それは異常な四日間だった。
衛宮士郎以外の誰も気づかない、だがそこにある違和感を、誰もが少しずつ感じ取っていた日々。
繰り返される日常。狂いの生じた時間軸。聖杯の無い状態で繰り広げられる静かな闘争の中、また一つ。違和感が、投げ込まれる。
「――いえ、結構です。いりませんから」
「ん?」
穏やかな日差しが降り注ぐ新都の午後。怪奇の影もない、平和な町を巡回していたアーチャーは、ふとこぼれ聞こえた声に足を止めた。何気なくそちらへ目を向けると、視線の先にいたのは、若い男女。
「あれは……」
一人は見覚えがある。知り合いというのも語弊があるが、くしゃくしゃの髪に横柄な態度で相手を見下ろしているのは、間桐慎二。
「なんだよ、遠慮するなよ。あんた、おのぼりさんなんだろ? この僕が案内してあげるっていうんだからさ、大人しくついてきなよ」
(ナンパのつもりなのか、あれは。しょうがない奴だな)
磨耗した記憶に彼の面影は全く残っていないが、かつての友人の所業にはため息が出る。無視していこうかと思ったが、
「困ります。ここで、人を待ってるので」
対する相手は、やや気圧されているようだ。慎二の居丈高な態度に困惑しながら、振り切れないらしい。
(ふむ。――見慣れない制服だな)
なんとはなしに興味をひかれ、アーチャーはナンパ相手を観察する。慎二と同年代くらいの少女がまとう、穂群原学園のものとは違うブレザーの制服は、この辺りでは見かけないものだ。
「そんな見え透いた嘘つかなくていいって。だいたい、君を待ちぼうけさせるような奴より、僕のほうがいいにきまってるさ。ほら、行こうぜ」
「やっ……ちょ、やめてくださいっ……!」
頑なに固辞する少女にいい加減じれたのか、慎二がその腕を引っ張り、無理矢理つれていこうとする。
(チッ。こうなっては、見捨てるのも後味が悪いか)
合意の上ならともかく、相手は明らかに嫌がっている。ならば放置しておくわけにもいくまい。アーチャーは滑るような足取りで近づき、
「――失礼。私の連れに何か用かね」
がしっ、と慎二の腕をつかんだ。
「なんっ……ヒィッ!? お、お、おまえっ……遠坂の……!」
乱入者を睨みつけようとしたが、こちらの顔を見上げた慎二は顔面蒼白になった。どうやら凛のサーヴァントの顔はきっちり覚えていたらしい。まるで火傷したように少女の腕を放し、アーチャーを振り払うと、
「お、お前の連れに用なんかあるわけないだろ、目障りなんだよ、このガングロ野郎が!!」
やや気に障る捨てぜりふを残して、脱兎のごとく逃げていく。あっという間にその姿が見えなくなった事に、アーチャーは呆れながらも感嘆のため息を漏らした。
「やれやれ……相変わらず逃げ足の早いことだ」
小悪党そのものな男だが、そこだけは評価に値する。何しろあの聖杯戦争を、魔術回路一つ持たない身で生き残ったのだ。逃げ足もさることながら、あの男、案外幸運値が高いのではないか。
「……あの……ありがとうございました」
そんな事を考えながら、慎二が消えた方向を漫然と眺めていたら、不意に声をかけられた。ああ、忘れていた。アーチャーは顔を戻し、今し方ナンパ男の魔手から救った少女を見下ろす。
(ふむ。……なるほど、手頃な相手だな)
最初の見立て通り、十代後半くらいだろうか。
ふわふわした茶色の髪に華奢な手足、目がぱっちりとした大人しそうな外見で、とびきりの美人というほどではないが、慎二が目をつけるのも納得するほどには、可愛らしい。おまけに、少々強引に押せば連れ回せそう、という意味では、ナンパ相手には好都合だろう。
「いや、大した事ではない。ああいう手合いには気をつけるんだな」
慎二本人の性格はともかく、女を見る目は肥えているものだ。妙な感心をしながら、アーチャーは首を振ってきびすを返した。そのまま去ろうとしたのだが、
「あ、あの……」
「――済まない、待たせてしまったな」
「む……」
後ろから少女の声、そして前から、名前を出すのもおぞましいカソック服の神父の声に挟まれ、思わず足を止めてしまった。ゆっくり近づいてきた神父はこちらを見ると、おや、と眉を上げる。
「これはこれは、珍しい事だ。君がよもや、女性に声をかけているところに出くわすとは。凛はこの事を知っているのかね?」
……開口一番、嫌味か。この男も相変わらずだな。アーチャーは眉間にしわを深く刻んだ。
「私と凛は現在、契約関係には無いのでね。行動を逐一報告する義務などない」
「ほぉう、それでは君がどこで何をしようと、彼女の関知するところではないという事か。これはまた、都合の良い事だ。いっそ、我が教会の青犬と連れだってはどうかね。より大きな成果が期待出来る事だろう」
何の冗談だ、それは。バカバカしい、と鼻を鳴らす。
「あの男と共に行動するなど、自らの評判を下げるようなものだろう。だいたい私は、ナンパをしていたわけではない」
「ほう、そうなのかね」
確認のために、神父がアーチャーの背後にいる少女へ声をかける。彼女はととっ、と軽い足取りで前に進み出て、
「はい、神父様。ちょっと困っていたところを、助けていただいたんです」
こちらの言を裏付けてくれる。そうか、人助けとは立派な事だな、と嫌味っぽい口調で納得する神父。疑いが晴れたのはいいが、しかし……
「君の待ち人とは、この男なのか?」
よけいなお世話とはいえ、つい確認してしまう。何しろ神父と、少々気の弱そうな少女だ。慎二と彼女以上に、おかしな組み合わせといえよう。が、
「はい、そうです」
少女はこくっと頷く。そこには怯えや躊躇いなど見受けられないので、嘘ではないらしい。
「あぁ、少々手続きをしていてね。少しの間彼女に待っていてもらったのだが……その間にもめ事が起きるとは思っていなかった。君のおかげで助かったよ、アーチャー」
「別に、かまわん。たまたま通りかかっただけだからな」
この神父に感謝されるなど、気持ち悪いことこの上ない。アーチャーは素っ気なく言い放ち、では、と今度こそ背を向けた。
そのまま町の雑踏の中をずんずん進んでいくが、数メートル進んだところで、
「…………」
何が気にかかったのか、背後を振り返った。
先ほどと同じ場所で、神父と少女が何事か語り合っている。神父の話を聞く少女は、どこか困った様子で俯き、何度か首を横に振った。
(……あの神父の、新しい獲物ではなかろうな)
過去を思えば、言峰綺礼が単なる親切心で人助けをするとは思えない。
あの見るからに頼りない少女が、どんな事情で神父と知り合ったのかは知らないが、相手の正体を看破するほど鋭い洞察力を持っているようには思えなかった。
(全く……私には、関わりのない事なのだが)
そう思いながらも立ち去れない、自分の人の良さがうらめしい。
アーチャーはため息と共に靴のつま先をそちらの方向へ戻し、話しながら歩き出す二人の後を、ひそかにつけ始めた。