日が傾き、障子を透かす陽光が形を変え、影が少しずつ畳の上に伸びていく。
遠くに鳥の声が響く穏やかな静寂の中、小十郎は壁に向かって一人猛省していた。
(俺は……俺は何という不心得者だ! いくら政宗様から許しを頂いたからといって、その足で部屋に朝顔を引っ張り込んで、こんな昼日中から……!!)
一時の興奮が過ぎ去った後襲いかかってきたのは、穴があったら入りたいほどの自己嫌悪だった。
こんなつもりではなかった。自分はただ朝顔に結婚を申し込んで、その了承を得ようと思っていただけなのに、よりにもよってそのまま押し倒して事に至るなどという、血気にはやる若造のような真似をしてしまうとは。
(政宗様にも朝顔にも顔向けができねぇ……)
申し訳なさと恥ずかしさのあまり、うなだれていると、
「……ちょいと旦那。そうもあからさまに落ち込まれると、さすがにあたしも傷つくんだけどねぇ」
背後から呆れた声がかかったので、びくっとした。しまった、頭が冷えた途端、小十郎がいきなり背を向けたのだ、朝顔が不快に思うのは当然だろう。慌てて振り返り、
「あ、いや、おめぇは何も悪くねぇ! 俺はただ、自分のふがいなさにだな……」
いいわけを口走ろうとしたが、軽やかな笑い声がそれを遮った。身支度を整え終えたらしい朝顔は、ゆったりと小十郎に微笑みかける。
「右目の旦那が何を考えてるかは分かってるよ。ぜぇんぶ、顔に書いてあるもの」
「う……そ、そうか」
そんなに分かりやすく出ているのか、とつい自分の顔に手を当てながら、小十郎は朝顔に目を奪われてしまう。
朝顔は右肩に髪を流して、指で梳いているのだが、その所作一つ一つが実に艶めかしい。情事の名残でうっすらと火照った肌はつやつや輝いており、こちらを見つめる瞳はしっとりとした輝きを放ち、肉厚の唇は誘うような笑みを浮かべている。
雰囲気が一変しているのは、情を交わした後だろうか。
今はただ座っているだけなのに、指先、髪の一本一本まで、したたるような色気に満ち満ちていて、小十郎は思わず生唾を飲み込んでしまった。すぐに、
(な、何を考えてるんだ俺は、たった今自制を誓ったばかりだろうが!!)
胸にこみあげてくる邪念を振り払おうというように、ぶんぶんと勢いよく頭を振る。それを見た朝顔は鈴を振るような笑いを漏らした。
「もうすんじまったんだから、そんなに悩む事ないだろ、旦那。それとも、あたしはよっぽど、お眼鏡に叶わなかったのかね?」
そう言い出すものだから、咄嗟に「そんなわけがあるか!」と叫んでしまった。しかし叫んだ途端、ぼっと顔が火を噴くように熱くなり、
「~~~!」
小十郎は今度こそ恥入り、目を手で覆ってしまった。
(あぁ畜生、こんなみっともねぇ事をと思うのに、何を満足してやがるんだ、俺って奴は!)
ぐるぐると先刻までのあれやこれやが頭を巡り、小十郎はぐうの音も出ないほど、実感する――朝顔と自分は、いっそ信じがたいほど、相性が良い。
「それならよかったよ。あたしはてっきり、右目の旦那に嫌がられてるのかと思ってたから」
「……そんな事は、ありえねぇだろう」
ほっとしたように朝顔が言うので、小十郎は呻き声で答える。だが、
「ありえないと言われてもねぇ……。
最近の旦那は、あたしがちょっと触っただけで、石になったみたいに緊張してたじゃないか。あれじゃあ、よっぽど疎まれてるんだと思っても仕方ないだろ?」
不満と悲しさが混じった声音に顔を上げざるを得なかった。ああそうだ、この誤解をといておかなければ。
「……朝顔。この際、洗いざらい話しておく」
「なんだい、改まって」
しばらく言葉に迷った後、小十郎はずりっと体を動かして、朝顔に向き直った。
その目を見るとまた、むらむらとあらぬ衝動がわき起こってしまいそうな気がしたので、畳に視線を落としたまま、小十郎はぼそぼそと話し始める。
「俺は、おめぇに初めて会った時から、……こうなる事を望んでいた気がする」
あの山道で助け出した時、その姿を目にした瞬間、小十郎は一目で惹かれた。
馬に乗せた朝顔を支えた手で、自分でも驚くほど、朝顔の女らしい体を意識してしまった。
「以前おめぇが奥州を離れた時、言っていたな。いつも俺がおめぇに触りたそうな目で見ている、と。
……まさしく、だ。俺はずっと、おめぇを抱きたいと、腹の底で思い続けていた」
「…………」
朝顔の答えはない。顔を見ていないので、どんな表情をしているのか分からない。
結局体が目当てなのかと呆れているかもしれない、と思いはしたが、今吐き出してしまわなければ、きっとこれから先、口にする事など出来ないだろう。
「だが、それは考えちゃならねぇ願いだった。
俺にとって最も重要なものは政宗様であり、政宗様の御為にこの命を使うと決めていたから、その他のものに心を移しちゃならなかった。
まして、おめぇがしのびだと知った時は――テメェの下心に惑わされて政宗様を危険に晒してしまったと、後悔した」
ぎゅ、とあぐらをかいた膝の上で拳を握る。あの時を思い出すと、喉に何か詰まったような息苦しい感覚に陥る。
「だからおめぇに近づいてはいけねぇと思っていた。
所詮、利で動くしのびでしかないのだと、だからどんなに惹かれても、心を許してはならねぇと思っていた」
だが、と続ける。再び顔に熱がのぼってきて、声が揺れてしまう。
「だがそいつは、結局建前でしかなかったんだ」
「……建前って?」
朝顔が小さく問いかけてきた。まだ、顔が見られない。朝顔の膝辺りに視線をうろつかせながら、小十郎はかすれた声で、
「俺は、……俺はただ、おめぇに溺れてしまうのが怖かった」
辛うじて囁く。
「手に触れて、顔に触れて、その唇に触れてしまえば、もう後戻りが出来なくなるくらい、おめぇに溺れてしまいかねないのが、恐ろしかったんだ」
自分の中に少しずつ溜まっていく情念。
それを感じ取りながら、小十郎はあえて押さえ込んで、そんなものは存在しないのだと、目をそらし続けてきた。
だが無視しようとすればするほど、それは体の中に闇が凝るがごとく降り積もり、もとより鬼の気質を持つ心を侵し、蝕んでいった。
「命を全部よこせと大口を叩いた上、この家に連れてきたってのに、この俺のふがいなさで振り回した。
その上結局、勢いで押し倒すような真似までして、おめぇに無理強いした。それをどう謝っていいのか、俺にはわからねぇ」
改めて口に出してみれば本当に、何てみっともない振る舞いだろう。
消え入りたいほどの羞恥で、ぐぐっと握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
「だが……俺はもう、おめぇを手放す事ができない。
テメェ勝手な欲望でおめぇをめちゃくちゃに傷つけるかもしれねぇと思うのに、どうしても、手放す事ができねぇ」
今この瞬間も、体は朝顔を欲している。その浅ましさに侮蔑しながら、切り捨てられない。だから、
「――朝顔、俺の妻になってくれ。俺のそばにいてくれ。俺はもう、おめぇなしでは生きていけねぇんだ」
小十郎はぐっと歯を食いしばり、すがるような思いで願いを吐き出した。それに対して、朝顔がすう、と息を飲む。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
そのまましばらく、緊張の糸がぴんと張りつめた沈黙が続いた後、
「……あんたって人は……」
震える声が耳に届いた。
激昂か、恐怖か、拒絶か。
反応を恐れながら、小十郎はそろそろと視線を上げた。
朝顔の膝から腰、胸を経てようやくその顔を目にした時――しかし朝顔は、もはや耐え難いというように顔を真っ赤に染め上げ、ふるふると震えていた。
眉を八の字にしてあんたね、と呻き、
「本当に、右目の旦那、あんた、何てとんでもない殺し文句ばっかり……」
頭を抱えたかと思うと、
「ああーーもう! 聞いてるこっちが恥ずかしいよ!! 馬鹿!!」
「うぉっ!?」
いきなり小十郎に勢いよく飛びついてきた。何事かと目を白黒させるこちらに構わず、きらきらと艶めく瞳で小十郎を見上げてくる。
「……そんなの、あたしだって同じだよ。あたしだって、もう旦那なしじゃ生きられない。
それに、あたしの命は右目の旦那のものなんだろ? この心も、体も、全部あんたの好きにしていいんだから」
あぐらの上にまたがって、朝顔は小十郎の首に両腕を回した。その豊満な胸が厚い胸板に押しつぶされるほど密着し、
――狂うほど欲しいなら、全部奪って。
微笑みながら甘く囁きかけてくる。ただ一人、小十郎だけを映すその瞳。その中に、ゆらゆらと蠢く欲望の炎を見いだして、小十郎はあぁ、と小さく声を漏らしてしまった。
(……そうか。もう、遠慮をしなくてもいいのか)
この体の中で暴れようとする鬼を、理性の鎖で縛り付ける必要など、無いのか。それならもはや、何を躊躇う事があろうか。
「――あぁ、分かった。そう、させてもらう」
小十郎はふっと笑った。朝顔の髪に手を滑り込ませ、頭を引き寄せると、顔を重ね合わせる。
「は……あっ……」
吐息が絡み合う。唇を割って舌を絡めながら、先ほど触れたばかりの滑らかな肌に手を滑らせる。
――従順に、淫らに応えるこの肢体の全てを好きに蹂躙していいというのなら、この身が鬼になってしまっても構わない。
再び燃え上がる情欲に、今度は安らかな気持ちで身を任せた小十郎は、心の思うがままに朝顔を愛し始める。
その心中にはもはや、ひとかけらの迷いも残ってはいなかった。