辿るは女神の足跡15

 まだ、わき腹が痛い。もしかしたら骨にひびでも入ってるのかも知れない。窓の外を漫然と眺めながら脇をさすり、ゼブランは疼痛に顔をしかめた。
(当然か。グレイ・ウォーデンの蹴りをまともに食らったからな)
 か弱い見た目に反して、シャーリィンは剛力だ。元からとは思えないから、きっとグレイ・ウォーデンになった作用だと思うが、ベッドに仰向けになった状態で、男一人蹴り飛ばすというのは、やはり尋常ではない。
(ウィンに治してもらうにも、怪我の原因を話すわけにもいかないし……まぁ、自業自得か)
 苦笑して、窓辺に寄りかかる。外は昼、中庭を挟んでデネリムの市場がかいま見え、人の往来は多い。
 レッドクリフ伯邸に逗留して二日目。街の偵察を終え、次の一手を相談する伯爵と一行の元へやってきたのは、アノーラ女王の侍女アリーナだった。
 父ロゲインが夫を見殺しにしたのではないかと疑っていた女王は、ロゲインの側近ハウに真相を問いただしにいったが、逆に監禁されてしまったのだという。
 このままでは殺されてしまう、どうか女王を救い出して欲しいと涙ながらに訴える侍女の話は、罠の可能性も十二分に秘められていたが、かといって捨ておけるものではなかった。
 もし真実であれば、女王を救出すれば彼女を味方につけ、諸侯会議を有利に進められる。
 短くも白熱した議論の後、シャーリィンは救出を決意した。即座に準備を整えて出掛け、今はデネリム伯邸に潜入しているはずである。
 残った者達は吉報を待って待機しているのだが……その内の一人、ゼブランはずっと落ち着かない気持ちで、館の正門の方を窺っていた。
(さすがに置いていかれた、か)
 ハウの館へ潜入するメンバーは、シャーリィンが選んだ。
 アリスター、スタン、そしてレリアナ。どのメンバーも不測の事態が起きた際には十分対応出来るし、全く問題のない人選だ。しかしレリアナの名が呼ばれた時、ゼブランは胸の内にざわめきを感じずにはいられなかった。
(彼女より僕の方が適任だろうに)
 レリアナもゼブランもローグなので、役割は同じだが、今回は兵士に変装しての潜入である。女のレリアナより、男のゼブランのほうが、目立たないだろう事は自明の理だ。
 それにもし屋内で戦いになれば、混戦状態で弓を使うのは難しい。普段なら間違いなく、二刀使いのゼブランが、メンバーの一人に入れられていた事だろう。
 だが、選ばれなかった。その理由は明白だ――自分が、彼女の信頼を裏切ったから。
(完全に無視されたな)
 縁に手をつき、窓をのぞき込みながら、その実ゼブランの目に映っていたのは、今朝のシャーリィンの姿だけだった。
 青ざめ、いかにも具合の悪そうな様子で現れたシャーリィンは、皆と話をしている間ずっと、ゼブランを無視し続けた。
 仮面のように無表情を保った麗しい面差しの奥で、彼女が何を考えていたのかは分からない。それもまた当然の反応だろうと、ゼブランも言葉少な、目立たないように控えていたが、それでも胸が痛むのはどうしようもなかった。
(全く……何もかも予想通りすぎて、いっそ笑えてくる)
 ぐいと髪をかきあげ、ゼブランは自身を嘲笑する。
 以前シャーリィンの水浴びを覗いてしまった時、彼が欲望をさらけ出して襲いかかったら、彼女は本気で拒んで激怒するだろうと想像していたが、今はまさにその状況だ。
 思い描いていた最悪の状態がそのまま現実になってしまった事に、我ながら呆れずにはいられない。
 暗殺者として、常に気持ちを行動と切り離し、自身を律してきたというのに、この有様はなんだろう。
 自分でも制御できない心の高ぶりを持て余し、焦がれた女神を手に入れる事も叶わず、今は主の為に戦う事さえ禁じられている。
 黒カラスきっての凄腕暗殺者であり、辻々で女を泣かせる色男として名を馳せたゼブラン・アライナイは、一体どこへ行ってしまったのか。
(とはいえ、あれはシャーリィンだって悪い点があるぞ。何だって自分の父親の形見なんかを、僕にあげようとするんだ)
 あの小手は一見して古いが、よく手入れがされていて、長い間大事に使われてきたのがよく分かる代物だった。
 彼女の事だ。きっともう居ない父親を偲び、ずっと大切にしていたのに違いないのに、ちょっと母親の小手について話しただけのゼブランにそれを与えようとするなんて、浅はかにも程がある。
(きっと相手がアリスターだろうと、マバリ犬だろうと、今回と同じ事をするに違いない。シャーリィンは一度心を開いた相手に対して、無防備になりすぎるきらいがある。計算してやってるのなら大した悪女だが、あれはきっと無意識なんだろうから、よけいにたちが悪い)
 小手の由来を聞いた時に受けたあの衝撃を思い出すと、今でも苦々しい気分になる。
 すがる子供のようにきらきらと輝く瞳で、ありもしない自身の失態について許しをこうシャーリィンはあまりにも愛らしく、あまりにも無邪気で、無性に怒りがこみ上げた。
(僕はもう、君に近づかないようにと思っていたのに)
 結局彼女は自分を男として見てはいないのだと。彼女が愛した男はタムレンただ一人だけなのだと思い知らされたような気がしてたまらなくなって、――気がつけば、彼女の唇を無理矢理奪っていた。
(本当に、とろけるような柔らかさだった)
 感触を思い出しながら親指で唇をなぞると、ついため息が漏れる。シャーリィンとの口づけは夢のように甘く蠱惑的で、思い出すだけで体が熱くなった。
 それでも最初は口づけだけで済まそうと思っていたのに、抵抗していたシャーリィンがやがて息を乱してあえぎ、うっとりした瞳で彼を見つめたから、理性はそこで完全に吹き飛んでしまった。
(あのままシャーリィンを抱いてしまいたかった)
 アリスターに戯れて語ったように、あの真っ白な肌の隅々にまで口づけし、夢もうつつも分からなくなるほど快楽に溺れさせ、その瑞々しい体の深奥まで貪り尽くし、何もかも自分のものにしてしまえたら――そのまま死んでも構わないとさえ思う。
 身を切るほど切実に希い、だがもはやその願いが潰えてしまった事に、ゼブランはほとんど絶望していた。
(シャーリィンは決して、僕を許さないだろう)
 床にはいつくばる彼に剣を突きつけたシャーリィンからは、紛れもない殺意を感じた。もしあの時何かもう一言口にしていたら、彼女はゼブランを殺していただろうし、そうすべきだったのだ。
 苦悩しながら、ゼブランは拳を額に当て、きつく目を閉じる。
 何の感情も窺わせない鉄壁の美貌を背け、ゼブランの存在を無いものとして振る舞うシャーリィンを前にして、どうして心安らかでいられよう。
 あんなふうに無視されるくらいなら、憤怒の眼差しを向けられ、ひと思いに殺された方がよっぽどましだ。
(彼女が無事に戻ってきたら、今度こそ間違いなく、僕の罪を裁いてもらおう)
 ふー、と長く息を吐き出し、ゼブランは再び瞳を開いた。しかし窓の外にまだ待ち人の姿は見えない。心が逸る。いっそ館を抜け出して、様子を見に行こうか――そう思った時、ふっと硝子に人影が映った。
「ゼブラン。ちょっと、こっち向きなさい」
「……何か用かな。モリガン」
 向き直ると、そこには魔女の娘が立っていた。常にも増して苛々した様子で腕組みをして、
「シャーリィンに妙な真似をするなという警告はきかなかったみたいね。
 どういう死に方がお好みか、聞いてもいいかしら。氷漬け? 黒こげ? それとも、大蜘蛛に頭からばりばり食べられるのはどう?」
 まるで冗談に聞こえない殺気だった口調で言いはなってくる。
 おや、とゼブランは口の端に笑みを浮かべ、窓辺にもたれて両肘をついた。モリガンへ掌を向けて、
「僕を退治するのはアリスターに譲るんじゃなかったのか? 魔女の娘自らかってでるとは、光栄だな」
「アリスターは今居ないもの、代わりを誰かが務めなきゃいけないでしょう? ぐずぐずしてたら、あの子が帰ってきてしまうし」
「なるほど、親友たるシャーリィンの手を煩わせるまでもないって事か。この暗黒の時代に友情篤い事はすばらしい、泣かせるね」
「ねぇ、その軽口のせいで死ぬ羽目になるかもしれないって考えた事はないの? ゼブラン」
 ゼブランは肩をすくめた。何をどういったところで死を免れ得ないのなら、好きに喋らせて欲しい。もっとも、モリガンの手にかかって死ぬつもりはないけれど。
「モリガン、君はもう事情を知ってるみたいだね」
 とりあえず話題を変えてみると、モリガンは眉間のしわを深くして、はーっと大きくため息をついた。
「レリアナがシャーリィンを私の部屋に連れてきたから、朝まで散々泣き言につきあわされたのよ、おかげさまでね」
「そうだったのか? ちっとも気づかなかったな」
「夜中にわんわんぎゃんぎゃん、たいそうな騒ぎだったわ。全く、こっちはすっかり寝てたってのにたたき起こされて、良い迷惑よ」
 そう言いながらも最後までつき合ったのだろう、今日はひときわ目元の化粧が濃い……とは気づいていたが口にせず、ゼブランは密かに納得した。
 なるほど、今日はシャーリィンのみならず、レリアナとモリガンの態度が妙に冷たいと感じたが、そのせいか。
「とにかく話は嫌ってほど聞かされたから、事の次第は了解してるわ。その上で聞いてるのよ、どんな風に死にたいのかってね」
 モリガンの声は冷え冷えとして、鋭く尖った氷のようだ。ゼブランはハ、と短く笑って目を伏せた。
 その憤りは故あるものだ。ゼブランの所行を聞けば、彼女たちが怒り心頭になるのも無理はない。だが、
「――あいにく、君に殺される訳にはいかないな。僕に裁きを下せる人は、今ここにいない」
 静かに呟く。モリガンが眉を上げ、口を曲げた。
「シャーリィン手ずから殺してもらいたいという事? ずいぶん殊勝なのね、あんな狼藉をしたわりには」
「あぁ。僕の命は、彼女のものだからね」
 胸に手を当て、苦く笑う。
 そう、このゼブランに死の鉄槌を下せるのはシャーリィンだけだ。もし彼女がそれを疎んじようと、ゼブランは彼女以外にこの首を渡す気はない。
「君の怒りはわかる。だが、シャーリィンの帰還まで待ってくれないか。今度は命乞いもする気はない、黙って彼女の裁定に従うから」
「……それが当てにならないっていうのよ」
 ぼそっとモリガンが呻き、それを聞き咎めてゼブランは視線を向けた。どういう意味だろうか。
「この期に及んで彼女が僕に情けを与えるとでも? そんな期待はしていないけどな」
 問いかけるとモリガンは苦虫を噛み潰したような顔でなにやら口を動かし、
「つまり……あの子は……」
 もごもごと言いよどんだ時。
『……開けて! 早く中へ!!』
 不意に切り裂くような叫び声が外から飛び込んできて、二人をむち打った。
 びくっとして振り返ると、館の門がきしみながら開き、外からなだれ込んでくる一団が見えた。ロゲインの兵士の格好をしているが、さっきの声は間違いなくレリアナのものだ。
(戻ってきた!)
 ゼブランはだっと走り出し、館の中を駆け抜けて、蹴りやぶる勢いで表への扉を開いた。陽光が降り注ぐ中庭に突如現れた一行は誰も彼も傷つき、激しい戦闘の跡が目にも明らかだ。
「シャーリィン!」
 いつもの装束でないため、どれが彼女かわからない。駆け寄ったゼブランは、地面に座り込んだ女性らしき人物の兜を勢いよくはぎ取ったが、
「きゃっ!」
 その下から現れたのは、やつれて怯えた目をした人間の女だった。以前遠目に見ただけだが、その面立ちは聞き知っている。
「……アノーラ女王?」
「何者です……無礼な! お下がり!」
 まじまじと見つめるゼブランに、女王は居丈高に言いはなって顔を隠した。その言いぐさに苛立ちを覚えたが、ゼブランはぱっと顔をあげて再度シャーリィンを探す。
 だが――次々と鎧を脱いで息を吐くレリアナ、スタン、女王を労る侍女アリーナのほかに、姿はない。
「……シャーリィンとアリスターは? どこへ行ったの?」
 ゼブランから遅れてたどり着いたモリガンもまた、訝しげに見回しながら尋ねる。するとレリアナがあぁ、と痛恨の呻きを漏らし、血を帯びたアサラを地面に突き立てたスタンが重々しく答えた。
「我々は敵の待ち伏せに遭った。パシャーラは女王を逃がせと言い残し、アリスターと共に最後まで残った――おそらく死んだか、敵の手に落ちただろう」

 その言葉を聞いた瞬間。
 ゼブランの目に映る世界が不意に色を失い、何も聞こえなくなった。