目の前に紙と筆、硯が並んだ卓を置かれ、雪音は目を瞬いた。おず、と顔を上げて卯ノ花を見ると、彼女は普段通り穏やかな表情で、
「今日からお勉強を始めましょう、雪音」
そう宣言する。聞きなれない単語に、雪音は顔をしかめた。
「べん、きょう?」
「えぇ。あなたの知らない事を知るためにね」
「知らない事を、知る」
「そうです。さ、その本を開いて御覧なさい」
言われるまま、恐る恐る冊子をめくってみると、そこには大きな文字と小さな文字が様々に書かれている。
「それは練習用の教本です。挿し当たっては、まず文字の勉強から始めましょう」
「文字……」
雪音はまじまじ、と本を見つめる。
文字、というものがあること、人がそれを使って物事を表現することは知っていたが、一見不規則な記号の羅列は、雪音には到底理解できなかった。誰も教えてくれなかったからだ。
「文字……べんきょう、したら、読める?」
問いかけると、卯ノ花はいつものようににっこり微笑んで、頷いた。
「利発なあなたなら、きっとすぐ読めるようになりますよ。そうすればきっと、新しい世界が開けるでしょう」
そうして始まった勉強は、時に卯ノ花、時に四番隊の死神、時に卯ノ花家の使用人と相手を変えながら進められていった。
最初は紙を全て墨だらけにして、文字とも絵ともつかないものを書いていた雪音だった。
しかしやがて手本と見まごうばかりの文字を書くようになり、それに伴い話し言葉からもぎこちなさが取れていった。
かな全てを読み書きできるようになった後は、漢字の読み書きと並行して本の読み取りが行われ、雪音の識字教育は順調に進行していった。
これまで知り得なかった世界に踏み込んだ雪音は、周囲が驚くほどの熱意を持って、読書にのめりこんだ。
外見の年齢が十を過ぎる頃には、書庫にこもって一日本を読みふけるほどになった。
そんなある日。
教本の中で意味が分からないところを質問しようと、卯ノ花の執務室を訪れた雪音は、部屋の主が居ないと知って、がっかり肩を落とした。
(烈、どこにいるのかな。隊舎にいないのかな)
分からないことはそのままにしないように、と教え込まれていたから、疑問点を残しておくのは気持ちが悪い。
雪音は四番隊隊舎の中を歩き回って探した。しかしどこを探しても、卯ノ花は居ない。
(どうしよう。胡蝶も居ないし)
四番隊の死神で、勉強を教えてくれる女性も姿が見えないから、雪音は途方に暮れた。
そこいらにいる人を捕まえて、卯ノ花や胡蝶の居所を聞くか、いっそその人に意味を尋ねてみるか、と考えたところで、
「卯ノ花隊長!」
わ、という叫び声が外から窓を通って飛び込んできた。
「!?」
驚いて窓枠に飛びつくと、下に妙な生き物が地面に寝そべっているのが見えた。
いや、寝そべっているのではない、からだがひらべったく、尾をひょろりと伸ばしたそれは、図鑑で見たエイにそっくりだった。
エイはごぷり、と喉?を膨らませると、口の中から唾液と一緒に人間を吐き出した。
「あ……胡蝶!」
中から出てきたのは胡蝶だった。
真っ白な顔色で、服にはべったりと重たい赤がにじんでいる。きつく目を閉じている様を見て、雪音は昔見た死体の山を思い出した。
「……っ」
足元から震え上がるような冷気が昇ってくる錯覚を覚えたが、胡蝶は目を開いて、大きく咳き込んだ。
「大丈夫ですか? 胡蝶」
その胡蝶の脇に、卯ノ花がしゃがみこんで声をかける。
胡蝶が何と答えたのかまでは聞こえなかったが、多分大丈夫とか何とか、そういった事を言ったのだろう。
卯ノ花はそうですか、と頷いて、エイの方にす、と鞘を差し出した。
と、エイは不意にぐにゃりと形をゆがませ、餅のように柔らかく変じながら、鞘の中へと吸い込まれてしまう。
その巨体がすべて収まった時には、鞘の先には刀の柄が現れていた。
「解毒と治療はしましたが、貧血が酷いようです。すぐに病室へ運びなさい」
卯ノ花は鞘についた紐を肩にかけると、集まってきた隊員にきびきびと指示を飛ばす。
雪音はハッとして窓から離れると、玄関へと駆けた。
ばたばたと慌しく足音を立てて、卯ノ花の元にたどり着く。厳しい表情で死神達と言葉を交わしていた卯ノ花は、雪音に気がつくと、軽く眉根を寄せた。
「雪音、そんなに騒々しくしてはいけませんよ。廊下は静かに」
「う、うん、ごめんなさい。あの、胡蝶、胡蝶はどうしたの?」
謝りながら問いかけたら、卯ノ花はふっと表情を和らげて、
「胡蝶は任務の最中に、傷を負ったのです。命に大事ありませんから、心配はいりませんよ」
安心させるように言った。そしてすぐまた表情を改め、指示を待っている隊員に顔を向ける。
「私はこれから報告に行かねばなりませんから、後は任せましたよ」
「はっ! 行ってらっしゃいませ!」
「雪音、皆の邪魔にならないようにね」
一言残して、卯ノ花は羽織を翻し、颯爽と歩いていく。頭を下げてそれを送った隊員は、
「……卯ノ花隊長はやっぱりすごいなぁ」
独り言のように言いながら、体を起こす。
「え? 何が?」
やや呆気に取られたまま問いかけると、隊員は胡蝶を指で示した。
「いや、彼女は虚の毒にやられてね。
少しの傷でも命取りになる猛毒で、これまで何人もの隊員がそれにやられてしまったんだが、卯ノ花隊長のおかげで助かったんだ。
もし隊長が同行されてなかったら、俺達の小隊は全滅してたよ」
「全滅……」
「本当に今回は、命拾いしたな。あの方がいらっしゃるからこそ、俺達も安心して前線に立てるってもんだよ」
「そ、なんだ……」
心底感服した様子の隊員から、担架に乗せられて運ばれていく胡蝶へ視線を移す。
横たわった胡蝶の顔は相変わらず白いが、しかし傷一つなくしっかりした呼吸を繰り返している。
「……」
雪音はぎゅ、と本を抱きしめた。道の先を行く卯ノ花の姿はもう見えなくなっている。
「烈……様」
「はい?」
夜。膳を前に食事をしていた時、不意に雪音が呟いたので、烈は目を上げた。視線が合うと、雪音は、はにかむように唇を噛んで、
「へ、変? 烈様、っていうの」
「いいえ、変ではありませんけれど、急にどうしたのですか?」
雪音はこれまでずっと卯ノ花を烈、と呼び捨てにしてきた。
それは卯ノ花を軽んじているのではなく、敬称を知らぬ故で、身内同然なのだからよかろうと、卯ノ花も注意せずにいた。
それが突然様付けをされれば、何があったのかと気になるのは当然だ。雪音はもじもじ、と煮物を箸でいじって、
「今日、胡蝶が死にそうになったところを、烈……様が助けたって聞いたの。
あそこにいた人が命拾いしたって言ってて、有り難う……感謝、してて。
それって、人を死ななく出来るのって、凄いなって雪音も思ったの。
だから、凄い人にはけーい、敬意をはらわなきゃいけないって本にも書いてあったから、烈様、なの」
「……そうですか」
一生懸命に己の心の動きを語る雪音の姿はいじましい。
しかし、「人を死ななく出来る」という不自然な表現が気にかかって、卯ノ花は曇った微笑を浮かべた。
無惨に滅びた街から救い出してから、数年。
保護した当初は虚ろな表情しか見せなかった雪音は今、普通の子供と同じように、くるくる表情を変えながら、自分の言葉で好きな事を語れるようになった。
しかし言葉を交わしていると時折、あの街にあった死の澱が、まだ雪音の底に残っている事を感じるときがある。今の言葉とてそうだ。
雪音にとって、人とは生きているか、死んでいるかではない。
死んでいるか、いないか、その二つのみしかないのだ。
まだこれほど幼いのに、少女の瞳は常に死へ向いている。
その心から死の影を払い、心底から明るく笑えるようになるには、どれだけの時間が必要となるのだろう。
その事が哀れで、悲しい気持ちにさせられて、卯ノ花はそっと目を伏せる。その時、
「……烈様、雪音もしたいな」
ぽつ、と雪音が呟いた。自分の考えに没頭していた卯ノ花が、え、と顔を上げると、雪音はおずおずとした上目遣いでこちらを見ている。
「雪音も烈様みたいに、人を死ななく出来るように、したいな。
どうすれば出来るの? あの、でっかいエイみたいなのがあればいいの? 烈様、どうやってあのエイ捕まえたの?」
遠慮がちだが、十分好奇心に満ちた声で問いかけられ、卯ノ花はくすりと笑った。
「いいえ、捕まえたのではありませんよ。あれは私の斬魄刀が形を変えたもので、人を癒す能力があるのです」
「ざんぱくとう……それって、死神のみんなが持ってる刀、だよね」
「えぇ、そうです」
「なら雪音、死神になる」
「……え? 何ですって?」
不意の宣言に、卯ノ花は面食らった。冗談かその場の勢いか、と思ったが、雪音はぎゅ、と拳を握りしめて、
「雪音、烈様みたいになりたい。烈様は死神だから、死神になったら、雪音も人死ななく出来るようになるよね」
「それは……いえ、雪音、それは向き不向きというものがありますし、そもそも死神とはどういったものか、分かっているのですか?」
「知ってるよ。
死神はソウル・ソサエティと現世にある魂魄の量を、均等に保つ調整者で、現世に行って整の霊をこっちに送ったり、虚を倒したりするんでしょ」
「そう、ですけれど」
教本をそっくり暗唱したような、いや、実際暗唱しているのだろう、正しい死神の定義をすらすら述べられて、卯ノ花はますます困惑する。
雪音を死神にしよう、等という事は考えた事も無かった。
何はともあれ、雪音をまず落ち着いた生活になじませる事が第一だったし、死神の仕事は大小の差こそあれ、危険を伴う。
このか弱い少女には、到底合わない仕事だろう。
しかし、言葉にした事で余計に意志堅固となったのか、雪音は大きな瞳を更に大きくして、
「雪音、死神になるの。それでね、今日みたいに胡蝶が怪我したら、雪音が死ななくしてあげるの。
そうしたらきっと、胡蝶はありがとうって言ってくれるの。死なないでいてくれるの。
だから烈様、いいよね? 雪音、死神になってもいいよね?」
「雪音……」
きらきら輝くような笑顔でそう問いかけてきたので、卯ノ花は言葉を失った。
雪音はこれまで見た事が無いほど楽しそうに、死神になったらどんな事をするか、夢中になって話している。
叶うかどうかも分からない将来の夢を語る様は、しかし普通の子供と寸分違わぬ無邪気さで、見ていると胸が温かくなるような気がしてきた。
「……そうですね」
箸を置いた卯ノ花は、まっすぐにこちらを見上げるつぶらな瞳を見つめ返し、思う。
叶う、叶わないは問題ではない。この子が願いを持ち、それがこの子の生きる糧となるのなら。
「良いでしょう、雪音。死神になりたいと言うのであれば、今日からもっともっと、たくさんのお勉強をしましょう。
死神になるために知らなければならない事は、たくさんありますからね」
卯ノ花はにっこり微笑んで、そう言った。すると雪音はぱっと顔を輝かせて、うん、と頷く。
「雪音、絶対、烈様みたいな死神になるの。絶対、絶対に!」