辿るは女神の足跡19

 幼い頃から、夢に描いてきた光景がある。それは他人にとっては当たり前で他愛のない、しかし彼にとっては夢のような情景――

『アリスター、お帰りなさい』
『やぁただいま、母さん。夕飯には間に合ったかな?』
『ちょうどぴったりよ、アリスター。さぁ手を洗ってきて』
 穏やかで満ち足りた表情の母が自分を出迎え、優しく抱擁してくれる。言われるまま手を綺麗にして食卓につくと、姉のゴルダナが料理をとりわけた皿を差しだした。
『今日はどうだった? 私の弟は大活躍できたのかしら』
 からかうように笑いかけてくる。ぼちぼちさ、と肩をすくめる彼の隣から甥が身を乗り出してきて、
『おじさん、今日もオーガを倒してきたの? ダークスポーンを蹴散らしてきたんだろっ?』
 冒険活劇を聞きたがって、目をきらきらさせる。
『そうだなぁ、今日はざっと二十体ばかり、なぎ倒してきたかな』
 その頭を撫でながら何でもない事のようにさらっと告げると、甥は頬を紅潮させてすごいや! と声を上げた。
『くわしく聞かせてよ、おじさん!』
 興奮して椅子から転げ落ちそうになる甥に、ゴルダナが困ったように微笑む。
『だめよ、おじさんのお話はご飯を食べてからになさい』
『えー、でも』
 不満そうに口を尖らせる甥の頭をくしゃくしゃ撫でて、アリスターも笑う。
『そうだぞ、後の方がいい。あんまり食べてる時に聞きたいような、気持ちのいい話じゃないしな』
 そういうと甥ははぁい、とおとなしく椅子に身を戻す。
 そこで皆は手を組み、日々の糧を与えてくださる主への感謝をるる綴ると、にぎやかな食事を始める。話す内容はどうという事もないが、笑いの絶えない食卓はいつ囲んでも楽しい――

 ――そんな夢を、アリスターはずっと胸に秘めていた。デネリムで姉を訪ねてみて、結局そんなものは幻想にすぎないと思い知らされるまでは。

「――アリスター、大丈夫か?」
 異民族区での騒動をおさめた後。
 その後始末を手伝ったグレイ・ウォーデン達は、シティエルフ達からなけなしのお礼として、皿いっぱい分のシチューを振る舞われた。
 今にも崩れ落ちそうな家の中では落ち着かず、屋外の集会場に腰を下ろした一行は、味があまりないそれをちびちびと口につけていた。
 アリスターがシャーリィンから声をかけられたのは、そんな時である。顔をあげると、白のエルフが心配そうな表情でこちらを見下ろしている。
 隣に座ってもいいか、と目で尋ねてきたので頷く。シャーリィンはふわりと座り、もう一度「大丈夫か」と聞いてきた。アリスターはため息をついて、
「大丈夫って何がだ? 怪我なんてしちゃいないぜ」
 やや投げやりな口調で答える。シャーリィンは眉根を寄せた。
「それは分かってる。そうではなくて、――ゴルダナの事が気がかりなんじゃないかと思って」
「…………」
 心尽くしのシチューの味が、さらに分からなくなる。砂を噛むような気分になって、アリスターはスプーンを置いた。
「俺はそんなにひどいか? はたで見ていて分かるくらい」
「そうだな……さっきからため息を何回もついている。元気がないのは、皆気づいているんじゃないか」
「あー……はは、そうか、参ったな。これでも気持ちを切り替えたつもりだったんだが」
 やはり自分は精神が未熟だ。情けなくなってもう一度ため息をつき、謝罪を口にする。
「済まなかったな、シャーリィン。わざわざ付き合ってもらったのに、あんな事になって」
「いや、私は構わないが……」
 少し困ったように言いよどむのは当然だろう。一緒に行ってくれと頼み込んで訪ねたアリスターの実姉ゴルダナが、彼を散々詰り、金までせびって追い出すような女だったのだから。
「気にするな。きっと姉君は、突然の訪問に驚いて、つい言葉がきつくなったんだろう」
「そうかもしれないが、不意打ちだったからこそ、本音が出たのかも知れない。――まさか恨みに思われてたなんてな。そりゃ、少しは考えもしたけど」
 膝の上に頬杖をつき、アリスターはぼんやり遠くを眺めた。
 シティエルフが一カ所に押し込められた異民族区は荒れ果て、目を潤わせるものはほとんどない。そしてここまでではないとはいえ、ゴルダナの家もまた質素だった。金を無心してきたところから見ても、暮らし向きは豊かではないのだろう。
「きっと相当、苦労したんだろうな。もし俺を産んだ時に母が死ななければ……もし俺が産まれなければ、彼女にはもっと違う生活があったかもしれない」
 するとシャーリィンは首を振り、怒った顔でシチューをかき混ぜる。
「そんな事を言うな、アリスター。そうなった原因は父親のせいであって、お前が悪いわけじゃないだろう。
 父君の事を悪く言いたくはないが、彼はゴルダナにもお前にも、きちんと誠意を見せるべきだったんだ」
「……まぁ、そうはいってもな。ケイランも居た事だし、仕方ない面はあったと思うよ」
 若い頃の自分もこんな風に怒って、イーモン伯爵に散々迷惑をかけたっけ。苦く笑いながら思い返し、アリスターは再びシチューを口に運んだ。
 母が召使いだったとはいえ、アリスターはマリク王の血をひく男子には違いなかった。あのまま城にとどまっていれば、王位継承のごたごたに巻き込まれて、最悪死んでいただろう。
「俺自身についてはもう整理がついているからいいんだ。父親が居ない、ただの平民の人間だって折り合いをつけてる。だから今更、担ぎ出されてもな」
 過去から現在の厄介ごとに思いを馳せ、アリスターはますます気が重くなる。
 イーモン伯爵はアリスターを次の王に据える気らしい。
 いくらアノーラ女王がこれまで実質的に国を治めてきたといっても、彼女は王家の血を一滴も引いておらず、世継ぎもない。
 オーレイを打ち破って立てた王の血筋を、たった二代で絶やしたくはない――イーモン伯爵がこだわるのはその一点で、アリスターが実際玉座に向いているかどうかなど、度外視しているのだ。
「お前は王になりたくないのか?」
 周囲をはばかって声を潜めつつ、シャーリィンが尋ねてくる。そりゃそうだろ、とアリスターは肩をすくめた。
「一体誰が俺に、王が向いてるなんて期待するんだ?
 これまでの道中だって、俺はずっとお前の後をついて回るだけで、自分で判断なんてしてこなかったんだ。それを一生続けたいとは思わないが、いきなりこんな重荷を背負わされたって、失敗するに決まってる」
 それに、と皿の底をスプーンでかしかし擦りながら呻く。
「今までアノーラが上手くやってたんだから、彼女に引き続き任せればいいじゃないか。そりゃ王家の血は入ってないかもしれないが、有能なのは間違いないんだから。イーモン伯爵が彼女を良く思ってないのは分かってるが」
「私だってあの女は嫌いだ」
 と、不意にシャーリィンが言い切った。むっとした顔をしながら、周囲の荒廃した景色を手で示し、
「アノーラが有能だとしても、民がそれで幸せかどうかは別じゃないか? 
 もし彼女が公平な考えの持ち主なら、エルフはどうしてこんなところに押し込められて、挙げ句、政争の道具にまで使われているんだ」
「……」
「あの女はエルフを見下している。隠そうとしてはいるが、私に対しても時々小馬鹿にしたような態度をとる事がある。あの女がたとえ女王であっても、私は敬意を持てないな」
「シャーリィン……それ、諸侯会議で言う気か? ちょっと、エルフにだけ肩入れしすぎじゃないか」
 グレイ・ウォーデン、しかも異種族混合の四軍を結束させた立場の者が言うには、かなり感情的な発言だ。最近はなりを潜めていた人間嫌いが復活したのかと危惧すると、果たして彼女は頷き、
「エルフだけじゃない。ゴルダナだって、もう少しましな暮らしをしても良いはずだとは思っただろう? アリスター」
 真っ直ぐ彼を見つめたので、アリスターは思わず息を飲んだ。なぜここにゴルダナが出てくるのか、と問いかける視線に、シャーリィンは続ける。
「デネリムは王を掲げた、フェレルデンの中枢ともいえる都市だ。ならばもっとも栄え、民が幸せに暮らしている場所でなければならないのに、あの有様はなんだ?
 シティエルフのみならず、一部の人間達は日々の暮らしに貧し、路頭に迷って残飯をあさるような状態だ。一歩路地裏に入れば、強盗が幅を利かせていて、抵抗出来ないまま無惨に殺されて、道ばたに転がされる。
 おそらくあのドラコン砦にだって、私達のように無実の罪で投獄されて、死んだ者が数多くいるに違いない――そんなおぞましいところがどうして、王の街なんだ?」
「それは……、人が多く集まれば、ある程度は仕方ないことなんじゃないか?」
「ある程度? アリスター、ここに来るまで一体何人の物乞いに出会った? 何人の子供に、小銭をせびられたと思ってるんだ」
 シャーリィンは今やふつふつとわき起こる怒りを抑えきれないらしく、スプーンを握りしめて瞳を鋭く光らせる。
「これほど多くの者達が不幸のままでは、たとえブライトを生き延びたとしても、意味がない。これがアノーラの良しとする国なら、私は絶対に認められないぞ」
「シャーリィン……」
 アリスターは気圧されて、声を失ってしまった。
 シャーリィンがただ単に人間嫌いでアノーラに反発しているのなら窘める必要もあるが、彼女の言い分はフェレルデンを憂えるものの言葉だ。おそらくアノーラなら、国を治めるにはそんなきれい事だけでは済まないと言うだろう。だが、アリスターの心にはシャーリィンの怒りが強く響いた。
「……そうだな……」
 膝の上で拳を握りしめ、アリスターは呟く。
「お前の言うとおりだ。皆、もっと幸せに暮らす権利があっていいはずだ」
 どうすればそれが叶うのか。一介の戦士の身では分かるはずもない。だが彼には、もう一つの道が示されている。
「アリスター」
 ふとシャーリィンの声音が和らいだ。視線をあげると、先ほどまでの怒りをぬぐい去り、例の、神々しさをも感じさせる柔らかい笑みがこちらに向けられている。
「私は、お前は良い王になると思う」
「……驚いたな。お前がそんな事言うなんて、ちょっと考えてなかった」
 今まで彼の情けない姿を散々見てきただろうに。お世辞を言うなんて珍しい、と気弱に笑ったが、シャーリィンは真剣だ。
「以前お前は、偏見で目の曇った私を諭してくれた。あの時の言葉は今も忘れてはいない――むしろ日に日に強く心に刻みつけている。
 アリスター、お前は自身で思っているよりも、立派な男だ。強さを知り、弱さを知り、他者を思いやる事を知っているし、努力する事も出来る。それならきっと、お前は良い王になれると思う」
 そこですっと伸ばされた手が、彼の小手に触れる。かつてケイラン王が身につけていたそれに刻まれている、王家の紋章を優しく撫で、
「お前なら、ケイランのように堂々として、きっと彼よりも優しく強い王になれる。――私はそう信じているぞ、アリスター」
「…………は……」
 シャーリィンの笑顔は美しく輝かしく、そこには紛れもなく、アリスターへの全幅の信頼が浮かんでいた。それに見とれているうちに、胸に重くつかえていたしこりが、不意にのぞかれた気がして、肩の力が抜ける。
「……参ったな。そこまで期待されてるなら、裏切るのも悪い気がしてきた。お前、いつの間に、そんな口達者になったんだ?」
 澄んだ碧の瞳が、むっと半眼になる。
「アリスター、真面目に聞け」
「いや、悪かった。ちょっと驚いちまった」
 手でなだめる仕草をしながら、アリスターは口の端をあげた。
 まだ迷いは晴れない。
 自分が王になるかどうかは諸侯会議の行く末次第だし、万が一そうと決まったところで、ブライトであっさり死んでしまうかもしれない。先行きは不透明で、自身に課せられた責務の重さは変わらないが、
「――ありがとう、シャーリィン。お前にそう言ってもらえると心強いよ」
 ここまで共に歩んできた戦友の信頼は、何にもまして彼を勇気づけた。
 心の底からの感謝を言葉にすると、彼女は大丈夫、というようにニッコリ笑って、シチューに再び取りかかった。アリスターもそれにならって、すっかり冷めたそれを口に運ぶ。
(フェレルデンの人々の思いがこもった、大事な食事だ)
 それならば一滴も残さず、大事に食さなければ。
 それまでとは全く違う心持ちで、アリスターはしみじみ味わってシチューを平らげた。塩気も具もほとんどない粗末なシチューが、この時は何にも勝る馳走のように思えて、何だか胸が温かくなるようだった。