「鑑原さん、失礼します」
花太郎が声をかけながら中に入ると、雪音は窓を開けて、そよ風に吹かれるままぼんやりしていた。
彼女は花太郎の声など聞こえなかったようで、自分の両手を眺めている。
陽炎のように儚げな雰囲気は消えたものの、それは普段とは程遠い生気のない表情で、見るものをぎくりとさせる。
「……鑑原さん?」
花太郎はもう一度、おそるおそる声をかける。雪音がハッとわれに返った。
「あぁ、花君来てたんだ。何?」
「いえ……あの、大丈夫ですか? ご飯食べました?」
まだ本調子じゃないのか、気にかかって尋ねたが、返事代わりに米粒ひとつ残さず綺麗に平らげられた膳がずい、と差し出される。
「この通り、もう大丈夫よ。ごめんね、花君にまで世話かけちゃって」
しゃきしゃきとした語り口は、以前のそれと同じだ。
膳を受け取った花太郎は安心して、思わずほ、と息を吐き出した。
「そんな事良いですよ。この調子なら、もうそろそろ復帰ですか?」
「うん、明日から。今日の午後には、隊長にご挨拶してくるわ」
「そうですか、良かった。鑑原さんが居ないと、皆落ち着かないんですよ。十一番隊の人達も、一日に何回も雪音さんの事聞いてくるし」
世辞でなく正直に言ったのに、雪音は顔をしかめた。
「それ、復帰しないでほしいと思ってるからじゃないの? あたしが出ると、大概喧嘩になるし」
「あはは……」
十一番隊の隊員がどう思ってるかは分からないが、雪音が担当すると喧嘩になるのは事実なので、花太郎は引きつった笑いをあげた。
膳を棚の上に置き、薬の袋を取って残量を確認する。
復帰後もしばらくは薬を服用するかもしれない、もう少し補充しておこうと鞄に手を入れた時、
「ねぇ、花君」
ふ、と息を吐いて、雪音が花太郎を見た。思いがけず真剣な眼差しに、どきっとして姿勢を正す。
「な、何でしょう」
「あたしは……」
雪音は何度か小さく口を開き、躊躇うように閉じた後、首を振った。
「いや、何でもない。……あぁ、悪いんだけど、ちょっとあたしの部屋に行って、死覇装取ってきてもらえるかな」
「え、あ、はい」
身構えていたのにはぐらかされて、花太郎はどぎまぎと返事をした。薬を補充し、膳を持ち、慌しく部屋を出て行く。
だが、出て行く直前に振り返った時、雪音は寝台に腰掛け、また自分の手をじっと見つめていた。
その顔は真剣で、人を寄せ付けない冷たさを感じさせて、花太郎は慌てて目をそらした。
なんだか、違う人のように見えて、少し怖かった。
「明日より、職務に復帰します。このたびは隊長や隊員の皆様にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
死覇装に身を包み、畳に深々と頭を下げた雪音に、烈は穏やかな微笑を浮かべた。
「構いませんよ。体のほうは、もう大事ありませんね?」
確認をかねて問う。雪音は顔を上げ、粛々とした表情で頷いた。
「おかげさまで、元通りです。休んでしまった分だけ、精一杯働かせていただきます」
「そうですか。それはよかった」
烈はゆるりと言葉を返し、一呼吸置いた。雪音の目を見つめて、それで、と言葉を継ぐ。
「それで、答えは出ましたか?」
「……」
雪音は口元に力を入れた。
それまでまっすぐ烈を見つめていた視線がぶれ、落ち着きなくさ迷い、畳の上に落ちる。
「……いいえ」
沈黙を落とした後の声は低かった。
「療養中、ずっと考えました。今も考えてます。答えは……出ていません」
膝の上に置いた手が、ぎゅ、と握りこぶしを作る。烈はそれを、好ましくも、痛ましくも思った。
この生真面目な娘が抱えた問題は大きく、それを解決する手立てを見つける事は容易ではなく、手助けも出来ない。
出来るのはただ、上官として言葉を与える事だけだ。
「では、もっと長い休養を取りますか」
「!」
びくっとして、雪音が烈を見た。感情の表れやすい顔に、動揺が揺らめいている。
「……それは、除隊せよという事でしょうか?」
「あなたがそう取るのなら、構いません」
意地悪な言葉。そう自覚して、烈は唇に苦笑が浮かびそうになるのを抑えた。
ここで微笑めば、今の言葉を冗談と取られてしまうかもしれない。強いて声音を抑えて、
「私達は人の命を預かっています。
例え親兄弟が目の前で傷つき息絶えようとしていても、最後まで命を救う事を躊躇ってはいけません」
「あたしは!」
そんな事はしない、と言いたかったのだろうが、烈は雪音の言葉を遮った。
「今回の件であなたは、親しい人の命が失われる悲しみを、言い換えれば恐怖を知りました。
その恐れはあなたの中に根を下ろし、決して消え去ることはないでしょう。
この先、今そこに、命を失いそうになっている人を前にした時、あなたは惑う事なく、手を差し伸べることが出来ますか?
……そしてまた、その時自制を無くし、己を失う事は無いと、誓えますか?」
「……っ」
雪音はもう一度視線を落として、眉間にしわを刻んだ。
病床でこの事を考えなかったはずはないが、烈にあらためて突きつけられ、動揺しているのだろう。
烈は語調を荒げるでもなく、穏便な表情のまま、雪音に問うた。
恐怖のあまり、自分の手で最期を看取る事を恐れまいか。結果、救えたはずの命を、見捨てる事はしまいか。
そして、命を救う覚悟がないのであれば、雪音が四番隊にいる意味があるのか、と。
重い沈黙が落ちた。
うららかな日差しが縁側から部屋の中に滑り込み、畳に光を投げかける。
小鳥が飛来し、庭の木に宿った。小さな足で跳びながら枝を移動し、軽やかな声で歌っている。
どこからか篠笛の音色がかすかに聞こえてきて、それに唱和する。
歌は時に合い、時に離れながら、どこまでも続くように思われたが、不意に小鳥が飛び立って途切れた。
篠笛もぴたり、と止まり、痛いほどの静寂が辺りを占める。
「あたしは」
不意に、雪音の声が閑寂を破る。雪音は動揺の色濃い表情のまま、それでもまっすぐ烈を見つめ、言った。
「傷ついた人を見る事が怖いです。いつも、いつも、逃げ出したくなります。それは今も昔も変わりません。
だけど」
雪音の顔が歪む。泣き笑いのように。
「だけど、逃げても、あたしの願いは変わりません。
怖くて、怖くて、仕方ないけど、でもあたしは、人を救いたいんです。自分の力で人を助ける事が出来るのなら、そうしたいんです。
……いえ、そうします。これから先、あたしの掌中で命を失う事があっても、今度は、逃げずに」
「そうですか」
烈はやんわり微笑み、立ち上がって、雪音の前に膝をついた。病でこけた頬をそっと包み込み、
「それならば、強くおなりなさい。あなたは弱く、儚い。
その手で多くの命を救いたいと願うのであれば、あなたはもっと強くならなければなりません。身も、心も、何もかも。
――鑑原五席。
強く、毅くおなりなさい。私は、あなたに期待していますよ」
雪音の目が揺れた。潤み、激しく瞬きをする。辛うじて泣くのをこらえて、雪音は小さく頷いた。
「はい。ありがとう、ございます」