辿るは女神の足跡2

 それは決して、自ら望んだ旅立ちではなかった。
 大切な人の生死も分からず、自身は化け物の穢れに冒され、己の命を救う為なのだからと説得されての出立だった。
 部族の皆をこれ以上悲しませたくないと生きる道を選んだというのに、結果的に自分こそが化け物になってしまった。
 やむなくあのおぞましい魔物の血を飲み、グレイ・ウォーデンとして人間たちの争いに巻き込まれ、卑劣な裏切りで危うく命を落としかけた。
 同じ血を飲んだ人間の男と荒野の魔女の娘、その二人を道連れに絶望的な旅を始めた彼女には、もはや心安らぐ時など無かった。これ以上傷つくのは御免だと心を堅く鎧い、何者も寄せ付けようとしなかった。
 ――あの日、自らの命を奪いに来た男と出会うまでは。

 朝靄に木々の陰がうっすらとにじむ。ミルク色の視界は日が昇り始めるほどに少しずつ清かになり、夜に沈んでいた山が目を覚まし始める。
 すうと風が通り抜けて、青々と緑の葉を茂らす灌木かんぼくが姿を現したと同時に、がさがさ、と揺れた。
 枝をすり抜けてぴょこん、と頭を出したのは野ウサギだ。ぴんと耳を立て、ひくひく鼻を動かし、注意深く周囲の様子を窺う。
 そして危険がないと判断し、後ろ足で地面を蹴って一気に駆けだした。小さなその姿は獣道をよぎって、向かい側の茂みの中へと吸い込まれる……前に、
 ビュッ!
 唐突な風切り音と共に右手へ弾かれ、チッと鳴き声をあげて地面に叩きつけられた。
 ぐったりと横たわった野ウサギは立ち上がろうとしたが、それは叶わない。その腹には矢が深々と突き刺さり、心臓にまで達している。
 そしてそのつぶらな瞳は、ほとんど気配を感じさせないほど森にとけ込んだまま歩み寄ってくる、ほっそりとした狩人の姿を映しだしていた。

「何だシャーリィン、狩りにいってたのか。それなら、僕にも声をかけてくれればよかったのに」
「……」
 獲物を背にキャンプへ戻る途中、シャーリィンはゼブランに出くわし、フードの陰で顔をしかめた。面倒な奴が来た、というのが率直な思いだ。
 いくらこの旅の最後まで彼女に忠誠を誓うと宣言したからといって、簡単にこの男を信用出来ない。故にシャーリィンはその呼びかけを無視し、彼の前を通り抜けた。しかしゼブランは並んで歩き出し、背負った獲物を見て口笛を吹く。
「兎四羽に野鳥を三羽か。一人でこんなに穫ってくるとは、大した腕だね。さすがグレイ・ウォーデンといえばいいのか、あるいは君は元々、良い狩人なのかな。デイルズに狩りは必修科目だろうしね」
「……」
 口を開かない彼女を気にする事無く、ゼブランはつらつらと話を続ける。
「それにしても、今日は豪勢な朝食になりそうだ。皆喜ぶんじゃないか? さっきスタンとアリスターが鹿をしとめていたし、食べきれないかもしれない」
「これだけでは足りないだろうと思っていたから、ちょうどいい」
 鹿か。それはいい。普段よりは豊かな食事になりそうだ。と考えていたら一瞬心が浮き立ち、つるりと言葉が滑り出た。
 しまった、このお調子者の相手をする気はなかったのに、と悔やんでも遅い。へぇとゼブランが笑う。
「アリスターやスタンはそんなにがっつくのかい? まあ、あの体格なら仕方ないか」
「……いや……」
「ん?」
「…………私も、よく、食べる」
 シャーリィンは気まずい思いで呟き、顔を伏せる。
 以前は食の細かったシャーリィンだが、グレイ・ウォーデンになってからというもの、考えられないほど食欲が旺盛になってしまった。一度食事を始めると他のものが目に入らなくなるまで集中して、ひたすら食べあさってしまうので、我ながら浅ましくて情けない。
 それはグレイ・ウォーデンの性質の一つなので気にする事はない、とアリスターはフォローを入れていたが、それまで質素を旨としていたシャーリィンには耐え難い屈辱だった。
(いつの間に私はこれほど、みっともなく食を求めるようになってしまったんだ)
 意気揚々と獲物を担いで帰る自分の卑しさを改めて思い知り、シャーリィンは気分が沈んでため息を漏らした。その恥入る気配を感じ取ったのか、
「それは意外だな。だけどこんな過酷な旅をしてるんだ。日々の楽しみといえば食事くらいしかないんじゃないか?
 それを堪能するのは悪い事じゃないと思うね。僕も厄介な任務をやり遂げた時は、豪華な食事を飽きるほど食べたものだよ」
 ゼブランはまた笑って、不意に手を差し出した。何かとフードの陰から見上げると、
「そんなに抱えてたら重いだろう? よかったら僕が持つよ。射手は手を大事にしなきゃ」
 背の荷物を目で示して促す。その気遣いはさりげなく、決して押し付けがましいものではなかったが、
「……この程度、必要ない」
 シャーリィンはふいとそっぽを向いて、先を歩いていく。これが同じ部族で暮らしてきた相手なら別だが、どんな小さな事であれ、他人に借りを作るのは性に合わないのだ。
 そうしてすげなく拒まれて諦めるかと思いきや、ゼブランは早足の彼女に大股で追いつき、
「それなら良いけど、シャーリィン、一つ忠告だ。今度狩りにいく時は誰かと一緒にしたほうがいい。いつどこにダークスポーンが潜んでるか分からないだろう?」
 改まった口調で意見してきた。その言葉に、シャーリィンは柳眉を潜める。
(それは……尤もだな)
 人間たちと共に行動することには慣れてきたが、それでも時々息苦しくなって逃げ出したくなる。
 狩りはその息抜きの為に行っているのだが、確かに単独行動は危険だろう。
 ダーク・スポーンに限らず、旅の道中は盗賊や獣、グレイ・ウォーデンにかけられた賞金や名声を狙って襲いかかってくるならず者が後を絶たないのだから。
 なのでシャーリィンは分かった……と言いかけたのだが、しかし、
「助手がいるなら僕が喜んで立候補させてもらうよ。狩りなら得意だし、それ以外にも特技はある――二人きりの時に披露したい奴がね。もし君が見たいと思うのなら、今この場で実践してみせるよ?」
「……それも必要ない」
 一転、ニヤニヤ笑うゼブランに、流し目と戯れ言を投げかけられたので、その返礼に、氷の如く冷え冷えした一瞥を与えた。
 全く、同じエルフだというのに、この男はあまりにも軽薄に過ぎる。今更だが、仲間に引き入れたのは間違いだったかもしれない……。