彼女が街にやってきた 9

「それで? あなた、士郎の事どう思ってるの?」
 涼やかな可愛らしい声とは裏腹に、その口調は大変厳しい。
 氷が降り注ぐような鋭さに七海はびくっと背筋を伸ばし、「ど、どうって言われても……」と困惑した。
 おどおどしながら上目遣いに見上げた先に居るのは、銀糸のようにさらさらした長い髪を背に流し、一目で高価なものと見て取れる紫を基調とした服に身を包んだ、幼い少女だった。
 深紅の瞳に外国人然とした顔立ちは人間離れした端正さで、間近で見ると息を飲むほどに美しい。しかし、その背景が障子張り、畳敷きの純和風なものだから、違和感がとてつもない。
(な、何でこんな事になってるの……)
 よくわからない。アーチャーと楽しく買い物をして、衛宮家に帰ってきたら、居間で見たことのない美少女が士郎と茶を飲んでいた。
「お帰り、七海。……あれ? アーチャーは?」
「あ、うん……家の前で別れたけど」
 アーチャーはどうやらここに足を踏み入れたくないらしい。大量に買い込んだ荷物を玄関までは運んでくれたが、そのまま帰ってしまった。
 過去の自分が過ごした家には何か思うところがあるのだろう、と察したので、それはいいのだが――それより、目の前の美少女が気になる。
「あ、そうか。七海は会うの初めてだよな。この子は……」
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。あなた、誰?」
 それまで士郎と楽しく語らっていたらしい少女――イリヤスフィールが眉根を寄せて、こちらへ視線を向けてきた。その怜悧な眼差しにびくっとして肩をすぼませてしまう七海。美少女の一瞥は、刃を向けられたような鋭さがある。
(な……何か、怖いー!)
 気圧されてびくびくしながら、おそるおそる名乗る。
「わ、私は、七海です」
「ナナミ、何?」
「……七海、だけです」
「?」
「あー、イリヤ。彼女はだな……」
 名字が無い事を訝るイリヤスフィールに、士郎が事情を説明する。途端、
「何それ! 士郎ってば、どうしてそんなにお人好しなの!? ほいほい女の子を引き取っちゃうなんて、信じられない!」
 イリヤスフィールが声を張り上げ、
「ちょっとあなた、七海って言ったわね、そこ座って!」
 いきり立ってびし、と指を突きつけてきたので、「は、はい!」勢いに押されてその場に正座させられてしまった。そうして士郎をどう思うか詰問されたのが、冒頭の状態である。
「ど、どうって言われても……」
「簡単よ。好きか、嫌いかだけ言えばいいの」
「それはもちろん、えーっと……好き、です」
 どうなる事かと見守る本人の前で、好悪を口にするのは躊躇われる。しかし好きか嫌いかで言えば勿論、答えは決まっていた。それを素直に口にすると、士郎が落ち着かなげにもぞもぞ動き、イリヤスフィールはむうっと口をとがらせ、腰を曲げて七海の顔をのぞき込んできた。
「じゃあ、あなたも士郎を狙ってるのね?」
「ねらっ……」
「な、何言ってるんだ、イリヤ! そもそも狙ってるって、誰が何を!」
「士郎は鈍感すぎるの! てんで無防備なんだから、皆調子に乗って寄ってくるんじゃない。士郎は私の物なのに!」
「え、そうなの? 士郎君」
「違う、俺は誰の物でもないっ!」
 思わず真面目に訪ねる七海に、士郎はぶんぶん手を振って否定した。それがまた、銀髪の少女の機嫌を損ねたらしい、
「ちょっと! 士郎もそこに座って! 今日という今日は、士郎が誰の物なのか、きちんと分からせてあげるんだから!」
「いや、だからイリヤ……」
「座って!」
「はいっ」
 迫力負けした士郎もまた、七海の隣で正座する羽目になり――

「……まぁ、今回はこの辺で勘弁してあげるわ」
「は、はい……」
「ううっ……あ、足が……」
 その後、一時間にも及ぶイリヤスフィールの説教? のおかげで、七海と士郎はすっかり、足がしびれて立てなくなっていた。ふるふる震えながら膝立ちする二人を見下ろしたイリヤスフィールは、
「事情も事情だし、あの神父のところに戻すのは、ちょっとだけ可哀想だから、ここに住むのは認めてあげる。でも、ぜっっっっったい士郎にちょっかい出しちゃ駄目なんだからね。士郎は私のなんだから」
 そう言って、ひょいと七海の顎を持ち上げた。ほっそりした滑らかな指に触れられて、「えっ……」驚いて硬直した時、

 どくんっ

 心臓が大きく跳ね、息が止まった。
(な、に)
 時の流れさえ止まったような感覚に陥り、音も何もかも消え失せる。視界に映るのはイリヤスフィールのみ。抜けるような白い肌、人離れして端正な顔――のみならず、その全身に複雑な文様が浮かび上がっていた。服の下でもはっきり見えるほど鮮やかに発光するそれは、目もくらむほど膨大な、圧倒的な魔力が少女の矮躯に秘められている証左だ。

 どくんっ

 息が出来ない。心臓が鼓動を止める。血が凍り、根源の恐怖に脳が焼かれる。
 恐ろしい。この少女が恐ろしい。身の内で嵐のように渦巻く力が放たれれば、七海など蝋燭の火のように吹き消されてしまうだろう。それどころか、この家も何もかも、消し飛んで跡形なくなってもおかしくない。
 それほどの力を、この少女は、持っている。恐怖に麻痺した頭の中で不意に、

 ――ふぅん。そういう事――

「――っ!」
 その声が響いた瞬間、ひゅ、と音を立てて、喉を空気が走る。
「う……げほ、げほげほっ!!」
「わ……な、七海? どうした、大丈夫か?」
 まるで全力疾走したかのように呼吸が乱れ、体が床に崩れ落ちた。激しくせき込む七海に驚き、士郎が背中をさすってくれる。
「げほっ、は、う、……だ、だいじょぶ、大丈夫……」
 目に涙をためながら、七海は何とか咳を堪えて身を起こした。耳のそばでずくんずくん、と重たく鳴る鼓動を聞きながら息を整えようとしていると、
「七海」
 不意にイリヤスフィールが彼女の前にしゃがみ込んだ。大きな赤い瞳でこちらを見つめ、そして、
「――あなたは特別に、士郎のそばにいても許してあげる。だけど、それは『帰るまで』だからね。『壊したり』したら、承知しないんだから」
 謎めいた事を言ってくる。
「な……けほっ、何、ですか……何を……帰るって、壊すって……」
 この少女の言葉の意味が分からない。分からないので問い返したが、イリヤスフィールは何でもないわ、とにっこり笑って立ち上がった。
「じゃあ士郎、私、今日はもう帰るわ。プールの件、忘れちゃ駄目だからね」
「あ……あぁ、もちろん忘れないよ、イリヤ。皆にも伝えておく」
 七海とイリヤスフィールを見比べ、要領を得ない顔で士郎が頷く。それを見て満足そうに頷き、銀髪の少女はスカートの裾をひらりと翻して出て行ってしまった。
「あ、イリヤ! ……ごめん、ちょっと見送ってくる。一人で大丈夫か? 七海」
 慌てて立ち上がる士郎。
「うん……私は、平気だよ」
 イリヤスフィールが遠ざかったせいか、急に呼吸が楽になってきた。慌ただしく出て行く士郎を見送り、一人居間に残った七海は、深く呼吸を繰り返しながら、不可思議な一連の出来事に首をひねった。
(何であの子……イリヤスフィールの『力』が急に見えたんだろう)
 急に体調が悪くなったのは彼女に圧倒された為だろうが、魔術回路を励起させていた訳でもないのに、ああもはっきり、イリヤスフィールの力が目に見えたのか。
 それに、少女が告げた言葉――『帰るまで』士郎のそばにいていい、『壊しては』駄目だ、というのも、意味が分からない。あの口振りは、まるで、
(――私のこと、何か知ってるの?)
 そう思えた。あれは、七海に帰るべき場所がある、と知っていなければ、出てこないせりふのような気がする。
「イリヤスフィールって、何者……?」
 魔術師なのは間違いないが、あれほど規格外の力を持つ少女が、なぜ衛宮家に出入りしているのか。士郎とよほど懇意にしているようだが……
(もし何か知っているなら……教えて、もらわなきゃ)
 そう思うが、足が萎えて立てない。イリヤスフィールの力はあまりにも大きすぎて、七海にはとても立ち向かう勇気がない。
(早く……早く、思い出したいのに)
 急く気持ちに背中を押され、なのに立ち上がれない。七海は力なく座り込んだまま、ぎゅっと拳を握りしめた。未だ断片しか蘇らない記憶は、いたずらに彼女を焦燥へと駆り立てるだけだった。