あなたに近づく三年間(キルラキル猿投山×皐月)
一年目。俺にとって鬼龍院皐月は、決して越えられない、巨大な壁だった。
「……くそっ、また負けた!」
汗で蒸れた面を脱ぎ捨てながら、猿投山は剣道場の床にどしんと腰を落とした。
高校一年生になってもまだ中学生のように幼いその顔が向けられた先には、同じく面を取って息をつく鬼龍院皐月の姿がある。本能字学園生徒会長は上気した頬を手ぬぐいで拭きながら淡々と言った。
「お前の太刀筋は馬鹿正直で、読みやすい上に軽い。だからたやすく対処できる」
「……分かってるよ、んな事」
的確な指摘に、猿投山はますますむくれてしまう。
太刀筋は改良の余地が十分にあるだろうが、剣の軽さはいかんともしがたい。猿投山は同年代と比しても体が小さく、力がなかった。
それでも中学時代に北関東中学番長連合総代になれたのは、敏捷性や器用さを活かして奇策に頼ってきたからだ。
(だが、この人には姑息が通じない)
少し離れた場所に座り、ミネラルウォーターのキャップをひねる皐月を盗み見る。
皐月は猿投山より背が高いが、女子なので力はそう強くはない。腕力だけで言えば自分とそう変わりないだろう。
だがその気迫は圧倒的で、向き合うと、得物が竹刀であっても背中に寒気が走った。
切っ先は向かってくる相手の急所をぴたりと狙い定め、一撃で斬り払う鋭さがある。
故に皐月は相対する敵が大きかろうと小さかろうと、常に勝利を収めてきた。その強さを猿投山は日々、ひしひしと感じている。本能字に来てからというもの、自身の器の小ささを思い知らされるばかりだ。
(くそっ、どうしてこんなに力の差があるんだ)
実戦経験の差か。育ちの違いか。
考えてはみるが、とにかくやみくもに突っかかって行っても仕方ない。どこかに突破口がないものかと見据えていたら、
「何だ。お前も飲むか?」
喉を鳴らして水を飲んでいた皐月が視線に気づき、ペットボトルを差し出してくる。
「……どーも」
言われて初めて、口がからからに干上がっている事に気づき、猿投山は傍に這いよってそれを受け取った。
ぐっと煽ると、冷えた水が乾いた体にしみ込んでいき、敗北に萎えた手足に力が少しずつ戻ってくる。
「……ぷはっ! よし皐月様、もう一本やりましょう! 次こそは勝つ!!」
猿投山は口を拭いながら立ち上がり、竹刀を突き付ける。威勢のいい彼を見上げた皐月は、ふと淡い笑みを滲ませると、
「ああ、やってみろ。今のままでは四天王と名乗るには足りないからな」
音もなく腰を上げ、鋭く言い放った。
「強くなれ、猿投山。そうでなければお前をわざわざ連れてきた意味が無い」
その言葉にふんっと鼻を鳴らして、猿投山は面をかぶる。視界を横切る、面の物見の隙間から皐月を見据えると、にぃっと唇の両端を上げた。
「そんな事、命じられるまでもない。俺はあんたを超える為に来たんだからな!!」
そして道場中に響く大音声で、高らかに宣言する。
この後、結局一度も勝つ事は出来なかったけれど、猿投山はこの鍛錬の日々を、今でも鮮やかに思い出す。
息が詰まるような、緊張感のある空気。防具の奥に隠された互いの呼吸、鼓動。
悔しいけれど鮮やかすぎて敗北を認めるしかなかった、皐月の剣技。
汗に光る肌を紅潮させ、白い喉を晒して水を飲む皐月の姿。
その一つ一つを、猿投山はずっと、胸に深く刻み付けていた。
* * *
二年目。俺にとって鬼龍院皐月は、誰も寄せ付けない、冷たく孤独な人だった。
「―皐月様に忠誠を誓えないのなら、あんたの息の根を止めてやるわ」
小柄で華奢な体つきをしたピンク髪の少女は、その外見に見合わない剣呑さでこちらを睨みつけている。
人っ子一人いない夜の学園の廊下で相対した猿投山は、そうは言ってない、と首を振った。
「ただ、俺には皐月様が理解出来ないだけだ」
秘密裏に召集された生徒会の会議で、猿投山は同じ台詞を口にして中座した。
皐月が語った『野望』の内容を、一人になってじっくり考えたいと思ったのだが、追いかけてきた蛇崩と対峙するはめになった。
(こいつか蟇郡が噛みついてくるだろうとは思ってたが)
より凶暴な方が来てしまった、とため息が漏れる。ヒステリックに喚き散らす女の相手は気が重い。
「あんたみたいな単純バカが皐月様を理解出来るわけがないじゃない。
下手なこと考えるくらいなら、頭を空っぽにして兵士として戦うか、この場で死になさい」
実際、げんなりした猿投山を冷たい目で睨み付ける蛇崩は、その声音に殺気を滲ませている。息の根を止める、死ねと言う言葉は決して脅しではないのだろう。
(皐月様が絡むと本当に怖い女だな、全く)
黙ってりゃ可愛いのにと場違いな事を考えながら、猿投山は相手の気をそぐように肩をすくませた。
「確かに俺は難しい事を考えるのが苦手だ。
だがいくら皐月様の命令であっても、理解出来ないものに従いたくはねぇな」
「さっきの話がそんなに分かりにくかったの?
いくら猿投バカでも、あれが頭に入らなかったなんて、ちょっとおかしいんじゃない?」
「誰が猿投バカだ、勝手に人の名前を変えるな! 俺が理解出来ねぇのは話の内容じゃねぇ、皐月様の心境の方だ!」
皐月が四天王に語ったのは、母である鬼龍院羅暁が世界を生命繊維で覆い尽くす為に着々と準備を進めている事。
そして皐月もまた本能字学園を自身の要塞として築き上げ、いずれ羅暁を倒すと心に決めているという話だった。
服が人類を覆い尽くすというのはいささか、いや、かなり突飛な話だ。
が、裁縫部の伊織が日々改良を重ねている極制服の威力を思えば、それが冗談ではないと納得出来た。
極制服に織り込まれた生命繊維は、量を少し増やしただけで制御不能に陥り、下手をすれば着用者の心身が破壊される。
もし生命繊維が意志を持ち、身につけた者に襲い掛かるような事になれば、一般人はひとたまりもないだろう。
(理事長のとんでもない野望を砕かなきゃならねぇのは分かる。もし機会に恵まれたら、俺は迷いもなく剣を向けるだろう)
だが、冷静な思考はそこで鈍くなる。たとえ羅暁の思い描く未来がどれほどおぞましくとも、
「俺には、実の母親に剣を向ける、その心境が理解できねぇんだよ。
親殺しに荷担しろと言われて、はいそうですかとあっさり受け入れる方が、どうかしてんだろうが」
そこだけは譲れなかったのだ。
どんな理由があろうとも、子が親を殺めるなどあってはならない。
ましてや、本能字学園に王者のごとく君臨し、猿投山にとっては戦士としての最終目標でもある鬼龍院皐月が、そのような大罪を犯そうとしている事に、抵抗を覚えてしまう。
吐き捨てるように言うと、蛇崩は目を細めた。
「言ったでしょ、あんたに皐月様が理解来るわけがないって」
だから考えるだけ無駄なのだと、木で鼻をくくるような物言いで嗤われ、さすがにカチンときた。
眉間のしわを深く刻んで相手を睨みつけ、
「そこまで偉そうにしてるんなら、蛇崩様はそりゃあ皐月様を理解してるんだろうな。
あの人には一切間違いがない、だから親を殺すのも当然正義の行いだって言いたいんだろ」
「…………」
「お前がどれだけ皐月様に深入りしてるのかは知らないがな、思考停止してんのはどっちだよ?
そりゃ他に手がないのなら、最後の最後には戦わなきゃならないだろうが、お前は一度でも、そんな大それた事はしてくれるなと、あの人を止めた事があるのか?」
投げかけた疑問に、しん、と沈黙が返ってくる。
わずかに俯き、帽子の縁に目を隠した蛇崩の表情は見えない。だが唇を噛みしめているのは、痛いところを突いたせいだろう。
ふうと息を吐き出して、猿投山は再び歩き出した。蛇崩に一歩一歩近づきながら、
「……力を貸さない訳じゃない。だが、皐月様が皐月様だからこそ、母親の血で手を汚すような事はしてほしくねぇ。俺の考えはそれだけだ」
静かに囁き、すっと脇をすり抜ける。
顔を下げたまま微動だにしない蛇崩の様子に、これで難癖をつけられるのも仕舞いだろうと出口へ向かう。と、
「……五歳よ」
後ろから小さな呟きが聞こえた。
「ん?」
聞き違いかと半身振り返る。こちらに背を向けた蛇崩は肩を持ち上げ、ふるふると細かく体を震わせていた。何か言ったかと問いかけるより早く、
「皐月ちゃんが羅暁おばさまを倒すと決めたのは、五歳の時なのよ!」
怒りに満ちた叫びが廊下に響きわたった。
「……何?」
その鋭さに驚き、更に意味が理解できず、猿投山は硬直した。ぐるっと体ごと向き直った蛇崩の目は、怒りを浮かべながら涙に潤んでいた。
「実際に何があって皐月ちゃんがそう決意したのか、詳しい事は私も知らない。
でも、それまで素直で優しくて、可愛いだけだった五歳の女の子が、ある日を境に変わったの。
明るかった目は暗く鋭くなって、一緒に並んで歩いていたのが、いつも先へ行くようになって」
感情のまま迸る言葉につられたように、その瞳からぽろりと涙の珠がこぼれ落ちる。
「あんたにも私にも、皐月ちゃんが何を考えているのかなんて分からないわ。
でもたった五歳の子が、命を賭けてまで必ず成し遂げると心に刻みつけた事を、簡単にやめろと言えるわけないじゃない!」
「蛇崩……」
少女の激情に気圧され、二の句が告げない。いや、その話の内容にも衝撃を受けていたから、言葉が出てこないのだ。
「だ、だけどな、蛇崩」
「黙れ。あんたの意見なんか聞いてない」
焦って口を開いたが、ぐいと涙を拭った蛇崩に拒まれた。
赤く充血した瞳のまま、今度は彼女が自分の傍をずんずんと通り抜け、
「……皐月様は宿願達成の為に本能字学園を改革して、私たちを四天王に据えたのよ。
皐月様の心情を知りたいっていうのなら、そのお心こそ信じなさいよ、クソ猿」
怒りと悲しみが滲む罵倒を投げつけて、そのまま立ち去ってしまう。ぽつんと廊下に取り残された猿投山はしばし凍り付いた後、
「……参ったな、どうも」
深く息を吐き出し、硬直を解いた。驚きで鼓動の早くなった胸を押さえて呻く。
(……なるほど、俺じゃあどうやっても、あの人には敵わないわけだ)
本能字学園に入学して二年の月日が経ち、皐月を上回る身長や筋肉を手に入れ、研鑽を重ねてなお一勝も出来ない己を省みて、思う。
(俺と皐月様とじゃ、剣に賭けてるものの重みが違う)
二人の力量差があるとすれば、きっとそれだ。
ただ強さだけを求め、猿山のボスになっていい気になっていた猿投山。
対して皐月は両肩に鬼龍院の宿業を負い、親殺しの汚名をも受け入れる覚悟で、幼い頃からずっと牙を研ぎ続けてきた。
(勝てるはずがねぇ。それほど大層な覚悟を抱えてるあの人に)
悔しさもなく、ただ事実として、胸にすとんと落ちてくる。その重みに息苦しさを覚えながら、猿投山は静けさを取り戻した廊下へ視線を向けた。
その先にはすでに遠ざかった生徒会室があり、皐月の居室がある。
己の決意を四天王へつまびらかに語ったあの人は今、何をしているだろう。
(理事長への怒りを新たにしているだろうか。本能字学園を、生徒たちを、どうやってリボックスに匹敵する組織にするかを考えているだろうか)
その胸の内を、やはり彼は見通す事が出来ない。親と子が血で血を洗う戦いを繰り広げるだろう未来を思うと、どうしても気持ちが沈む。
(だが―五歳の小さな女の子が、そんな覚悟を決めて生きてきたというのなら)
背負った竹刀を抜き、手の中でぐっと握りしめる。
蛇崩の言うとおりだ。
自分が重んじるべきは、猿投山の力が欲しいと手を差し伸べてきた、あの日の鬼龍院皐月だ。
少し前までその強さにあこがれ、嫉妬し、いつか越えてやると息巻いていた。
だが、皐月をあそこまで研ぎ澄まされた刃に仕立てた過酷な現実を知った今、新たな思いがこみ上げてくる。
(俺は皐月様の、最強の剣になろう)
蟇郡は最強の盾を公言している。それなら猿投山は剣となって、彼女の為に戦おう。
(あの人の為に出来るのは、そのくらいしかない)
その終幕で、皐月がその手を羅暁の血に浸す事になったとしても、修羅の道を共に最後まで付き従う。それが、皐月に選ばれた四天王の役目というものだろう。
「……はっ、全く……とんでもなく厄介な事に首を突っ込んじまったな」
苦笑して一人ごち、猿投山は足を動かした。
帰路を辿るその心中には、重苦しい決意がずしりと伸し掛かってくるようだった―。
* * *
……そして三年目。俺にとって鬼龍院皐月は、ただの女になる。
「本当に良いんですか、こんなもので。もっとお上品なところがお好みなんじゃないですか」
人で賑わう休日の街には、穏やかな日差しが降り注ぐ。
その一角にあるファストフード店の前に設置された、三人掛けのベンチに腰を下ろした猿投山が、再度確認する。
彼の手から、アイスティーとフライドポテト、ハンバーガーの箱が並んだプレートを受け取った皐月は、これがいいんだ、と屈託なく答えた。
「この間、流子に誘われて初めて食べてみたのだが、なかなか美味だった。
何より手軽に食べられるのが良い。食事に時間をかけていたら、街を探索する暇がなくなるしな」
「また隅から隅まで練り歩くつもりですか……。
そんなに面白いものばかりじゃないと思いますがね」
うへぇ、と呻いた口を大きく開いて、厚手の肉が三枚重なったハンバーガーにかぶりつく猿投山。
以前も皐月の好奇心を満たすべく、朝から晩まで、ありとあらゆる店を巡って疲労困憊したのを思い出したのだ。
「つまらないと言うのなら、無理につき合う必要はないぞ、猿投山。買い物くらい一人で出来る」
「無理ですよ。あんな山のように買い込むくせに、どうやって一人で持ち帰る気ですか」
これまで縁の無かった市井に降りたった鬼龍院の当主は、目に付くものが何もかも目新しいらしい。
街に出るたびに、気に入った物を次から次へと購入していくものだから、荷物持ちの同行は必須になる。
その供をするのはたいてい、恵まれた巨躯で買い物袋の山を物ともしない蟇郡だ。
しかし今日は彼が実家に帰っているとかで、暇を持て余していた猿投山にお鉢が回ってきた。
「どうせ使いもしないガラクタを、棚の端から端まで買うのはやめてくれますかね。
持ち帰るのも、部屋に置くのも限度ってもんがあるでしょう」
親指についたケチャップを舐めながら進言すると、もぐもぐとハンバーガーを食べる皐月が肩をすくめ、
「揃や流子にも注意された。……さすがに、控えようと思う」
ぽ、とその頬を紅潮させた。視界の隅で捉えたそれにどきりとして、猿投山はあわてて正面に目を戻す。
(この頃、急に殊勝な態度をとるから、困る)
最終決戦が終わった後、鬼龍院皐月はリボックスの総帥の座を継いだ。
羅暁の悪行が世に知れ渡り、日に日に高まる非難の声に真っ向から立ち向かう彼女は、本能字学園に君臨する生徒会長であった時と同じように凛々しい。
犯しがたい威厳は後光となって、その姿をより一層まばゆく照らし出している。
だがひとたびステージを降り、伊織手製の慎ましい服に袖を通した皐月は、いかにも令嬢然とした気品と、その年にふさわしい少女めいた、柔らかい雰囲気を醸し出す。
猿投山は、いや四天王の男達は皆そうだが、覇気に溢れた王者たる皐月しか知らなかった。
だから今こうして、年相応の顔を見せるようになった皐月には都度、動揺せざるを得ない。
「そういえば先日、流子にイヤリングをプレゼントしたら突き返された。こんな高価な物、危なっかしくてつけていられるかと言われたのだが……せっかく似合うと思ったのに、残念だ」
むやみにコーラを飲み続ける猿投山の様子に頓着せず、皐月はポテトを上品に口へ運びながら、眉を八の字にする。
どうすれば喜んでもらえるだろうか、と真剣に悩み始めるその横顔に、
(この人、こんなに可愛かったっけ)
そんな事を思ってしまう。
(以前は眉間にしわ寄せて喝を入れるか、無表情に見返すかだけだったもんなぁ。変われば、変わるもんだ)
今は眉根を寄せてはいるが、一度は失ったと思っていた妹を、愛情の加減も知らないまま溺愛する姉の表情は感情豊かで、優しさがにじみ出ている。
それが何だか落ち着かない。直視できなくて、つい目を背けてしまう。
「猿投山、お前はどう思う。流子にもしプレゼントをやるとしたら、お前は何にする?」
「……そんな事言われても、女へのプレゼントに何がいいかなんて、俺には分かりませんよ。まして纏相手になんて」
ずずず、と氷の溶けた水まで飲み干して、ストローから口を離す。
「そんなに悩むくらいなら、いっそ本人に希望を聞いたらどうです」
提案してみるが、アイスティーを含んだ皐月は首を振った。
「最初に確認してみたが、何も要らないと言うんだ。強いて挙げれば、満艦飾家の為になるようなものが欲しいと」
「そりゃまた、欲のない事で」
「もちろん流子の希望であれば、叶えるのはやぶさかではないが……私は、流子自身が喜ぶ何かをやりたいんだ」
生真面目な声音に惹かれて顔を向けると、皐月はスカートの上にバーガーを持った手を下ろし、俯いていた。その眼差しが不意に峻烈な光を帯び、鬼龍院皐月としての面が露わになる。
「正直、こんな日常を送れるものとは思っていなかった。私はずっと羅暁を倒す事を志していた。
死力を尽くした戦いになるのは自明の理だったし、相打ちも止む無しと覚悟を決めていた」
バーガーの最後のひとかけを片づけ、目を細める皐月。ナプキンで油を拭ったその唇が、ふと柔らかく綻び、笑みを形作る。
「しかし、思いがけず新しい家族を得る事が出来て、私は一人ではないのだと知った。
むろん揃や伊織、お前達四天王が、ずっと私を支えてくれた事には感謝している。己のみの力で全てを成し遂げたなどと言うつもりはない。だが―」
「……そりゃ、家族は別でしょう。それも、死に別れたと思ってた相手なら」
くしゃり、と紙の包みを握りつぶし、猿投山は穏やかに言葉を継ぐ。皐月の言いたい事は分かる気がした。
(この人はきっと、五歳の時から孤独だった)
まだ小さな子供の内から、父親を失い、自身の母親を敵と見なさなければならなかった過去。その心中はきっと、風が吹きすさぶように空疎だったろう。
心に空いた穴は、忠実に仕える執事や、心から彼女を信じる幼なじみ、忠信を捧げる四天王や彼女を尊ぶ者達からの信頼で、ある程度は埋められただろうが―血のつながった家族を憎み続けてきたのは、いかに強靭な精神を誇る皐月であっても、辛かったのではないか。
(俺の勝手な想像だ。また蛇崩に何も分かっちゃいないと、怒鳴られるかもしれねぇが)
「―姉貴風なら、好きなだけ吹かせりゃいいじゃないですか、皐月様」
「え?」
空になったポテトのパックを平らにし、紙の包みを丁寧に畳む皐月が顔を上げる。きょとん、と無防備に目を見開くその表情が何となくおかしくて、猿投山は笑ってしまった。
プレートにぽいとごみを投げ、横に座った皐月の方へ体を向けて、
「やっと巡り会えた大事な妹なんでしょう。あいつを喜ばせたいってんなら、何がいいのか分かるまで、何度でもプレゼントしてみりゃいい」
「そうすると、喧嘩になりそうだが」
「喧嘩なんて今更じゃないすか、あれだけやりあっておいて。姉妹喧嘩上等、好きなだけやればいいんですよ」
そして手を伸ばして、小さな頭にぽん、と手を置いてみた。避けられるかもしれないと思ったが、皐月は亀のように首をすくめただけで、されるがままだ。こういうところも以前とは全然違うと感じながら、切りそろえられた艶やかな髪をくしゃくしゃっと撫でる。
「喧嘩もプレゼントも、お互い生きてるから出来る事だ。皐月様と纏はまだ姉妹一年生なんだから、思う存分、互いに甘えりゃいいんですよ。
もうどこにも敵はいない。あなたも纏も、普通の女の子に戻っていいんだ」
「……猿投山」
「―なんて、気障な事いっちまいましたね、俺の柄じゃねぇや」
何を熱く語っているんだか、と少し恥ずかしくなって、猿投山は立ち上がった。
すっかり食べ終えた二人分のプレートを持って、近くのゴミ箱に片づけに行く。そして皐月の元へ戻り、すっと手を差し出した。
「それじゃ行こうぜ、皐月様。今日は纏へのプレゼント探しをするんだろ? 仕方ないからつきあってやるよ」
照れ隠しに憎まれ口を叩く。
と、こちらを見上げた皐月は、ゆっくり瞬きをした後、
「……ああ、そうだな。今日も夜までかかるだろうから、先に謝っておく」
その手を重ね合わせてくる。立ち上がるのを手伝いながら、猿投山はニヤリと笑ってみせた。
「謝るくらいなら、また道場の稽古につき合ってもらえませんかね。三年になってから一度もやってないから、俺はあなたに負けたままだ」
「私はいつでもいいぞ。奥義を会得したお前の強さを見てみたいしな」
「そんなにあっさり受けて、後悔しても知りませんよ。神衣も無いんだし」
「抜かせ。純潔に頼らずとも、そう易々と敗北を喫する私ではないぞ」
「それはこっちの台詞だ。俺はもう誰にも負ける気がしません」
他愛ない会話をしながら、人々が行き交う大通りを並んで歩いていく。
―立つ時に貸した手は、離すきっかけを逸して、何となく繋いだままだ。それに気づいていないのか、楽しそうに話している皐月に答えながら、猿投山はふと思った。
(あなたに出会って三年。こんなに距離が近くなるなんて、思いもしなかった)
越えられない壁だと思った。
誰も寄せ付けない、冷たく孤独な人だと思った。
だが全てが終わった今、彼女はただの少女として、彼の隣にいる。
(これから先、あなたはどう変わっていくのか。俺は、どう変わっていくのか)
未来の事は誰にも分からない。それでも、一人の男としてこの人と並び立ちたいという気持ちは、日に日に強くなる一方だ。
(願わくば、俺があなたの最強の剣であり続けられるように)
鬼龍院皐月にとって、猿投山渦が唯一無二の存在であるように。そして、この人がずっとこうやって優しく笑っていられるように。
……そこまで考えて、急に気恥ずかしくなる。
(ほんっと、柄じゃねぇな)
強い奴を見て、戦いたい、じゃなく、守りたい、と思うなんて。
「ん? どうした、猿投山」
つい苦笑してしまうと、皐月がそれに気づいて問いかけてくる。猿投山は笑みを口に残したまま、
「いや、何でもありませんよ。―ただ、平和だと思って」
そう答えて、つないだ手を離そうとした。皐月はそこで初めて気づいたように見下ろし、
「……そうだな。平和で、幸せだ」
「!」
指が離れる前に柔らかく握って、捕えてしまう。まさか手をつながれるとは思ってなかったので、猿投山はぎょっとして振り返った。ばち、と視線が真っ向からぶつかった瞬間、
「どうした、猿投山。何か問題でもあるか?」
皐月がにっこり、何の文句もつけられない満面の笑みを浮かべてみせた。それをまともに見てしまったせいで、
「…………、な、何でもないっす」
みっともないくらい赤くなっているだろう顔を手で隠し、猿投山はもごもごと呟く。
こんな反応をしたら、これから先ずっとからかわれるのに違いないと思うのに、
(くそっ、なんでこんなに嬉しいんだよ、俺は)
ドキドキと勝手に鼓動を速める心音に動揺しながら、恐る恐る、壊れ物を扱うように皐月の手をそっと握りしめた。
―そうしてまた、俺とあなたの時間は廻っていく。これからはきっと、もう少しゆっくりした時の中、あなたに近いこの距離で。