辿るは女神の足跡3

 一体あと、どれだけ殺せば。
 この悪魔は消えて無くなるのだろうか。

 弦が弾け飛んだ後、武器を剣に持ち替えて戦う。弓と違い、刃は肉を裂き、血に塗れて命を奪う感触を直接伝えてくる。それを恐ろしいと思ったのは、まだ戦う事を知らなかった頃だ。今は敵を殺す事を躊躇いはしない。そうしなければ自分や、自分が背負うものを守れないと知っているから。しかし、だが、それだけではない。自分が剣を振るうほど、ダークスポーンと呼ばれるおぞましい生き物が倒れていく。それが、震えるほどに喜ばしく、憎悪の炎は更に勢いを増してこの身を焼く。
 もっと。あぁ、もっとだ、もっとたくさん殺さなければ、そうしなければ――そうしなければ――

 ……ン……リィ……シャーリィン! もういいの、落ち着いて!」
 不意に間近で声が弾け、びくりと体が揺れた。勢いよく振り返ると、レリアナが彼女の手を掴んでこちらを見つめている。ひどく顔色の悪い彼女はシャーリィン、と小さくつぶやき、首を振った。
「……もう戦いは済んだわ。それも、とっくに息を引き取っているのよ、分かる?」
「……」
 レリアナの視線をたどって見下ろすと、地面に血塗れの死体が転がっていた。千々に切り刻まれたそれはもはや原型をとどめておらず、どす黒い血と臓物をまき散らしていた。
「あ……あ」
 シャーリィンはぼんやり答え、周囲に視線を向けた。森の中でダークスポーンに襲われる旅人達を助けに入った一行だったが、首尾良く撃退したようだ。それぞれの得物をしまうパーティーの仲間は、しかし何か言いたげな、重苦しい表情でこちらを慎重に窺っている。
「……あぁ……」
 そうか。終わったのか。シャーリィンはゆっくりと現実を認識しながら、自身を見下ろす。
 その白い体は今、ダークスポーンの返り血を浴びて、どす黒く染まっていた。手も、腕も、鎧も、足も、自分では見えないがおそらく顔も髪も何もかも、血に濡れてしまっているだろう。
(グレイ・ウォーデンでよかったな)
 的外れに、そんな事を思う。普通のエルフであったなら、これほど血を浴びては、穢れに冒されて狂っていた事だろう。穢れに、冒されて……
(何を今更。私はとうの昔に)
「シャーリィン……とにかく、その血を落としましょう?」
 洞窟。鏡。脳裏を過ぎる情景に、めまいがする。ぶるりと身震いした時、レリアナが肩に触れ、優しく声をかけてくる。
「あちらに湖があったわ。一緒にいってあげるから、水浴びをして、身を清めましょう」
「……一人で、いい」
 清めなど何の意味があるのか。そう皮肉に思い、しかし徐々に現実の感覚が蘇ってきて、血の臭いに鼻が曲がりそうだ。
 シャーリィンは、一人じゃ危ないわ、と声をかけてくるレリアナを振り切り、湖があるという方へずかずか歩いていった。
 その背中に、襲撃から命を救われた旅人達の、今なお恐怖に怯える囁き声が追いかけてくるのも、無視して。

 森の中にぽっかりと開いたその場所には、澄み切った湖が静かに横たわっていた。
 その縁で血塗れの鎧と服を脱いだシャーリィンは、足先からゆっくり水の中へ身を沈めた。
 春の時分、湖の水は柔らかな冷たさでこの身を受け入れてくれる。むき出しの手足にべっとりこびりついた血はするするほどけ、清浄な水を汚していった。
(この湖に悪影響がなければいいが)
 そんな事がちらりと頭をかすめたが、しかし汚れが落ちていくのを見たら、他の箇所もはやく綺麗にしたい気分になってくる。
 シャーリィンは浅瀬から、湖の中央に向けて歩を進めた。地面はある程度進むと、足が届かなくなるほどぐっと深く沈む。そのぎりぎり立っていられる位置まで歩き、それから地面を蹴ってゆっくり泳ぎだす。
(あぁ、気持ちがいい)
 旅の最中にあっては、こうして水浴びが出来るのは貴重な機会だ。泳いでいる内に、戦いに溺れた心も、少しずつ熱を冷ましていく。
 ぱしゃぱしゃと音を立てて水面を滑り、頭を沈めて水中へも潜る。小さな魚の群を横目に追いかけると、自身が泳いだ後に血の線が延びていくのも見えて、シャーリィンは眉間にしわを寄せた。息苦しくなる前に再び上昇し、
「はっ……」
 勢いよく飛び出してぶるぶる頭を振ると、赤の混じった水滴が飛び散った。濡れた髪をかきあげ、改めて自分の体を点検する。
 弓で戦う普段とは違い、今回は剣を使っての接近戦になった為、いくらか怪我をした。だがそのどれも軽傷で、ウィンの治療を受けるまでもなく、放っておけば治るだろう。
 けれど、水をすくいながら見下ろした両手に、シャーリィンはふっと顔を曇らせる。あまりにも強く剣の柄を握りしめたせいか、その掌はすり切れて皮がむけ、くっきりと爪の食い込んだ跡を残していた。
(……こんなになるまで、戦っていたのか)
 水がしみてひりつく手を見つめるが、よく思い出せない。
 彼女が覚えているのは、醜いダークスポーンの姿を目にして、燃え上がるような怒りと憎悪に駆られ、弦が切れるまで弓を放った事。その後、剣を抜いたような気もするが……記憶にはもやがかかっている。
(あぁ……)
 熱い固まりが不意にこみあげ、シャーリィンは顔を覆った。泣いてはいけないと自身に強く念じながらも、しばし目を閉じる。
 戦いを恐れはしない。自分は戦士だ。血にも、肉を裂く感触にも、慣れている。なのになぜ、こうも体が震えるのか。
(ダークスポーンを消し去りたい)
 その思いはまるで細く研ぎ澄まされた刃のように深く、深くシャーリィンの胸に突き刺さっている。それは自身がこの旅を続ける大きな理由であり、尽きる事のない憎悪の証でもあった。
(奴らが――あの穢れがなければ、私はまだ部族と共にあっただろう。そして――タムレン。お前もまた、そばにいてくれただろう)
 そしてその憎しみは悲しみと表裏一体だ。名を思い出し、姿形を描き出すと、心が砕け散りそうになる。
 両親を亡くしたシャーリィンは幼い頃からずっと、同じ部族のデイルズ、タムレンと一緒に育った。
 辛抱強く優しい彼は、他者に馴染みにくい性格の彼女をいつでも見守り、諭し、受け入れてくれる相手だった。シャーリィンにとってタムレンは、何者にも代え難いほど大切な存在だったのだ。
(それなのに……なぜ私は、お前を止めなかったのだろう)
 怪しげな鏡に興味を持って近づくタムレンを、なぜもっと強く引き留めなかったのだろう。あれが危険なものだと知らずとも、不吉な予感が胸を掠めていたのに。
(あの鏡が穢れを纏い、ダークスポーンを引き寄せた。あれさえなければ……)
 悔やんでも悔やみきれず、ハァッと息を吐き出し、空を仰いだ。
 木々の先に広がる闇の中には、爪月がひっそりと浮かび上がっている。
 ひゅう、と風が吹き抜けるとさすがに寒気に襲われ、
(……もう汚れも落ちた。十分だろう)
 シャーリィンは気持ちを切り替えるためにもう一度潜り、岸辺へと向かった。
 足が地面につき、腰から上が水面に出ると、体が不意に重くなる。水がしたたり落ちる髪を絞りながら、何気なく前方へ目を向け――脱ぎ捨てた服のそばにゼブランが立っていたので、硬直した。
(……な)
 一瞬頭の中が真っ白になり、思考が飛ぶ。
 一体、いつからそこにいたのか。元暗殺者のエルフの眼差しはまっすぐこちらへ据えられ、細い月明かりの下でもそうと分かるほど陶然としていて、そこには何か狂おしい光が宿っているようにも見えた。
 しかしこちらが硬直すると、自身の呪縛がとけたというように顔を背け、
「アー……すまない、シャーリィン。のぞきをするつもりは無かったんだが……いや、これをのぞきっていうには堂々としすぎかな? まぁともかく、下心があって来たわけじゃなくて、襲われてた連中の世話に忙しくて、他に手が空いてるのがいなくてね。つまり、君の着替えを持ってきただけだ――本当に、それだけだ。見るつもりはなかった、すまない」
 早口にそういって、手にしたもの――どうやらシャーリィンの服らしい――を地面に置いた。ぱさ、と乾いた音が聞こえてようやく我に返り、
「!!!!??」
 シャーリィンはざっばーんと勢いよく水しぶきを立てながら、その場にしゃがみ込んだ。慌てて手を回して裸身を隠しながら、
「な、お、お前、ゼゼゼブラン、い、いつからそこに、いや、そうじゃなくて、とにかくあっちにいけ! 今すぐに!!」
 思わず声を上擦らせてしまう。背を向けたゼブランは両手をあげると、
「あぁもちろん、そうするよ。……とはいえ、お姫様の身支度を手伝うのも悪くないと思ってるけどね。シャーリィン姫様、なんならお着替えをお手伝い致しましょうか?」
 肩越しにちらりと振り返って笑いながら、いつものふざけた口調で言ってくる。その余裕たっぷりな態度にシャーリィンはカッとして、滅多にないことに、腹の底から怒鳴りつけてしまった。
「い……いいからさっさと去れ! このっ、恥知らずが!!」