まで、その思いが満ちあふれ、胸を締め付けられて涙が出そうになる。
 だが、今は泣いている場合ではない。ぐずぐずしていたら、あの闇に捕まって、はじめからやり直しになってしまう。
 そうなったらきっと自分は、優しく心地よい夢に溺れ、その一方でひたすら大きくなっていく帰郷への願いに押しつぶされて、壊れてしまうだろう。
 ――私は帰る。あの場所へ――
 逃げの一手から転じ、彼女は断固とした足取りで目的地へ走る。暗闇に沈んだ街が飛ぶように過ぎ去り、ようやくその道――坂道の足下にたどり着いた、その時。
 ――!
 その一撃を避けられたのは、ほとんど幸運だった。
 視界の隅でかすかに光るものを見たと思った一瞬後、それは躊躇もなく彼女の首をなぎはらおうとした。びゅ、と風を切る音が耳を打つと同時、とっさにのけぞると、鋭利な光の軌跡が目の前を横切った。
「っ!」
 迷いのない殺意に肌をなでられ、ぞわっと鳥肌が立つ。恐怖に駆られて後ろへとびすさり、敵意の正体を見極めようと前方を見据え……強烈な違和感に、血がざぁと音を立てて落ちた。
「あれ、しくじった。意外と素早いね、あんた」
 あふれ出す殺意とは裏腹な軽い調子で、それは言った。凶悪な形に歪んだ奇妙な短剣をくねくねと踊らせ、肩をすくめる仕草をする。
「記憶喪失で力も無くしてるっていうから、簡単だと思ったんだけど……まぁいいや。ちょっと、そこでじっとしといてくんないかな。俺、あいつらみたいに、あんたと追いかけっこするつもりは無いんだよね」
「あなた、は……」
 こわばる舌を辛うじて動かして呟くが、後に続かない。
 あなたは誰。否、あなたは『何』。そう問いかけたいのに。
「何者かって質問? 答えてもいいけど、何にもなんないぜ? あんたはどうせイレギュラーなんだもの、ここに存在する事は許されても、影響を与える事は出来ない。だから大人しく、死んじゃってよ」
 つらつら語りながら歩み寄ってくるそれは――影。人の形をした影だ。じっと見つめれば、自身の目が見えなくなったかのような錯覚を覚えるほど、暗い暗い闇を塗り込めたそれ。
 存在自体は、彼女を追いかけてくるあの憎悪の影に似ている。だが、これはあれよりもはっきりとした存在感、そして紛れもない意志がある。すなわち、彼女を殺そうとする、明確な殺意が。
「まぁここでゲームオーバーになっても、またニューゲームになるってだけなんだけどさ。それでも、何もしないよりかはましだし。あんたがいつまでも居座ってると、都合悪いって奴もいるんだよね」
 短剣をおもちゃのようにくるくる回しながら、影は彼女の前に立った。
 そこにあるのは暗闇、表情など読みとることなど出来ず、ただ刺すような殺意だけが襲いかかってくる。
 ――怖い……
 これほどあからさまに殺意を向けられるのは、『何度経験しても』、慣れない。
 その圧倒的な感情の嵐に彼女は痺れたように立ち尽くし、短剣が振り上げられるのを、見開いた目で見つめる事しかできなかった。
 ――私は……、
 それでも辛うじて口を開き、相手へ抗弁しようとした瞬間、
「やめなさい!!」
 不意に突風が吹き付け、目の前に人影が現れた。今しも襲いかかろうとしていた短剣はぴたりと空中で止まり、
「……邪魔しないでくれよ、マスター」
 黒い闇が忌々しげに呻く。顔があれば睨みつけているだろうという声音に、両手を大きく広げたまま、人影が答える。
「駄目です。無関係な一般人を巻き込んではいけないと、散々言い聞かせたでしょう」
 ――誰……?
 恐怖に麻痺した思考が再び動き始め、自分の前に立つ人間を見つめた。女性――ショートカットかつ、パンツスーツを着ているので一瞬見誤ったが、今自分を庇ったのは女性だった。武器を手にした得体の知れない影を前にして、その細い体はどこか頼りなさを感じさせたが、
「無関係な一般人? あんた、そいつがそんな無害な存在に見えるのか? ちゃんと見てみろよ」
 影に促され、その動きを警戒しながら肩越しに振り返ったその眼差しは、刃のように輝いて、こちらを射すくめるように鋭い。その耳元で、細長いピアスが揺れた。
「……。なるほど、確かに魔術師のようですね」
 相手は子細に観察した後、一つ頷いた。しかし、と前方へ視線を戻し、
「だからといって無法に襲っていい理由はありません。彼女は、今回の聖杯戦争に参加している魔術師なのですか?」
 きまじめに確認する。影は否、と返答を投げ返した。
「違う。そいつは完全なる『例外』。俺達の戦いには一切関わりない、どうってことない存在さ」
「……ならば、やはり彼女を殺す必要はないでしょう」
 不快の色を乗せてつぶやき、スーツの女性が腰を落とし、拳を握って身構えた。
「無益な殺生は私の好むところではありません。それに、自分のサーヴァントに好き勝手をさせるつもりもありません。――退きなさい、アヴェンジャー。マスターの命が聞けないというのなら、私が相手になります」
 ――アヴェンジャー?
 聞き慣れない単語を聞いて、我に返る。マスター。サーヴァント。ショートカットの彼女は今、確かにそう言った。しかし聖杯戦争のサーヴァントの中で、そんなクラスがあったなんて、自分は知らない。
 ――例外……イレギュラークラス……
 影はこちらをさして、余分なものだと言った。それはもしや、彼? にも当てはまるものではないか。厳格なルールを制定された聖杯戦争においても、イレギュラーは常に紛れ込む余地がある。それはおそらくサーヴァントであろうと、マスターであろうと、きっと同じ事だ……。
「――やめてくれよ、バゼット」
 めまぐるしく考え込むこちらをよそに、影、アヴェンジャーはハッ、と鼻で笑うような気配を見せた。再び短剣をくるくる回しながら、
「あんたがそんな事したって、いずれそいつは元いた世界に戻っちまうんだから」
「……?」
 サーヴァントの言葉に、バゼットと呼ばれた女性が僅かに肩を下げる。アヴェンジャーはだからさ、と続けた。
「いくら庇っても無駄なんだよ。歪みはいつか正される――それを願う奴がいる限りは。俺がやろうとしてる事はその手順を省いて、順番を早めようってだけだ」
「何の事を言っているんですか、アヴェンジャー」
「そういうけど、あんたは本当は全部わかってるんだ。わかってて、目を背けてる」
 アヴェンジャーの声がぐっと低く、平坦になる。淡々とした口調で影はバゼットの前に立った。その存在が重なり合いそうなほど、近くに。
「なぁ、そろそろ気づいても良い頃じゃないか、バゼット。あんたがいくら望んでも、願っても、夢は夢のまま――」
 しゅると音を立てて、黒い手がバゼットの首の後ろに回る。引かれて前屈みになったその肩越しで、こちらとアヴェンジャーの目線が交わった。黒々と沈んだ闇を目にし、一瞬氷を抱いたかのような寒気が背中を駆け抜け、しかし、刹那、驚愕に目を見開く。
「あんたがどれだけ会いたがっても、あんたは教会にいけやしないんだから」
「士郎……君?」
 赤茶色の髪。年の割に大人びた、意志の強い眼差し。それは見慣れた顔立ちで、しかしその肌は浅黒く、ねじ曲がった黒い模様がびっしりと刻み込まれている。目を細め、士郎が笑う。
「あぁ、あんた見えるんだ。さすがだな……っと!」
 途端、跳ねるように士郎が後ろへ跳んだ。胴体にたたき込もうとしたらしい拳が空振りしたバゼットは、
「あ……あ、あぁ……」
 しかし顔を覆って不明瞭なうめき声を漏らした。
「違う。違う、違うちがう違う違うちがうちがうちが……」
 そのまま何かを払おうとするように勢いよく頭をふり始めたので、士郎、いやまた影に戻ったアヴェンジャーが舌打ちした。
「ほんっと頑固だな、うちのマスターは。まぁいいや、今のうちにノルマこなさないと」
「!」
 しゃりん、と音を立てて、影の先に白刃が伸びる。どっと吹き出した殺意に再び射すくめられ、しかし今度は、
「……私は!」
 気圧されまいと、先んじて大声を発した。きょとん、とするように動きを止めた影を見据え、決死の覚悟で告げる。
「私は、自分の世界に帰るの! 誰にも邪魔なんてさせない、もう死んだりもしない、今日、これから、絶対帰るの、だからそこをどいて!!!」
 叫び声は響きわたり、しかし街に落ちた静寂がそれをすぐに飲み込んで、余韻もなく消し去ってしまう。バゼットの呻きも、アヴェンジャーの軽口もなく、しん、と沈黙が落ちた。と思ったら、
「……何だ。それなら、止めるつもりはないぜ」
 アヴェンジャーがあっさり殺意をほどいた。それどころか、
「そういう事ならどーぞ、お帰りはこちらです。大してお構いもしませんで、失礼しましたね」
 気取った仕草で腰を曲げ、坂道の先を手で示してみせる。
「え……、……と、いいの?」
 豹変ぶりについていけなくて、ぽかんとしてしまうこちらに、アヴェンジャーは、きっと士郎の顔で笑ってみせた。
「そりゃもう、こっちとしても面倒ごとが一つ減って万々歳さ。帰りたいなら早くしたほうがいい。いずれこの辺にも、他の連中がやってくるだろうし」
「……わかった。ありがとう、アヴェンジャー」
 さっきまで命を狙われていた相手に礼を言うのもおかしい気がしたが、どうやら利害が一致したと見ていいらしい。それならこのまま行ってしまって構わないだろう。
「じゃあ……」
 別れの挨拶に迷って、結局そのまま歩き出す。と、いきなり腕を捕まれた。
「!?」
「……行っては、駄目」
 ぎょっとして振り仰いだ先にいたのは、バゼットだった。目元にほくろのある、端正な顔立ちの女性は、しかし今、虚ろな瞳で彼女を見つめている。
「行っては駄目。あなたは、ここにいなければ」
「痛っ……!!」
 バゼットの手に力がこもり、ぎりりと腕が握りしめられる。細腕からは考えられないような腕力で捕まれて、顔を歪めてしまう。全く遠慮のない拘束で、今にも腕が折れてしまいそうだ。は、離して、と手をはがそうとするが、微塵も動かない。
「あなたは必要なの。どうしても、どうしても必要……」
「バゼット」
 感情のない声で機械的に呟く彼女に、アヴェンジャーが呼びかけた。振り返ると、影はため息を漏らして、
「よしなよ。そいつは、あんたの手が届かないところにいる。あんたには、もう引き留めようもないんだ」
 静かにそう言った。途端、ぱさりと乾いた音がして、痛みが消えた。
「!?」
 忙しく視線を戻し、息を飲む。今の今までこちらの手を掴んでいたはずの、バゼットの腕が――無い。スーツの袖が、ぺたんと平らになって、風に揺れている。
「あ……う……そだ、そんな……」
 それを呆然と見下ろし、バゼットはへなへなとその場に座り込んだ。アヴェンジャーが彼女に近寄りながら、『今のうちに、いきな』と身振りで促してくる。
(……どういう人達なんだろう)
 疑問はいくつもある。今の出来事がどういうからくりなのか知りたかったし、他にも聞きたい事があった。
 しかし、それはもう、自身には関わりのない事――関わりを持っても意味のない事だ。このねじれた世界を元に戻すのは、ここに生きる人々の役目なのだから。
 ――帰ろう。私は、私の世界へ。
 そう思った途端、足が自然と走り出し、二人を残して、先へ先へと彼女を連れていく。追い求めた目的の場所は、もはやそう遠くはなかった。