いつの頃からか、覚えていない。
ただ気がついた時、そいつは俺の視界の中に居た。
たとえば、俺に喧嘩を売ってきた奴を叩きのめしている時。
たとえば、妹と二人で楽しく笑いあっている時。
そいつはいつも、気づくとどこからか現れた。
黒い服。黒い髪。黒い目の、若い女。目が合っても表情を変えず、ただじっと俺を見つめている。
「何だ、あいつ。いつもじろじろみやがって」
まとわりつく視線にイライラして愚痴ると、妹は何のこと、と首を傾げた。
「あそこにいる奴だよ、ほら」
指をさしてみても、妹は誰もいない、と言うばかりだ。
(って事は、俺にしか見えねぇのか)
それならあれは、人間じゃねぇのかもしれない。
何度か確かめようと近づいてみたが、そのたびに女は、瞬きの間に消え失せた。
(一体、何なんだ)
もしかしたら俺が昔殺した奴が化けて出たんだろうか、とも思ったが、女の顔には見覚えが無い。俺が忘れちまっただけかもしれねぇが。
(ま、いっか。幽霊なら俺にどうこうできねぇだろ)
そう割り切る事にして、俺はそいつを無視する事にした。
どこにいっても、何をしていても、つきまとう視線を感じながら。
その日は、目の前が見えなくなるほどの土砂降りだった。
俺は雨でぐしゃぐしゃになった地面に立ち、頭から足下までずぶぬれになっていた。
「はー……はー……はー……」
口から漏れる息さえ、雨音にかき消される。目を瞬いてまつげに乗った雨を払う。
「はー……はー……はー……」
手にした刀は脂が巻き、刃こぼれしまくって使い物にならねぇ。
「はー…………は、はは」
俺は一度唾を飲み込むと、足下を見下ろした。糞野郎共がそこいらにごろごろしていた。こいつらはさっきまで、デカイ口叩いて散々息巻いてやがった。
だがいまは、口を叫びの形にして、血走った目を見開き、俺に切られた喉や胸を手で押さえてのたうち回ったみっともねぇ格好で泥にまみれてやがる。
「はは、ははは……ざまぁ、みやがれ」
怒鳴りすぎて、喉が痛い。流れ込んでくる雨を舐めて湿らせながら、俺は笑った。ぶっ倒れた奴の頭に足を置き、ぎりぎり踏みにじる。
「この糞野郎が……糞、糞、糞野郎が!!」
踏みつける足にどんどん力がこもってくる。がし、がし、と何度も何度も蹴りつけ、俺は叫んだ。
一度はすっきりしたはずの怒りが、再度燃え上がる。
こいつらはもう死んじまってる、だが早すぎた、何で俺はこいつらをこんなに早く殺しちまったんだ? あいつが、妹が死んだ時の苦しみは、こんなもんじゃなかったはずなのに。
「なぁ返せよぉ……俺の、妹、返せよこの野郎!!」
泥が跳ね、野郎の頭が砕けても俺は止めなかった。そこに居た奴らの身体を切り刻み、泥の中に沈め、それでもなお消えない怒りと悲しみに喘いで顔を上げた時、俺はあいつを見た。
木の下に、黒い服に身を包んだ女が居る。
いつの間にそこに居たのか。この土砂降りの中でも、女は濡れていない。いつものように辛気くさい面で、ただじっと、俺を見ている。
「……何だよ……」
俺はずる、と足を引きずった。雨のせいで服が水を吸って重い、何でか身体も重い、それでも俺は女に一歩、一歩、近づく。
「なぁ、お前、幽霊なのか?」
初めて女に語りかけた声は、みっともねぇくらい震えている。
「なぁ、そうなんだろ? じゃあよ、何で今、あいつらの幽霊が見えねぇんだ?」
一歩、一歩。のろく、だが確実に俺は女に近づいていく。
「なぁ、あいつらはよ、俺の妹を殺しやがったんだ。ひでぇだろ?」
段々、女の顔がはっきりしてくる。あぁなんだこいつ、妹と同じくらいの年頃じゃねぇか?
「だからよ、ぶっ殺してやったんだけどよぉ……なぁ、あれだけじゃ、足りねぇだろ? 何で俺ぁ、あんなにあっさり殺しちまったんだろうな?」
可哀想に、こいつも妹のように、無惨に殺されたんだろうか。その恨みで、まだ成仏できねぇんだろうか。
「なぁ、あいつらの魂って奴は、まだここいらに居るのか? なら、俺にそいつらを見せてくれよ」
もしかしたらこの女にも兄が居たのかも知れない。そして、殺された恨みを晴らして欲しいと願った挙げ句、妹を殺された俺にとりついたのかもしれない。
「なぁ頼むよ、あいつらを地獄に落としてぇやりてぇんだ」
俺は女の前に立った。かつてないほど近くで見る女は、雨と血と泥に全身を浸した俺を、すっと見上げた。そして、
「 」
その唇を微かに動かした時。女の姿は、かき消えた。
いつの頃からなのか、私は今でもはっきり覚えている。
なぜなら死神になって初めて現世に訪れた時に、その兄妹に出会ったからだ。
その兄妹は、どこからか流れ着いてきたようで、親もなく、まだ幼い身ながら互いを庇うようにして、日々を懸命に生きていた。
ソウルソサエティにあって貴族として生まれ育った私は、そのように貧して生きる者を見るのは初めてだった。
棒きれのように細い手足を寒さに縮め、今日の食事さえ事欠く様は痛々しく、私は自然と気にかけるようになっていた。
(あれほど幼いというのに、何とも哀れな事だ)
何かしてやれればいいのだが、と思わないでもなかったが、私は死神。現世に直接介入する事は許されず、ましてや情に流されて人間一人一人に手を差し伸べるなど、出来ようはずもない。
(あまり心を寄せてはいけない)
何度もそう言い聞かせ、離れ、しかししばらくするとまた様子を見に戻ってしまう。
兄妹はいつ見ても貧しく、腹を空かし、満足な寝床も得られず、それでも互いをより所に手を取り合い生きていて、それが何ともいじましかった。
幼い人間の子供達を気にかけながら、現世駐在の任務にもだいぶ慣れてきた頃。私は初めての実戦に接する事になる。
いつものように担当区域を見回っていた私は、最後の地区で見慣れぬ影に気づいた。
「ん?」
視界の端に引っかかったそれに気づき、空で制動をかけて向き直った。眼下に映ったのは、生い茂る森の木々の下、のそりのそりと動き回る黒い影。
(熊……いや、この気配は)
現世のものならざる霊圧を感じ取った時、懐の伝令神機が耳障りな音を立てた。とっさに取り出すと、画面に虚出現の知らせが表示されている。
(連絡が遅い!)
苛立ちながら、しかしこの辺りは人気がないので、多少の無理もできる。そう考えた時、私は虚の行く先を見やってぎくりとした。
森を抜けた先、開けた野原には、色とりどりの花が人知れず咲く花園があった。滅多に人が踏み入る事の無いその場所に、しかしいまは小さな人影が二つある。
「……なぁ、まだか?」
「待って、おにいちゃん。あと少しだから」
「おれの分まで、作らなくていいのに」
「だめー。おにいちゃんと私、おそろいにするのっ」
そう言って、不器用な手つきでせっせと花輪を作る少女と、退屈そうに文句を言いながら、しかし優しいまなざしで少女を見守る白髪の少年。
私がいつも密かに気にかけていたあの兄妹達が、そこにいたのだ。
「――っ!」
考えるより先に身体が動き、花園へ一直線に向かう虚の前に私は立ちはだかった。
――ごあああああ!!
熊と見間違うほど巨大な体をした虚は、突然割って入ってきた私の姿を認めた途端、地面を突き破る勢いで突進してきた。あっという間に視界が黒に染まり、はじき飛ばされそうになる。
ごっ……ずざざざっ!!
「ぐっ!!」
とっさに斬魄刀を鞘ごと前面に構え、虚の突進を真っ向から受け止める。
勢いと重量とで予想以上に衝撃を受け、踏ん張った足ごと後ろに滑り、腕の骨がびりびりしびれたが、かろうじて虚の前進を止める事ができた。
――ごおぉおぉぉぉ!!
私を敵と認識したのか、怒りの咆吼を上げる虚を後ろにはじき返し、私は鞘を払って刀を抜いた。切っ先をぴたりと向け、叫ぶ。
「ここから先には行かせん。来い、虚よ!!」
初めての戦いで多少手こずったものの、私は何とか勝ちを得る事が出来た。
何度か大きな手に掴まれ、身体ごと木に叩き付けられたが、動きが鈍重で且つ単純であったから、見極めればさほどの難敵ではなかった。
「はぁ……はぁ……」
仮面を断ち切られ、もがきながら身を空に散らしていく虚を睨みながら、私は刀を鞘に収めた。体中ずきずき痛んで仕方がないけれど、何とか打ち身だけで済んだようだ。
霊術院に居た頃はそれなりの成績を修め、虚を相手にしての実習でも遅れを取る事はなかったが、やはり独力ではまだ私は未熟らしい。
(もっと、戦いに慣れなければ)
虚が完全に消え失せたのを見届けた後、誓いを新たにした私は、息を切らしながら、肩越しに後ろを振り返った。
鬱蒼とした森の先にあるのは、柔らかな日差しが降り注ぐ花園。
色とりどりの花々が咲くその中央には、兄と妹が揃いの花輪を首にかけ、さも楽しそうに微笑み合っている。
今の戦いの気配など微塵も感じ取っていない、無邪気な笑顔。それはこの世で最も幸せな子供達のように美しく、見ている私の胸を、仄かに暖かくさせる。
(……あぁ、良かった。彼らの命を、守る事が出来て、本当に良かった)
身体の痛みさえ忘れて、私はしばらく、仲むつまじい兄妹の姿に心安らぐ思いで見入っていた。<
……その幸せな光景が、長く続かない事を、知らぬままに。
この目で見たものを、信じたくなかった。だが、いくら望み願っても、その光景は消え去りはしなかった。
悶えながら息絶えた男の向こう側にいる少年は。
こぼれ落ちそうなほど大きく目を見開き、その手に血の滴る匕首を、しっかりと握りしめていた。
少年は妹を置いて、街の中をうろついていた。
幼い頃に両親を失って妹と二人きりの生活になってからずいぶん経ち、少年はそろそろ大人の仲間入りするほどの年になっていた。
こそこそ残飯を漁るしかなかった頃と違い、少年は背が伸び、力もついてきた。身体こそ細いが、苦労の分顔が大人びていて、年を二つ三つ上に見られるほどだ。
(なにか、俺にできる仕事はないか)
今の生活に無理がある事は少年も理解している。いつも腹をすかしている妹を守る為にも、仕事の口を見つけて、安定した生活をしなければならない。
そう考えた少年は行く先々の店を尋ねて回った。
「皿洗いでも、掃除でも、何でもします。だから働かせてください」
慣れない敬語を使って懸命に訴えたが、薄汚れ破けた着物に裸足の少年は、どこにいっても浮浪児として無下に扱われ、時には犬猫を追い払うように水をかけられる事もあった。
「……今日もダメか……」
日も暮れてきた頃、歩き回って棒のようになった足を休ませるため、路地に座り込んで呻く。
世間が、自分のようなみなしごに優しくない事は、身に染みて分かっていたが、妹を喜ばせるような成果がなかなか出せず、気持ちが沈む。
妹は、こんなろくでもない兄にも優しい。
帰って、今日も仕事を見つけられなかったと報告しても、大変だったね、疲れたでしょう、ゆっくり休んでね、と彼を労ってくれるだろう。その優しさはいつも少年を心穏やかにさせたが、一方で罪悪感を募らせるものでもあった。
「……もう少し、回ってみるか」
日が暮れて、これから夜の街が目を覚まし始める。客でわき返る居酒屋なら、彼のような身元の知れない人間の手も借りたいかもしれない。
そう願いながら、壁に手をついて少年は立ち上がった。よろけながら路地を出、街へとゆっくり進んでいく。
慣れ親しんだ少年の気配に気づいたのは、夜の幕が下りた繁華街を通りかかった時だった。
(ん? どうしてこんなところに、あの子が?)
多少大人びたとはいえ、飲酒を嗜む趣味はまだ無いはずだし、そもそも店に入る金など持っていないだろう。
疑問を抱きながら気配の方へ視線を向けた私は、ぎくりとした。
提灯の明かりも艶めかしい夜の街には、酔客やその袖を引く客引き、道の隅で手招きする夜鷹などでごった返し、乱れ浮かれた空気が満ち満ちている。
しかしその提灯の明かりも届かない路地裏に、少年は居た。私の目に映った時、少年は一回りも二回りも大きな体つきの男に胸ぐらをつかまれ、因縁をつけられているようだった。
(何をっ……)
目にした途端、私は街を見渡せる屋根の上から、少年に向かって跳んでいた。
「……かったか? てめぇみたいな野良犬にちょろちょろされると、店の品格が落ちるってんだよ」
「は、はな、せ……」
声が聞こえるほど近づくと、男は太り丸まった顔をにやにやさせながら、少年の首を締め付けている。少年が息も絶え絶えになりながら反抗すると、男は鼻を鳴らした。ぶん、と大きく振りかぶって少年の身体を投げ捨て、壁にたたきつける。
「あぐっ!」
勢いよく叩き付けられた後、地面に崩れ落ち、激しくむせる少年を、男は冷ややかに笑って蹴り飛ばした。
「お前ちょうど良かったなぁ。俺ぁ今ちょいと機嫌が悪くてよ、誰かと遊びてぇ気分だったんだぜ。おら、いつまでもはいつくばってるんじゃねぇぞ」
そういって男は少年の髪をつかみ上げた。そして分厚い手で無造作に少年の頬を張る。
「うっ、がっ、あっ」
往復で頬を殴られ、少年が短く悲鳴を上げる。このままではなぶり殺しにされてしまうかもしれない。
(助けてやらねば)
そう思ったが、しかし躊躇う。これが虚ならともかく、ことは人間同士の諍いだ。このまま見過ごしては少年は死ぬかもしれない。しかし、死神の私が軽々しく関わっていいものだろうか……
「いでぇっ!」
迷っていると突然、野太い悲鳴が耳に入った。男が少年を投げ出し、手を押さえている。どうやら少年が男の手を噛んだらしい。
地面に投げ出された少年は逃げようと手をついて身体を起こそうとしたが、痛めつけられて容易に動けない。
「うっく……」
地面をひっかき、立ち上がろうと懸命にもがく少年。その前で痛みを訴えて呻いていた男は、
「このガキ、何しやがる!」
懐に手を突っ込むと、そこから匕首を抜き出した。口で鞘を払い、男は刃を高々と掲げた。
「思い知らせてやるぞ、こらぁ!」
(あっ……まずい!)
逡巡していた私は、そこでようやく我に返った。少年はまだ、動くに動けない。刃物まで出されては、本当に殺されてしまう。あの男を止めなければ! しかし、魂魄の私は人間に触れる事は出来ないので、羽交い締めにする事も叶わない。
(何かないか……あっ!)
焦って周囲を見回した私は、路地の壁に立てかけられた角材に目を留めた。生きているものには触れられないが、無機物なら別だ。私は飛びつくように駆け寄り、男に向けて思い切り角材を倒した。
「うおっ!?」
がらがらがら、がしゃん!
狭い路地に派手な音が鳴り響き、男が悲鳴を上げて角材の下敷きになる。気絶でもしてくれれば、と思ったが、そうはうまくいかなかったらしい。
「くそっ、なんだこいつは!」
男はうめき声を上げながら、緩慢だが乱暴な手つきで角材を押しのけ始める。少年は少し離れた地面に座り込み、驚きの表情で硬直している。
「何をしている、逃げろ!」
声が届かないのを承知でそう叫んだ時、少年がハッと何かに気づいた。その視線の先にあるのは、男が手放した匕首の光る刃だった。
躊躇は、一瞬だった。
少年は思いがけないほど俊敏な動きで刃物に飛びかかると、それを両手に持って男の前に立った。
「ぐっ、てめ、何を……」
身体に乗った角材に四苦八苦していた男は、少年が匕首を持っている事に気がつき呻く。少年は息を止め、高々と、腕を持ち上げた。
――止めろ!
少年を止めようと伸ばした私の腕は、触れる事無く、彼の身体をすり抜けて。
その細い手が、勢いよく振り下ろされた。
この目で見たものを、信じたくなかった。だが、いくら望み願っても、その光景は消え去りはしなかった。
悶えながら息絶えた男の向こう側にいる少年は。
こぼれ落ちそうなほど大きく目を見開き、その手に血の滴る匕首を、しっかりと握りしめていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
少年は息を短く吐きながら、焦点の合わない目で男を見下ろしている。男は、少年の一撃であっさり息を引き取った。分厚い脂肪と筋肉に覆われた胴体ならともかく、目を深々と突かれては、ひとたまりもなかった。
「はっ、はっ……はっ……」
少年はゆっくりと腕を下ろし、震える手から匕首を離そうとした。しかし強ばった指は一本も剥がれない。
「う……くっ……」
少年は手を口元に持って行くと、歯で一本一本の指を引きはがした。その手が血にまみれているため、少年の口元や着物が、赤く染まっていく。さながら、生き血をすすった化け物のようだ。
(……馬鹿な……)
その様を私は呆然と見ていた。
身を守るためには仕方がなかったのかもしれない。あのままでは、この男に少年の方が殺されていた事だろう。
だが、だからといって、少年が人殺しにならなければいけない理由など、あっただろうか。
「はぁ……はぁ……」
かしゃんっ。
ようやく匕首が手から剥がれ落ちる。少年は血に濡れた手を見、嫌悪と恐怖に顔を歪めて拭おうとした。だが、胸元についた血に気づくと動きを止め、
「…………」
ふと、何かに気づいた様子で男を見る。
角材の下敷きになった男は身じろぎもせず、その巨体を地面に横たえて路地を塞いでいた。道の先では華やかな夜街のにぎわいが聞こえてくるが、この場の異変に気づいた様子もなく、誰も路地を覗こうとしない。
「…………」
少年は動いた。己の手で命を奪った男の着物に手を押しつけ、血を拭い始める。
「……おい」
ただの人間に、私の声は聞こえない。理性では分かっていても、私は声を発せずにはいられなかった。
少年は手の血を綺麗に拭き取ると、無言のまま、男を子細に調べ始めた。
「何を、している」
聞こえぬ声が掠れる。何をしている、逃げろ、いや同心に自首しろ、だがそうなったら妹はどうなる、相反する思いがいっぺんに押し寄せ、私の喉を詰まらせる。
少年は己の手で命を奪った男を何の迷いもなく調べ、帯に下がった財布をちぎり取り、自分の懐にしまい込んだ。そして、
「……へっ、ざまぁみろ」
裸足で勢いよく男を蹴りつけると、身を翻して闇の中へと駆け去っていってしまった。
「……」
私はその全てを見ながら、何も出来ず、ただ呆然と立ちつくしていた。少年の消えた方を見つめ、そしてゆらりと視線を動かして、足下の男を見下ろす。
男は、身じろぎもしない。匕首が刺さっていた傷口からあふれ出した血が、顔を伝って滴り、ゆっくりと、広がっていく。薄闇に沈んだ路地の地面に場違いな赤い血が、目に刺さるほど鮮やかだ。
「……どうして……」
それが草履に触れるより先に後ずさり、私は呻いた。身体が震え、指先から冷たくなっていく。
どうして、こんな事に。
「……はっはっはっはっ……」
自分の息する音がうるさい。薄い月明かりは大して闇を払わず、生い茂る木々が黒い壁になって俺の前に立ちふさがる。
ならされていない山道は、必死に走る俺をあざ笑うように足を掴み、転ばせ地面に這わせようとする。
「ぐあっ……!」
足下にうずくまる石に草履のつま先を思い切りぶつけ、身体の芯を貫くような痛みが駆け上ってくる。ぬるりとした感触は、多分爪が剥がれて血が流れちまってるせいだろう。
「くそっ!」
俺は毒づき、手中の刀で前方の茂みを切り払う。
だが、数え切れないほどの人間を切ってきた刀は、もうただの鉄の棒に成り下がっていて、切ったというより力で無理矢理枝をへし折った、というほうが正しい。
腕に伝わる鈍い痛みが苛立たしく、いっそ投げ捨てたくなったが、俺に残された武器はもうこれだけだ。手放すのも心細くて、苛立ちが増す。
「はっ、くそっ、はぁはぁ、何で、だっ……!!」
闇雲に走り続けながら肩越しに後ろを振り返る。
闇に塗りつぶされた山中は目隠しされたように何も見えないが、木々の合間からのぞき見える遠い麓には、橙色の灯りが浮かんで見える。その灯りはさっき見た時よりもずっと数が増えていて、しかも少しずつ距離を縮めつつあった。
あれは全部、俺を追いかけて来ている。逃げ場は、無い。
「くそっ、何でだよ!! どうして、俺がこんな目に遭わなきゃいけねぇんだ!!」
振り切るように前方へ顔を戻し、闇を追い散らしたくてそう叫んだ瞬間。
踏み出した足先で地面が消え、何も見えないまま俺は宙に放り出された。
初めて人を殺した時、俺は、知った。
生きていくには、力がいるんだ、という事を。
どんなにきれい事を吐いても、どんなに正直に生きても、親のいねぇ溝鼠の生き様なんざたかが知れてる。他の奴らに頭を下げてこびへつらっても、犬猫みてぇに追い払われ、嫌われ、お前らの命に価値はねぇと言わんばかりに何の意味も無く殺されて終わる。
俺は、そんな生き方はいやだった。いや、俺自身がどうこうじゃねぇ、俺のたった一人の妹には、あいつだけには、そんな生き方をさせたくなかった。
だから俺はあの日、人を殺した。
殺した奴の事はもう全く思い出せねぇ。だが、そいつが結構な小金持ちで、妹に初めて店で飯を食わせてやった事は覚えてる。
俺がどこからそんな金を手に入れたのか気にかけながら、それでも妹は生まれて初めて腹一杯飯を食い、心底嬉しそうに「ありがとう、お兄ちゃん」と言ってくれた。
その時、俺は誓ったんだ。
こいつの為なら、何でも出来る。こいつの為に、妹の為だけに、俺は力を手に入れると。
……ずぅ……ん……
遠くで、何か重たい音が響き、微かに振動を感じた。揺れた木からばさばさばさ、と羽音がして、きぃきぃ鳴きながら、鳥が何羽も逃げまどう。
「うっ…………」
その騒音に引きずられるように、俺は目を覚ました。重たいまぶたを持ち上げ、何度か瞬きする。ぼんやりして焦点の合わない視界は、黒で塗りつぶされていた。
俺は、どれだけ気を失ってた? まだ、夜か? そう思いながら目を擦ろうとしたが、何でか手が持ち上がらねぇ。
(何だ……これ……)
重石でもつけたみてぇに動かない手に違和感を覚え、俺はもう一度瞬きする。その目前で、
ギィンッ!!!!
不意に火花が飛び散り、銀の光がはじけた。
「……っ!?」
何かと驚いた俺の目に映ったのは、闇だった。いや、違う。黒は黒だが、誰か人が、黒い着物を着た人が俺の前に立っている。
そいつは俺に背を向け、手に刀を持っていて、俺の顔すれすれまで近づいている巨大な、獣の爪みてぇなもんを受け止めていた。
熊の爪かと思ったが、それにしちゃ鉈みてぇに長すぎる。腕を辿って視線を上に持ち上げた俺は、
「な、んっ……」
そこで息が止まりそうになった。
それは、俺が今まで見たことのあるどんな生き物とも似ても似つかないものだった。
そいつは、頭から足下に届くほど長く、白い仮面をつけていた。
天をつくほどに大きな大きな体、その異常に盛り上がった肩からは爪みてぇな骨がいくつも飛び出し、赤い血管がその周囲に賽の目のようにまとわりついている。血の筋は肩から腕にも絡みついていて、俺の胴体よりも太い筋肉が力を込めて動くたび、まるで血が噴き出すようにどくっどくっと不気味に蠢いた。
(なんだ、こいつ……気持ちわりぃっ……!)
ぼやける視界で見えるだけでも薄気味悪い姿にぞっとして、俺は逃げようと立ち上がった。つもりが、地面についた腕が、かくっと肘から折れる。
「うっ……くっ……」
何だこれ、力が、はいらねぇ。こんなところでへたり込んでる場合じゃねぇのに、俺は、俺は逃げなきゃいけないのに。
そう思った時、
――!!!!!!!!!
そいつが、吠えた。ほら貝のような、地獄の底から響く亡者のような、総毛立つ叫び声は俺の耳を貫き、脳を揺らす。
「ぐ、あっ!!!」
がん、と殴られたように目眩がして、俺はそのまま前のめりに倒れた。ぎいいい、と鉄を擦り合わせるのに似た声を漏らしながら、そいつはどしんどしん、と地面を踏みならして、俺に襲いかかろうと、更に腕に力を込める。
「……させん……」
だが、その爪を受け止めた黒装束の奴は、小さく呟いた。
ぎぎぎぎ、と刃と爪が小擦れ合い、耳障りな音を立てる。化け物と比べれば、一回りも二回りも小さいそいつは相手に押され、背をそらし気味になりながら、それでも踏ん張った。
「……この、男は……お前には、やれん」
歯を食いしばってるのか、くぐもった声が辛うじて俺の耳に届く。惹かれるように見上げた先で、俺はそいつの片腕がだらりと垂れているのを認めた。
(怪我……こいつ、こんな奴から、俺を、かばってるのか?)
誰だ、どうして俺を助ける? 感謝より先に疑念が浮かんだ時、
――!!!!!!!!!
化け物がもう一度叫び、もう片方の腕を振りかぶった。
(あぶねぇ!!)
咄嗟に叫ぼうとしたがそれより早く、
「――破道の三十一、赤火砲!!」
黒装束の声と同時、空中に突然現れた炎が化け物の身体に渦を巻いて絡みつき、
ドォォォォンッ!!!!!
ついで、派手な爆発音を立てて火柱の中に飲み込んだ。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
夜の闇を不意に切り裂いた炎の柱が、化け物を燃やし尽くして消える頃。
黒装束は荒い息を吐きながらしばらく立ちつくしていたが、ゆっくりと、俺の方を振り返った。その顔を見て、俺は思わずあ、と間の抜けた声を漏らす。
「お前……あん時の、幽霊じゃねぇか……」
そいつは、俺につきまとってたあの幽霊の女だった。黒い着物に黒い髪、黒い目、妹と同じくらいの、少し幼い顔立ち。さっきの化け物と相当やりあったのか、あちこちぼろぼろで、怪我したらしい片腕を押さえて顔をしかめてる。こんなに間近で見るのはあの時以来だが、間違いねぇ。
そう思ったら、急に警戒心が解けて、俺はハハ、と笑った。
「何だ、お前……俺の事、守ってくれた、のか…………」
震える腕を支えに何とか上体を起こし、俺は地面に座り直した。どうしてだか、身体が重くてしかたがねぇし、喋るのにも息継ぎがいるくらい、しんどい。
だが、女の前でみっともねぇ姿を晒すのはかっこわりぃ。俺は頬を上げて辛うじて笑顔をしてみせながら、手を振る。
「お前、良い奴だな……けど、無理すんな……幽霊でも……怪我、してんじゃねぇか……」
「……私は、幽霊では、ない」
と、女が口を開き、声を発した。その事に驚き、俺は目を瞬いた。何だ、こいつ、しゃべれんのか? これまで声を聞いた事がなかったから、こりゃびっくりだ。
「幽霊じゃないって、じゃあ、何なんだ……?」
俺以外の人間には見えない、自由自在に姿を消すこいつは、一体何者なんだ? そう思って問いかけると、荒い息をようやく整えた女は目を細め、ついで伏せた。小さく、呟く。
「……死神だ」
「しに……がみ?」
死神。一拍遅れて言葉を理解した俺は、あぁなるほど、と力なく笑った。なるほど、死神なんて名前、黒ずくめで辛気くさい顔したこいつにはぴったりじゃねぇか。それなら、こいつが俺にしか見えねぇわけも、分かる。
「なんだ、お前、俺の命を取りに来てたんだな。なぁ、俺は、死んだのか」
女は俺を見下ろして、僅かに顔をしかめた。一瞬躊躇うような気配を見せたが、
「……あぁ、そうだ。お前の身体と魂魄をつなぐ因果の鎖は、すでに切れている」
俺の方へ、正確には胸元に指先を向ける。見下ろすと、いつの間に現れたのか、俺の胸には半ばで断ち切られた鎖がぶら下がっている。
女がついで指を右手の方へ向けたのでつられてそちらを向くと、切り立った崖の足下に、俺がいた。いや、俺だったもの、といったほうがいいのか。
「うっ……」
どうやら崖から落ちてそのまま岩にたたきつけられたらしい。一目で死んでるのが分かる有様に、思わず目をそらす。他の奴なら見慣れたもんだが、自分の死体なんてまじまじ見たくはねえもんだ。
だが、死んでるのが一目瞭然だからこそ、俺は自分の死をあっさり受け入れた。
いや、どっちかっていうと、俺自身が望んでいたからかもしれねぇ。俺は重い腕を持ち上げ、頭に手を置いた。地面に視線を落とし、呟く。
「そっか……俺、死んだのか。やっと、死ねたのか」
俺は薄く笑うと、顔を上げて、死神へ声をかけた。
「なぁ、死神さんよ。死神ってのは、死んだ奴をあの世に連れていってくれるんだろ? なら早く、俺を連れていってくれよ」
「……」
「あの世じゃあいつが、俺の妹が待っててくれてるはずなんだ。ずいぶん遅くなっちまったけど、あいつは優しいから、きっとじっと待ってるに違いねぇんだ。俺は、早くあいつに会いにいってやらなきゃいけねぇんだ」
「……ならば何故、もっと早く会いにいってやらなかった」
ぽつっと呟いた後、女はしまったというように口を曲げた。今のは聞かなかったことに、と言い掛けるのを聞いて、ようやく言葉の意図を理解した俺は、冷笑を浮かべた。
「何でとっとと首くくって死ななかったのかってことか?」
「……失言だ、忘れろ」
「いやあ、お前の言う通りさ。俺だって早く死んじまいたかった。そうすりゃあいつにすぐ会えただろうからな」
だが、と俺は声を高めた。もう幽霊になっちまったってのに、血がざわりと騒ぎ始めるような感覚がする。
「俺があいつを亡くしてこんなに苦しいのに、誰も、誰もだ、俺の気持ちを分かっちゃくれねぇんだ。表向きはぺこぺこ頭下げて愛想笑いしてるが、腹ん中じゃ、あいつが死んでせいせいした、俺も後追って死にゃいいと思ってやがるんだ!」
語るほどに、そのときの怒りや屈辱がむくむく蘇り、腹の奥底に熱が高ぶる。俺は握りしめた拳を振り上げて高らかに叫んだ。
「そんな奴らの願いを叶えてやるなんてまっぴらだ。あいつらは俺の苦しみもあいつの無念も、何も分かっちゃいねぇ。だから俺は、俺たちを馬鹿にする奴らの大事なもんを奪ってやった、俺やあいつの気持ちが心底から理解出来るようにな!」
「!」
女が音を立てて息を飲む。だが、俺はかまわず言葉を重ねた。
これまで誰一人、あいつ以外、俺の話を聞こうなんて奴はいなかった。こいつなら、俺の気持ちが分かるかもしれない。
「そしたらよ、どうなったと思う? それまで散々人のことを笑ってやがったくせに、いざ自分が同じ立場になったら、てめぇがこの世で一番不幸みてぇな面しやがるんだぜ。
挙げ句の果てにそいつらはよ、俺が殺った家族を、仲間を、恋人を返せって言うんだ。ふざけんなよ、そんなこと出来るなら、俺がとっととやってるさ!」
「……」
「あぁそうさ、あいつを生き返らせるなら、俺は、何だってするさ。いや、死んでても生きててもいい、あいつに一目会えるなら、あいつさえいれば、俺は他になあんにも、いらねえんだ」
(お兄ちゃん)
あいつはいつもどんな時も、俺に笑ってくれた。何の曇りもない、優しい笑顔を、俺は今でもはっきり覚えている。
「……なぁ、死神さんよ」
高ぶる怒りと憎しみは、たとえようのない悲しみと愛しさに取って代わる。体中の力が抜けたような虚脱感に襲われながら、俺は女を見上げた。請うように手を伸ばし、囁く。
「早くあいつのところへ、連れていってくれよ。俺は、あいつに会いたいんだ」
そして、お前を愛してる、お前の為に俺は全てを捨てたと、そう言ってやりてぇんだ。
「…………」
死神は、俺を見下ろした。仮面のようなその顔が不意に歪み、痛みを堪えるような、今にも泣き出しそうな表情になる。何か言おうとして口を開き、だが言葉は形にならない。女はぐっと唇を真一文字にして、刀を地面に刺し、手を差し伸べてきた。
「……手ぇ、貸してくれんのか? へっ、優しいねぇ」
好意に甘えて俺は女の手を掴んだ。それは思いがけないほど細く小さな、それでいて固くしまった手。
「おっ」
その手が、思いがけないほど強い力で俺を引き上げる。死神の手を支えに力の萎えた身体を立たせると、俺はようやく、安堵のため息を漏らした。
(やっとこれで、解放される)
妹を亡くした苦しみも、俺をあざ笑う連中への憎しみも、生き足掻く自分への怒りも、全部投げ捨ててあの世で平穏に暮らしていける。
「なぁ、死神さんよ。あの世って、どういうところなんだ?」
浮き立つ心を抑えられず、つい声を弾ませて尋ねたが、死神は俯いたまま顔を上げない。掴んだままだった俺の手をそっと離し、そして、囁く。
「……お前の逝く先は……ソウルソサエティでは、ない」
その台詞と同時に。身体がばらばらになるかと思うような衝撃が、俺を襲った。
「なっ……かっ……」
目の前がぶれる。身体の自由が利かない。痛い。何もかも痛い。何も分からない。
何が起きた。どうなってる? 辛うじて目を動かした先に見たのは、白刃だった。刃が俺の胴体を背中から貫き通し、その先端から赤い血を滴らせている。
「う、がっ……」
ぎりぎりと締め上げられるような激痛に呻きながら肩越しに後ろを振り返った俺が見たのは、俺を刺し貫いた刀を持つ巨大な腕と、見上げるほどに大きな門だった。
片目ずつ包帯で塞いだ一対の骸骨が扉を開き、身体の芯まで凍らせるほど冷たく、まとわりつくほどにねっとりした風が噴き出す先は真の闇で塗りつぶされて何も見えない。
だが、その闇の中には何か怖気を震うような気配がざわざわと密集していて、凝視する事さえ耐え難いほど、強烈な恐怖と嫌悪を引きずり出す。
「あっ、た、すけ……っ」
嫌だ、あそこには行きたくない。それが何なのかも分からないまま、とにかく逃げ出したくて、俺は激痛走る身体を必死で動かし、目の前の死神に手を伸ばした。助けてくれと、涙さえこぼし、絞り出した声で必死に請うた。
だが、女は顔を上げなかった。石のようにその場に立ちつくし、俺の顔を見る事さえしなかった。
「お……お、おおおお、おおおっ……!!」
もはや意味のある言葉を発する事も出来ず、俺は喉の奥から悲鳴を吐き出した。
(お前もか、お前も俺を見捨てるのか、くずに生きる価値なんかねぇと言うのか!!)
俺の話を聞き、俺の気持ちを分かってくれる奴だと、そう思っていたのに。憎悪が心を満たし、指先を鉤のように曲げて女をくびり殺そうと手を伸ばす。言葉を尽くして罵り、殴り、蹴り倒し、その顔を切り刻んで、最期の時まで散々苦しませてやる。
「っがあああああああ!!」
だが、刀を持つ巨大な腕が、ぐん、と反動をつけて門の中へ戻り始めて、俺の前から女が遠のく。
――許さねぇ! てめぇはぜったいに、許さねぇ!!
憎悪は言葉にならず、悲鳴だけがほとばしり出る。体中を駆けめぐる激痛に絶叫を上げながら、俺は目を見開いて死神の姿を焼き付けた。絶対に忘れねぇ、絶対に殺すとどす黒い怨念に満たされながら。
そして――門は、閉じた。
地獄の門は役目を終え、脆い氷のような音を立てて崩れ消えていく。
その音が消え失せてしまうまで目を閉じていた私は、しかし耳に残る声の余韻に胸が締め付けられるような思いだった。
どうして、こうなってしまったのだ。あの男が望んでいたのはただ、妹と幸せに暮らす事だけだったろうに、何故、こんな事になってしまったのか。
「…………」
私は目を開き、地面に刺した刀を抜いた。そして前方の闇を見透かし、静かに言う。
「……あの男は、もう居ない。いい加減、こんな事はやめたらどうだ」
――ぐるるる……。
すると闇の中に赤い目が光り、ついで、虎のような姿をした虚が空に滑り出る。虚は私を見、そして後ろにあるあの男の死体を見つけ、首まで覆う仮面の奥でごろごろと喉を鳴らした。
『ならば、それを八つ裂きにして食おう』
愉悦に満ちた声が獣の口から零れ出る。鋭い牙から涎を垂らし、獣は笑った。
『あの外道が我が子にそうしたように、粉々になるまで打ち砕いてやろう。そうなれば、分け前も増えようというものだ。なぁ、同志よ』
――!!!!
最後の言葉に応えたのは、無数の咆吼だった。夜の暗闇に沈んだ山中、木々の奥で次々と光が弾け、周囲はあっという間に虚の気配に埋め尽くされる。
虚の大群は吠え、鳴き、興奮しきった様子で鬨の声を上げながら、じわりじわりと包囲を縮めてくる。
私は唇を噛み、刀を握る手に力を込めた。左腕はもはや感覚が無い。だが、退く訳にはいかない。これが死神としての、最後の務めになるだろうから。
「……ならば、護廷十三隊の名にかけて……お前達を皆、無に帰そう」
その言葉を残して。私は地を蹴り、虚に向けて走り出した。
雲一つなく晴れ渡った空。夜が明け、一日の始まりを迎えた街は、緩やかに動き始める。
春の兆しを含んだ柔らかい風を切って、木の枝から飛んだ雀が、電線の上に降り立つ。
その眼下、立ち並ぶ家々の一つから、
「……いってきまーす!!」
穏やかな朝の空気を吹き飛ばすような明るい声が響き、玄関から少女が飛び出した。セーラー服の裾を翻してそのまま駆けていこうとするが、
「ちょっと、待ちなさい! 忘れ物!」
ついで顔を出した年輩の女性が引き留める。振り返った少女は、女性の手に手提げ袋を認めて、慌てて駆け戻った。
「今日体育があるんでしょ? 玄関に置いておいたのに、何で忘れちゃうかしらねぇ」
「えへへ、ありがとう、お母さん」
照れ笑いをしながらそれを受け取ろうとして、不意に少女は首を巡らせた。
振り返った先にあるのは、今し方、雀が飛び立ったばかりで揺れる電線。しかし少女が目をとめたのは、電信柱の方だった。
「? どうしたの、ぼーっとして」
唐突な動きを不審に思った母親の声に、少女は我に返った。ううん、と曖昧に首をひねり、
「ねぇ、今あそこに誰かいなかった?」
そう言って、電信柱の上を指さす。はぁ? と母が素っ頓狂な声を上げた。
「何寝ぼけてるの。あんなところに人がいるわけないじゃない」
「……うん、そうだよね……?」
少女は釈然としない顔で首をひねる。そんな娘の肩に手を置き、
「良いからほら、早く行きなさい。また遅刻しちゃうでしょっ」
くるりと正面に向き直らせ、背中を押す。勢いでつんのめりながら、少女は肩越しに振り返り、
「はぁい、行ってきます!!」
明るい声を母に投げかけると、前を向いて勢いよく走り始めた。
――母に見送られ、元気良く駆けていく少女。
その少女の姿を見送る影が、電信柱の上にある。
黒い髪、黒い目、黒い着物。上から下まで黒づくめの格好をしたそれは、遠ざかっていく少女の背中を見送り、目を伏せた。
その視界に、かすかな風音を立てて、黒い揚羽蝶がひらりひらりと舞い踊る。帰還の刻限が来たことを察し、黒装束は一度息を吐き出した。ついで、たっ、と電信柱を蹴り、空を跳ぶ。
(……願わくば)
人にはあらざるその速さに髪がなびき、中身のない左の袖が大きく音を立てて翻る。次々と消え去る風景をしかし一つも目に留めぬまま、思う。
(あの少女のように、お前も前世の苦しみを、忘れてしまえるように)
この目に焼き付いているのは、最後に見た、あの男の憎悪と絶望に満ちた表情。
「……っ!」
隻腕の死神は、己が見守り続けた命の平穏を、望まずにはいられなかった。
悲しみと後悔に胸を射抜かれるような思いで。
それが儚い願いだと知りながら。
それが男にとって救いになるのかどうかさえ、分からないままに。