花のうへの露47

 これまで生きてきた中で、声をあげて泣いた経験など、ほぼ皆無に等しい。だから朝顔は知らなかった。
 涙も空っぽになるほど泣いた後がこんなに苦しくて、体がだるくなるほど疲れて、心がまっさらになってしまうなんて。
「はっ……ぁ、う……ひっく……」
 泣いて、泣いて、泣きすぎた結果、頭がぼうっとして、何も考えられない。いつもは遠くの音もよく拾う耳に響くのは、しゃっくりあげる自分の呼吸と鼓動だけだ。どれくらいの時が経ったのか、尽きる事を知らなかった涙がようやく枯れ果て、感情の爆発の余韻は波のように引いていく。それに伴って少しずつ冷静さを取り戻し、
(う……くるし……息が、できない……まぶたが重い……)
 ようやく頭がゆっくりと回り始めた頃、
「落ち着いたか、朝顔」
 耳に心地よく届く声がして、ぽん、と背中を叩かれた。
「え……?」
 それにつられて顔を上げた朝顔は、
(――近っ!?)
 思いがけないほど間近に小十郎の顔があったので、びくっと肩を跳ね上げてしまった。小十郎の真摯な瞳と真っ向から視線が合ってしまい、慌てて顔を背ける。
「だっ、大丈夫、もう、大丈夫だよ旦那!」
 我に返ってみれば、いつの間にやら小十郎に抱きしめられている上に、さっきまで自分はその胸にすがって大泣きまでしていた。
(は、恥ずかしすぎる!!)
 感情を抑制する事に慣れきっていた朝顔にとってこの状況は、醜態に他ならない。それに、自分を抱擁する小十郎の腕の力強さやら、がっしりとした胸の逞しさやらを今更意識してしまって、勝手に顔が熱くなってくる。
「ご……ご、ごめんよ右目の旦那、とんでもなくみっともないところを見せちまって」
 恥ずかしくて、顔を見る勇気もない。今こそ仮面が欲しいと切に思いながら、朝顔は厚い胸板を押して身を離そうとしたが、
「いや。泣いてすっきりするのなら俺の胸くらい、いつでも貸してやる」
 小十郎が笑い含みに囁いて、左手で朝顔の顎に触れ、軽く持ち上げた。
「だ……旦那?」
 つい、と上がった視界で、小十郎が、これまで見たことのないような、柔らかい微笑を浮かべて朝顔を見つめている。さながら仏様のごとく、慈愛に満ちた暖かい笑みに、朝顔はかーっと血の気を上らせてしまう。
 ちょっと待って欲しい、何だってこの人はこんなに優しい目で自分を見ているのか。いかにも大切なものを扱うように、丁寧な手つきで頬に触れてくるのか――次々と押し寄せてくるかつてない事態に朝顔は混乱して絶句しかけたが、
「……痛っ!?」
 不意にざりっと頬に軽い痛みを感じたので、声を漏らしてしまった。
「! あ、すまねぇ」
 ハッとして小十郎が引いた手を見て、朝顔は驚いて目を丸くしてしまう。
「なっ……右目の旦那、これ何だい!? 腕が焼けちまってるじゃないか!」
 後ろに隠そうとするのをばっと掴んで目の前に引き寄せた腕は、小手から二の腕に至るまで焦げて黒ずんでいる。広げた手のひらは布も焼け落ちて、火傷で肌がささくれていた。先ほど頬をひっかいたのは、この怪我だろう。
「あぁ……まぁ、何だ。どうって事はねぇ、気にするな」
 そして、腕を取られた小十郎の気遣わしげな物言いで、ハッと気づいた。
(これ何だいじゃないだろう、馬鹿! 右目の旦那、あたしを止めようと無茶して、こんなになっちまったんだ)
 鳴神と言ったか、雷を全身に纏ったあの技はおそらく、こんな近距離で放つものではなかったはずだ。
 基本的に遠距離からの攻撃を得意とする朝顔に最接近し、なおかつ針を封じる為に小十郎が選んだのが先の一撃だったのだろうが、それは諸刃の剣、小十郎自身も浅からぬ傷を負う攻撃だったに違いない。
「ご……ごめんよ、右目の旦那。あたしのせいでこんな、こんな怪我までさせちまって……」
 自分のせいでこの人が傷ついてしまう事が、こんなに苦しいなんて。胸を締め付ける申し訳なさに、そっと小十郎の手を包み込むと、
「……」
 ふっと笑いの気配がして、自分の手に、小十郎の右手が軽く乗せられた。
「だから気にするな。それよりおめぇは平気か、朝顔。加減はしたつもりだが、体は平気か? 痛むところはねぇか」
「あ、あたしは何ともないよ。……さっきの旦那は、ものすごくおっかなかったけど」
 初めて秀吉に遭遇した時に匹敵するほど、小十郎の一撃は恐ろしかった。体が雷で痺れて動かず、更に刀がガツンと仮面に食い込んだ時は、このまま頭をかち割られると覚悟したほどだ。
(まぁ、あそこまでやられたからこそ、あたしも我に返ったんだけどさ)
 荒療治には違いないが、おかげで豊臣や石田への執着が吹っ飛ばされてしまった。この人を倒さなければ石田にたどり着けないというのなら、自分はきっともう一生かけても無理だろう。
(……なんだかすごく、落ち着かないよ)
 そう思うと、何だか居たたまれなくなる。無面が壊されてしまったのでむき出しになっている顔の表情を、どう作っていいのか分からない。しかも、
「すまねぇ。俺も、おめぇを止めようと必死だったんでな。……ともかく、怪我がなくて何よりだ」
 小十郎は心を込めて朝顔を労り、ぎゅっと手を握ってくる。
 痛々しい傷を負った手の感触や温もりは、居心地が悪くなるほど暖かくて、逃げ出したくなる。たまらず俯いたまま、
「だ、旦那っ、ちょっと手を……」
 離しておくれよと言い掛けた時、
 ……ドォンッ……!!
 遠く離れた場所からひときわ大きな音が響き、地面が微かに揺れた。
「!」
 息を飲んで同時にそちらへ顔を向けると、空に大きな土柱が立ち、その周囲に桃色の花びらのようなものがちらついているのが見えた。
「あれは……前田の旦那?」
 その方角が石田の本陣である事に加え、以前同じ光景を目にした朝顔はすぐさまそれを察した。
 そうだ、うっかりしていたが、天下分け目の戦は今まさに決着を迎えようとしている。あの場で戦っている男達の事を思えば、こんなところでぐずぐずしてはいけない――自分はともかく、竜の右目たる小十郎は特に。
「右目の旦那、伊達の殿様のところへお行きよ」
「朝顔」
 眉根を寄せて彼方を睨み付ける小十郎が、こちらへ顔を向ける。朝顔はその手をほどき、背を押して急かした。
「前田の旦那ああ見えては強いし、豊臣にはあたし以上に思い入れが深いんだ。伊達の殿様もお強いんだろうけど、あたしみたいに簡単にいきはしないよ。……早く行って、加勢しておいで」
「……そのつもりではあるが、おめぇはどうする」
 地面に立てた刀を抜いて鞘に納めた小十郎の目が、常の冷静さを伴って鋭くなる。そのおかげで落ち着きを取り戻した朝顔は首を振った。
「大人しくここで待ってるよ。あたしが行ったところで厄介な事にしかならないだろうし」
「あちらに戻れば、石田を……殺したくなるか」
「……いいや」
 その問いに答える唇の端があがり、苦く笑う。
 先ほどまで、あれほど心を占めていた殺意は、どこかへ吹き散らされてしまった。本人を目にすればどうしようもなく心はうずくだろう、だがおそらく、もう命を狙うような事はしない。
「あんな馬鹿な真似はしないよ。信じられないなら、旦那の名にかけてもいい。――あんたの言う通り、あたしの仕事は、もう終わったんだ」
「…………」
 小十郎はじっと朝顔を見つめる。その鋭利な眼差しはこちらの心を全て見透かすようで逃げ出したくなるほど恐ろしかったが、朝顔は強いてそれを真っ向から受け止めた。もうこの人から逃げ出せる気がしない、それなら怖くても向き合わなくてはと覚悟を決めたからだ。
 沈黙はそう長くなかった。
 小十郎は不意に腕を伸ばして朝顔の手を掴むと、そのまま走り出す。
「え、ちょっと、旦那? あ、あたしはここで待ってるって……」
 その行き先が主戦場と見当がつき、面食らった朝顔は前をいく小十郎へ声をかける。だが相手は振り返らず、
「石田を殺さないと決めたのなら来い。豊臣の最後を見届けるのも、おめぇがすべき仕事だ」
 それに、と朝顔の手を強く握りしめた。
「……俺はおめぇと離れたくねぇ。一緒に来い、朝顔。俺のそばにいろ」
「――!!」
 ぐっと小さくなった声を、朝顔の耳は容易に拾い上げる。それを聞いた途端、朝顔はぼっと顔が熱くなるのを感じて、
(な、な、何なんだよ旦那、さっきからおかしくないかい、こっちが恥ずかしくなるような事ばっかり言わないでおくれよ!!)
 またもやぐちゃぐちゃに乱れる頭の中の言葉を吐くに吐けず、池の鯉のようにぱくぱくと口を開き閉じしながら、小十郎に手を引かれるまま走る羽目になってしまった。

 そんなちょっとした混乱の後。
 小十郎が朝顔を抱えて駆けた道を戻った二人の前に広がった石田軍の陣中では、
「ぐっ……Shit、しくじったぜ……」
「政宗殿、これ以上は無理でござる! 貴殿の体が保ちませぬぞ!」
 六爪を支えに何とか立っている政宗と、彼をとどめる真田の姿があった。
「政宗様!!」
 傷ついた主君の姿に色を無くし、戦場へ飛び込んだ小十郎はすぐさま駆け寄ろうとする。だが、
「……俺もこれ以上やる気はない。もう諦めてくれないか、独眼竜」
 その間に立った男が大刀を政宗の眼前から引いて、静かに告げた。こちらも満身創痍、色鮮やかにかぶいたその服はあちこち裂けて血に汚れ、見る影もない。だが、その全身の隅々にまで気が充足して、まるで大地そのものようにどっしりと構えて隙が見当たらなかった。
「前田、テメェ……死ぬ覚悟は出来てんだろうな」
 揺るぎなく立つその背中に、抜刀した小十郎が切っ先を向ける。肩越しにこちらを振り返った慶次の表情には、しかし気負いも殺気もない。小十郎、その後ろに下がった朝顔を認めると、
「……あぁ、そっちも何とか、収まるところに収まったんだな。よかった」
 いつものように顔を和らげて、笑ってさえみせる。
(前田の旦那……あんな顔、初めて見る)
 それを目にした朝顔は軽い驚きを覚えた。
 楽しいことが大好きで、いつも明るく笑っている加賀の風来坊、前田慶次。その笑みはしかしいつも薄っぺらで、どこかに心を置いてきたかのような軽薄さがあった。だが今、何の気負いもない微笑は優しく、満たされた美しささえ感じさせる。
「人のことより自分の心配をするんだな、前田。政宗様への無礼、この俺が見逃すとでも思うのか」
 毒気を抜かれた朝顔とは逆に、小十郎は更に怒りをかき立てられたらしい。険を含んだ声音で殺気を起こしながら、ぐっと前のめりになり、
「……Wait, 小十郎」
「!」
 他ならぬ主の声がそれを止めた。ふらつきながら背筋を伸ばした政宗は兜の庇から、刃のごとき眼光で慶次を見据える。
「前田慶次、一つ聞きてぇ事がある。わざわざそいつを気絶させて、俺から守るような手間暇かけるのは、一体どういう了見だ?」
 その言葉でようやく、石田が慶次の足下に倒れているのが朝顔の目に入った。ぴくりともしないが、政宗の言によるならまだ生きているのだろう。そして確かに慶次は、石田を庇うようにどんと構えて立っている。
「……俺は、戦いが嫌いだ」
 政宗の問いかけに答える慶次の声は静かだ。周囲の地面には大穴がいくつも穿たれ、両者ぼろぼろになった姿からも激闘の名残は容易に見て取れるが、慶次の巨躯から殺気はひとかけらも感じられない。
「だから、話し合う。石田の話を聞き、俺の話を聞かせて、わかりあえるまで、とことん語り尽くす」
 ちら、と石田を見下ろすその眼差しには、悲しみと哀れみがあった。それはかつての友を語る時にかいま見せたものと同じ表情だ。
「石田が話し合いなんかで納得すると思ってんのか? 少しでも隙を見せりゃぁ、あんたの首をかっきるだろうぜ」
 ちき、と刀を握りなおして政宗が冷ややかに否定した。だが慶次は小さく首を振る。
「俺は死なない。石田も死なせない。たとえどれだけ時間がかかっても、生きてわかりあえるようにする。そのためなら俺はこの命をかけたっていい」
 大刀をすっと眼前に構え、慶次は腰を落とした。見ているこちらの背筋が冷たくなるほどの気迫をみなぎらせ、
「だから俺は絶対に石田を死なせはしない。石田を狙う奴がいるなら、俺が相手を引き受ける。――それが、秀吉の為に俺がしてやれる、最後のはなむけだ!」
 どんっ、と地面が揺れるほどの力を込めて、足を踏み出す。石田を倒し、政宗と激しく剣を交わしてなお、全く怖じる事のないその姿は、かつて豊臣秀吉に立ち向かっていった時のそれとよく似ていた。
「慶次殿、なんという覚悟か……!」
「政宗様……」
 慶次の啖呵に感嘆する真田の声を飲み込んで、空気がぴんと緊張し、政宗はもちろん、小十郎もまた気を張り巡らせて互いの動きを牽制する。極限まで張りつめた緊張は、やがて激しい激突に至る――そう予感して、朝顔が乾いた喉に唾を飲み込んだ時、
「――It’s so sweet.」
 がしゃ、と刀の切っ先を下げて、政宗が呟いた。
「あんたはいつもそうだ。ねぼけた理想を語るばかりで、そいつを錦の御旗のごとくかざして、水を差しやがる」
「独眼竜、でも俺はっ」
 しゃりんっ!
 真剣な顔で言い募ろうとする慶次の言葉を、しかし政宗は腕を交差させて刀を鞘に納めることで遮った。腕を組み、ニッと精悍な笑みを見せつけると、
「だがそれも、命をかけて貫き通せば、立派な覚悟になるんだろうさ。――いいぜ、やってみせな。あんたの甘ったるい理想で、その分からずやを説き伏せてみろよ」
「――独眼竜! 分かってくれたのか、嬉しいよ!!」
 ぱっと慶次の顔が喜色に輝く。刀を放り出して、直前まで命のやり取りをしていた相手と、握手をせんばかりに迫ってくる様子に政宗はたじろぎ、
「いっとくが、あんたが失敗してそいつが野放しになった時は、今度こそ容赦しねぇからな。もう変な横やりを入れてくるのは無しだぜ、You see?」
 慶次の肩を押しとどめて念を押す。あぁわかってる、と弾んだ声で答えた慶次は踵を返して、気絶している石田をうつぶせに肩へ担いだ。そのままぐるっと後ろを向き、
「家康。西軍の総大将はこの有様だからさ。悪いけどこの戦の後始末、頼んでいいかい?」
 隅に下がって見守っていたらしい家康へと声をかける。腕組みをほどいた家康は、
「あぁ、もちろん請け負うとも。どうやらわしの役目はそれぐらいしかないようだからな」
 静かに歩み寄り、慶次に担がれた石田の後頭部を見下ろし、寂しげな微笑を浮かべる。
「結局わしは、見ている事しか出来なかったな。本当はこの手で、三成を止めたかったんだが」
「……でもあんたはいつも、見ていたじゃないか」
 その顔を、自身もまた陰った笑みを浮かべて見つめながら、慶次は言う。
「最初から最後まで、目を逸らさずに向き合い続けた。――俺からすれば、それこそ立派な事だよ。あんたは一度も逃げなかったんだからさ」
「慶次……」
 互いに豊臣とは因縁浅からぬ仲、思うところもあったのか。家康は何か言いたげに口を開いたが、結局思い直したのか、
「慶次、三成をよろしく頼む。いずれ落ち着いたら、便りの一つもよこしてくれ」
 ばんっ、と慶次の腕を叩くと、そのまま背を向けて駆けだし、
「ではな、皆の衆! いずれまた!」
 爽やかな言葉と共に地面を蹴って宙に飛び上がった。そこへ空の彼方より、轟音と共に飛来した本多忠勝が主を背に受け止める。そのまま一直線に戦場へ戻っていく後ろ姿を見送り、
「それじゃ俺たちも行くよ」
 肩に刀と三成、そして懐から飛び出してきた夢吉を乗せて、慶次も暇乞いを告げる。それを聞いた真田は身を乗り出した。
「前田殿、それがしも石田殿の行く末が気になり申す。甲斐にもその後の様子をお知らせ頂けませぬか」
「あぁ、分かった」
「ちょっと待った、あんたはこれでいいのか? 石田は武田のおっさんを狙ってるんだぜ。あんたがこの戦に首を突っ込んだのは、そいつを止める為だったんだろ」
 ふと気になった様子で政宗が問いかけると、若き虎は握りしめた拳を胸に当てた。
「無論、お館様のお命を狙う輩は見過ごしには出来ぬ。だが一方で、石田殿の、豊臣殿への悲しくも熱き心、それがしの胸にしかと刻まれ申した。ただ一人心に決めた主の為に命を捧げる覚悟には共感いたす」
 きっと燃え上がる目で見据え、真田は爽やかに笑った。
「故にそれがしは石田殿を憎みはせぬ。前田殿と分かり合えたならその後、それがしも石田殿と腹を割って話をしたいと存ずる。前田殿、そのことを石田殿にぜひお伝え下され」
「……あぁ、分かった。必ず伝えておくよ」
 真田の真っ直ぐな心に打たれたのか、慶次はやや目を潤ませて頷く。
「Good grief……こっちにもso sweetな奴がいたことを忘れてたぜ」
 そのそばで政宗がげんなりした様子でため息をついた。それにハハッと笑い声を漏らした後、
「――桔梗。いや、今は朝顔か」
 最後に慶次がこちらへ向き直った。何を言うべきか考えるような間をおいて、
「色々……本当に色々、世話になった。いくら感謝しても、しきれないよ。あんたにまで乱暴しちまって、すまなかった」
 軽く頭を下げて詫びを入れてくるので、朝顔は苦笑して肩をすくませた。
「あたしらはたまたま利害が一致したから手を組んだだけだし、そいつがかみ合わなくなったから戦ったってだけだ。あんたが感謝することも謝ることもないよ、前田の旦那」
「でも、それだけじゃないだろう。あんたも、秀吉の事を大事に思ってくれてた」
「!」
「今日、それが分かって嬉しかったよ。あいつを憎むばかりじゃない、慕ってくれてた人が居たんだと思うと、少し、救われる」
「……前田の旦那」
 慶次の優しい言葉に、朝顔は目を伏せてしまった。やはり、どんな顔をしていいのか分からない。
「いつか石田と一緒に、秀吉の話をしにくるよ。それまで待っててくれるかい、朝顔」
 柔らかい声で、慶次はそう申し出てくる。朝顔は自分を守るように、あるいは律するように、右手で左手の肘をぎゅっと握りしめながら、
「……好きにおしよ。あんたがそいつをきちんと躾けてくれるんなら、話くらいはしてやってもいいからさ」
 そんなひねくれた言葉を返してしまう。だがその答えも、慶次には嬉しく響いたのだろう。あぁもちろん、と喜びを交えて答えた慶次は、
「それじゃ皆、またな! 元気でやっててくれよ!!」
 別離の挨拶を残し、人と大刀を抱えてるとは思えない速さで駆けだし、あっと言う間に姿を消してしまった。
「Ha……やっと静かになった、な……」
「政宗殿!」
「! 政宗様!!」
 慶次と石田、徳川が居なくなった事で、緊張の糸が切れたのか。不意に政宗の体が傾ぎ、ずしゃっと地面に膝をついてしまう。慶次に阻まれてそばに近寄れなかった小十郎が、飛ぶような速さでそのそばへ駆け寄り、その体を支えた。
 御身ご無事ですか、お気を確かに、と気負った様子で主を労る姿を漫然と眺めていたら、
「やーれやれ。これでひとまず、片は付いたと見ていいのかな」
「佐助」
 赤茶髪のしのびが頭をかきながら、歩み寄ってくる。ほい、と差し出してきたのは、先ほど彼の動きを封じるのに使った針の束だ。反射的に手を伸ばした朝顔は、しかしふと動きを止め、
「……そいつは、あんたにやるよ。煮るなり焼くなり、好きにおし」
 低く言い放った。え、と佐助が目を丸くする。
「いや、もらっても俺様にはどうしようもないんだけど……あれ、もしかして姐さん、本気でしのびやめる気になってる?」
「……まぁ……ね」
 以前、しのびはやめると口にした事がある。だがそれは戯れが半分、後の半分は、
(やめる時は死ぬ時だ)
 という覚悟によるものだった。
(それがまさか、こんな形でなんて、ねぇ)
 今小十郎は傷ついた主人を世話することに夢中で、こちらは全く眼中にない。もしかしたらこのまま姿を消しても、しばらくは気づかないんじゃないかと思う。けれど、
(命を全部寄越せ――とまで言われちゃ、もう、どうしようもないじゃないか)
 面を割られ、抱きすくめられて、あの言葉で魂まで奪われた。妄執にも近かった石田への殺意を木っ端みじんにされては、もう小十郎に従って生きる他ない。
(全く、とんでもないお人につかまっちまったもんだ)
 そう思ってふう、とため息をもらした時、
「……? 何だい、佐助」
 佐助がまじまじとこちらを凝視している事に気づき、問いかける。佐助はいやぁ、と顎を撫で、
「姐さん、片時も目を離したくないって感じで右目の旦那に見入ってるからさ。よっぽど惚れ込んでるんだーと思って、感心してたんだよ」
「は、はぁ?」
 そんなに見ていたつもりはなかったので、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。なにを馬鹿な事を、と一蹴しようとしたが、不意に佐助の姿がかき消え、
「ちょっとちょっと、右目の旦那!」
「あ? 何だ猿飛、今はてめぇの相手をしてる暇はねぇぞ」
「そんな事言わずにさー、ちょっと教えてよ。一体全体どうやって姐さんを口説いたのさ? 姐さんがあーんな恋する乙女な顔してるの、俺様初めて見たよ。ちょっと後学のためにさ、落ちない女を落とすやり方、教えてくんない?」
「なっ、何?」
 よりにもよって小十郎に下らない話をひそひそと耳打ちし始めたので、朝顔はカッとなって、
「佐助!! 全部聞こえてんだよ、この馬鹿!!」
 捨てようと思っていた最後の黒針を、不肖の弟子に向けて思い切り投げつけてしまったのだった。