……アハ……
ク……クフ……
……フフフ……
形の良い唇が笑う。軽やかな笑い声を漏らす。なのに、なぜこうもざらざらとして聞こえるのだろう。
……アハ……
ク……クフ……
……フフフ……
白い手が頬に触れる。しゅ、と動いて、口の上に被さってくる。氷のように冷たい。あまりの冷たさに、唇が動かせない。
……アハ……
ク……クフ……
……フフフ……
影が被さってくる。動けない。息が出来ない。苦しい。助けて。誰か。
「ネェ」
甘い声が耳元で囁く。
「ココカラ ダシテ」
嫌だ!叫ぼうとする。
「主の時ではない」
低い声が耳元で囁く。
……アハ……
ク……クフ……
……フフフ……
「イマハ」
手が外された。影が遠ざかる。ふわり、と暖かいものが顔に触れた。
「寝よ。未だ、早い」
低い声に引きずられるように、意識が闇の中へ落ちていく。
部屋の中をのぞき込むと、雪音は寝台の上で身を起こしていた。
黒い死覇装ではなく、白い寝間着に身を包んだ彼女は、いつもよりも体が小さく見える。
「……」
入り口から見えるその横顔は、覇気が無い。一角はぽりぽりと頬をかいて、少し迷う。
だが、このまま回れ右をしたところで、今更戻れる訳がない。口を曲げて、ようよう足を踏み入れる。
「よー雪音! 元気か?」
「……一角」
つとめて明るい声で言うと、雪音はゆるり、とこちらを向いた。頬のこけたその顔はまるで別人のようで、ぎょっとしてしまう。
だが一角は気を取り直して、どかっと乱暴に椅子に座り、
「何だよ、寝込んでるって話だから来てみりゃ、存外元気そうじゃねぇか。もしかしてお前、ずる休みでもしてんのか?
せっかく俺が、見舞いの品まで持ってきてやったってのによ」
ぽいっとばかりに、菓子の包みを投げ渡す。
受け取った雪音は、えらくゆっくりした動作で見下ろして、それから一角を見た。ゆる、という感じで、気の抜けた笑みを浮かべる。
「わざわざありがとう。後で頂くわ」
「……おう」
毒気がないどころか、生気さえ感じられない。一角は思わず眉根を寄せた。
雪音がこうなった原因は聞いている。
十三番隊の副隊長と三席が虚にやられた。
彼女はその二人に懐いていたから、無残な最期を見聞きして、すっかり落ち込んだらしい。倒れて寝込んだ。
一時は、命の危険すらあったと聞いた。
卯ノ花隊長がつきっきりで看病したお陰で、今はこうして起き上がれるようになったが、それでもまだ食が細く、人を寄せ付けようとしないという。
こうして近くにいても、雪音の意識はどこか遠くいるようだった。
変な感じだった。
一角の知ってる雪音は、酒飲んで酔っぱらって人に絡みまくる迷惑な奴で、悪態をつきながらも手際よく、それでいて意外と優しく手当てをするような奴だった。
こんな空ろな目をした雪音は、よく似た別人のように見えて、落ち着かなかった。
「あー、っと。そうだ、雪音。俺以外にもさ、見舞いに来てくれた人がいるんだよ」
自分でもわざとらしいごまかし方だと思える口調で、一角は言った。
雪音がふ、と首を傾げて「誰?」静かな、無関心な声で問いかけてくる。
その様子に居たたまれなくなって目をそらし、入り口に向かって声をかけた。
「隊長! 入ってきてくださいよ」
「おう」
その言葉を待ってましたとばかりに、入り口からぬ、と剣八が顔を出した。雪音が息を飲む音。それは次の瞬間、
「……えっ。更木隊長……く、草鹿副隊長!?」
驚きの声に変わっていた。
「ったく、何で俺が見舞いになんか行かなきゃならねぇんだ、おい」
ぼりぼりと胸元をかきながら、剣八が言った。その後に随伴する一角は、平身低頭する。
「すンません、わざわざ」
「あいつのせいで、俺ぁいらぬ疑いをかけられたんだぞ。俺が泣かしたんじゃねぇってのによ」
「……ですね」
頷いて、一角はため息をつく。
雪音が寝込んだ時、そのそばにいたのはこの人だった。
後でその事情を聞いてみたら、剣八が廊下で行き会ったところで、雪音が彼の服を掴んでいきなりわんわん泣き出した。引きはがそうにもしっかり掴まれてはがせず、仕方なく部屋に連れ込んで泣き止むのを待ったらしい。
が、状況だけ見れば、どう見ても剣八が雪音に悪さして泣かしたとしか思われない。
元々、気の強い彼女が泣き崩れるなどという、普段からは想像できないような状況のせいもあったのだろう。
外から見た剣八の評判自体が芳しくないのもあって、噂はまことしやかに広まった。
そしてしまいには「更木剣八が、四番隊隊員を犯して殺そうとした」なんてとんでもない内容になって、事実把握のために総隊長まで出てくる羽目になってしまった。
幸い、雪音を診た卯ノ花隊長の進言で疑いは晴れたが、こんな騒動になった原因に、剣八が近づきたくないと思うのも尤もだろう。
「ったく、そもそも、見舞いならやちるだけで良かったじゃねぇか。雪音の奴、やちるときゃーきゃー騒いでるしよ」
「あー、いや、まぁ……あいつ、可愛いものとかちっこいものとか、好きらしいんで。隊長にもきちんと謝りたかったって言ってたじゃないスか」
剣八に迷惑かけた事を思い出した雪音が、副隊長だけに夢中にならず、慌てて謝ってくれたから助かった。
隊長本人に、副隊長が彼から離れないもんだから、一緒に来てもらったとは言えなかったし。
ついでに、剣八の霊圧にあてられたら雪音の具合がもっと悪くなるだろうから、早々に退室してもらった、なんて事はもっと言いにくい。
もごもご口ごもる一角をちらっと見た剣八は、
「お前、雪音に惚れてんのか?」
「ハァ?!」
予想外の質問に、思わず声が裏返る。何の冗談かと見上げるが、剣八は至極真面目な顔をしている。
「何でいきなり、そんな事になるンすか」
「妙に奴を気にかけてやがるし、さっきからやけに口が重いからよ。雪音の前で、しどろもどろだったじゃねぇか」
「それは……いや、隊長、普段のあいつ知ってます? あいつ、いつもだったら、こっちの神経逆なでするような事をポンポン言う奴なんスよ。
時々叩っ殺してやろうかと思うくらいなのに、それがあぁもボケーっとされちゃ、調子も狂いますよ」
「ま、確かにな」
剣八も雪音の毒舌を知ってるらしい。納得して頷いた後、けどな、と話を続ける。
「なんにしても、あの女はやめとけ。深入りすると、ろくな事にならねぇぞ」
「……何でですか?」
剣八が、女の事をこうも言うのは珍しい。好奇心半分で聞き返す。隊長はごき、と首を鳴らした。
「あの女、こっちが怪我一つするだけで大騒ぎするだろ。
どっかに行って戻ってくるたんびに、あぁもぎゃんぎゃん泣き喚かれてみろ。こっちの身がもたねぇよ」
そこで一旦言葉を切った後、剣八はつけたした。
「もし男が死んだら、あいつも死んじまうだろう。俺だったら、そんな女はいらねぇ。自分で生きられねぇ奴の面倒なんざ、見てられるかよ」
「……そうっスね」
一角は廊下に視線を落として、言った。
親しく付き合ってた十三番隊隊員の死に接して、雪音は打ち倒された。自分の命さえ失いかねないほど、憔悴してしまった。
それは多分、親しみを感じていただけ、より大きな衝撃だったのだろう。
そう思い立った時、一角は思わず足を止めて立ち尽くした。
部屋を出る直前、一角、と雪音が名を呼んだ。
振り返ると、副隊長を膝の上に乗せて頭を撫でていた雪音が、一角が来たばかりの時とは全く違う顔で笑った。
「ありがとう、一角。元気出た」
ぱ、と光が咲いたみたいな綺麗な笑みだった。
それが本当に美しく見えたから、一角は一瞬言葉を失った。何故か分からないまま、動揺している自分に慌てて、
「次はお前が見舞いしろよ。また、世話になりに来るからな」
ごまかすように言うと、雪音はうん、と嬉しそうに答えた。
「どうした、一角」
一角は瞬きをした。雪音の顔が掻き消え、少し先に行ったところで立ち止まった剣八が、いぶかしげにこっちを振り返っている。
「あっ、すんません!」
急いで駆け寄りながら、自分の魄動が妙に早く鼓動してる音を聞いた。
あんなに儚く綺麗な女に、近づいてはいけない。
頭の片隅で漠然とそう思った一角は、
(馬鹿か、何考えてんだ俺は。あれは雪音だ。……ただのダチ、だろうが)
生まれかけた妙な考えを急いで振り払ったのだった。