花のうへの露45

 これが最後の仕事。最後の任務。
 故に必ず成し遂げるのだと、覚悟を決めていた。
 もしその結果が死であろうと、いっこうに構わなかった。
 草はもとより、死を恐れる心など持ち合わせていないのだから。

 火花を散らして、三者の武器がつばぜりあう。しばし拮抗した力勝負から、
「……チッ!」
 最初に退いたのは桔梗だった。舌打ちをしてバッと後ろに飛び、間合いぎりぎりの位置で身構える。
(さすがに二人相手は厳しい)
 石田だけでも厄介なのに、徳川が横やりを入れてくるとは計算外だ。何とか隙をつかなくては。
 そう考えて油断なく相手の動きを見据える桔梗を、石田、徳川も構えて警戒する。ぴんと緊張が糸を張る中、苛立たしげに口を開いたのは石田だった。
「家康……貴様、何のつもりだ。何故私に手を差し伸べる。よもや秀吉様を裏切った罪滅ぼしのつもりか」
 その恨み節は仇である桔梗はもちろん、かつての仲間、徳川にも向けられるらしい。徳川が小さく苦笑を漏らした。
「そんなつもりはない。わしは今日、いつまでも続く戦いの連鎖を断ち切る為にここへ来た。三成、お前を止める為にな」
「…………」
「お前はもう、わしの事を裏切り者としか思っていないかもしれない。だがな」
 ぎゅ、と力強く地を踏みしめ、徳川はきっぱり言い放った。
「わしはお前を今でも友だと思っている。かけがえのない絆だと思っている。そのお前が目の前で命を狙われているのに、見殺しになど出来ない」
「……貴様の偽善には虫酸が走る」
 きん、と刀を鞘に納め、三成が吐き捨てた。その声には少しずつ、身の内に秘めた怒りが上乗せされていく。
「私には友など居ない。貴様は栄えある豊臣軍の一翼を担いながら、秀吉様を見限った。
 己が野心の為秀吉様を裏切った、何にもまして許し難いその罪を悔いる事も、許しを乞う事もしないというのなら、貴様の首を刈り取るだけだ!」
 ぎゅう、と柄を握りしめ、三成がその切っ先をこちらへ向ける。
「そしてそれは貴様も同じだ、桔梗……貴様の罪は、家康のそれよりもなおいっそう許し難い、そのちっぽけな命一つではとうてい購えるものではない!」
 蓄積された憎悪は、それだけで体を切り刻みかねないほどに鋭い。肌を刺す殺気に、手中の針を握りしめながら、桔梗は淡々と答えた。
「許しなど要らぬと、すでに言った。豊臣の崩壊は必定、たとえ私が手を貸さずとも、いずれ成った事」
「貴様っ……まだその戯れ言を口にするか!!」
「……戯れ言なものか」
 声が、震える。
 石田の怒りにつられて感情がこぼれそうになり、桔梗はしいて心を落ち着かせた。
 豊臣滅亡のあの日から今日まで、憎悪の因縁で結ばれた男が、目の前にいる。その命を奪える機会はこの時をおいて他にないだろう。
 怒りに高ぶる石田の鼓動の音を聞き、居合いの予備動作を見逃すまいと意識を研ぎ澄ませながら、桔梗は言葉を綴る。
「お前は何も知らない。豊臣によって滅ぼされた者達の怨嗟の声を」
 次の動きに備えてわずかに引いた足下で、じゃり、と土が鳴る。
「力でねじ伏せられ、何もかも奪われ、戦に次ぐ戦、その上外征を強いる豊臣秀吉を憎み、恨む声がどれだけあったと思う。
 豊臣との戦で結果、焦土と化した国がいくつあった?
 徳川家康、お前はそれを見聞きしていた。だからこそ、豊臣最期の時にも傍観に徹したのではないか」
「…………」
 徳川は答えない、だがその沈黙は肯定だ。黙り込む男に怒りを煽られたのか、三成は更に声を荒げた。
「それは奴らが愚かにも秀吉様に逆らったが故だ!
 秀吉様はこの弱り切った日ノ本を強大な一つの国へと生まれ変わらせようとしていた! 己が持てるもの全てを差しだし、理想の実現の為に尽くすのは当然の理だ!!」
 理想。富国強兵。豊臣に仕えていた頃、毎日のように聞いていた言葉。
 当時の自分はそれを疑問に思わず、石田の言うとおり、自らの技の全てを尽くして、豊臣の為に日々働いていた。
 だが――
「違う」
 ひゅん、と腕を振って、石田の言葉を切り捨てるように針を下ろす。真っ直ぐ向き直り、桔梗は言った。
「豊臣秀吉が求めたのは、理想などではない」
「何……?」
 心に蘇るのは、恐怖。豊臣秀吉に出会ったあの日、生まれて初めて抱いた死への恐怖。
「あの男が求めていたのは、無の世界だ」
 首が折れそうな力で桔梗の喉を締め上げてきた男の、憤怒の表情が忘れられない。
「あの男が欲していたのは、ただ一つ……己の罪を忘却する事、それだけだ」

 敵方に捕らわれて拷問を受け、石田の凶行を目にしたその日から後。
 ようよう体が癒えた桔梗は、深更、秀吉の私室を訪れた。
「桔梗、何用だ。危急の知らせか」
 夜中にも関わらず、秀吉は書机に向かっていた。
 このところ竹中半兵衛が体の不調を隠しきれなくなり、秀吉自ら些事に手をつける機会が増えた。今夜もそれに取り掛かっていたのだろう、そばには中途半端に開いた巻物がばらばらと広がっている。
「いえ。……僭越ながらこの桔梗、折り入って秀吉様へお尋ねしたき儀がございます」
 音もなく参上したしのびを察知して咎める声音に、部屋の隅で膝をついた桔梗は目を伏せた。
 心の臓が痛い。これから発する言葉によっては、ここで命を絶たれるかもしれない。否、死が怖いのではなく、この巨漢の怒りに触れる事が恐ろしい。無表情を保ちながら内心おののく桔梗をよそに、
「貴様が我に問いを投げるだと。珍しきこともあったものよ。……よい、許す。申してみよ」
 常ならば却下されそうな申し出は、意外にも受け入れられた。あるいは長年仕えてきたしのびに、労の一つも与えようと思ったのかもしれない。秀吉はこちらへ向き直ってまで、桔梗の言葉を待っている。
(もはや、後には引けない)
 ごくり、と乾いた喉に唾を飲み込み、桔梗は静かに声を発した。
「――先の戦にて、秀吉様に発砲をした男のこと。すでにお聞き及びでしょうか」
「……あの男が、何だというのだ」
 早くも声に棘が帯びているのを聞きわけ、桔梗は身がすくむ思いだった。だが、命の覚悟をしてまで、この場にやってきたのだ。今更逃げ帰るわけにはいかない。逃げ腰になりかける体を叱咤しながら、
「あの男、尾張は杉原家の生き残り。秀吉様の今は亡きご正室、ねね様にお仕えしていた最後の一人であった由にございます」
 いらえは無い。だが、ざわり、と秀吉の気配が動く。空気が不意に息苦しいほどに張りつめ、目を伏せたままの桔梗の肌をちくちくと刺す。
「っ……」
 研ぎ澄まされた耳が怒りに蠢く秀吉の体の動き一つ一つをとらえてしまい、全身が総毛だった。思わず息を飲むと、貴様、と秀吉が口を開いた。
「何をどこまで知っている。あれの事を」
 あれ、とは亡妻の事だろう。その名は今もなお禁忌らしい。顔を伏せたまま、桔梗は小さく言う。
「……秀吉様と初めてお目見えいたしました頃、ねね様がお亡くなりになったと。杉原のものはその原因が、……秀吉様にあると考えていたらしいと、聞き及んでおります」
「桔梗。顔を上げよ」
 重く、深い声が命じる。それに引きずられるように顎を上げると、秀吉は、想像よりは落ち着いた様子で桔梗を見つめていた。
 その瞳の奥には隠し切れない怒りがちらちら揺らめているが、強いて抑え込んでいるようだ。丸太のような腕を組み、
「何故、わざわざそれを調べた。我があれの事を封じているのは、命じずとも理解していたであろう」
 今は怒りよりも疑問を先に投げてくる。それは、と乾いた唇をなめて答えた。
「無論、理解しておりました。理解し、その上で……わたくしが、知りたかったのでございます」
「何故だ」
 切り捨てるような問い。抜身の刀を喉につきつけられているようだ。畳の上で拳を握りしめながら、桔梗は目をそらした。
「秀吉様がその名を聞いただけであれほど狂われるのか、秀吉様にとってねね様がどのような存在だったのか……それをただ、知りたかったのです。何故かは、自分でもはかりかねます」
 いたたまれない。こんな事を口にする自分が信じられなかった。
 桔梗は今まで、仕事に対して常に忠実に働くしのびだった。必要であればどんな情報でも拾い集めるが、そうでなければ、それがどれほど雇い主にとって重要な事であっても、一切、興味も関わりも持たなかった。
 それなのに、今回は。自ら変装し、ねねの菩提寺にまで踏み込んで、無駄な情報を集める事までしている。
(何故こうまで、ねねの事を知りたいと思う)
 それが分からないから、これもまた普段の桔梗であればあり得ない、雇い主の事情を詮索するような真似をしている。
 その結果が死に直結しているのかもしれないのに、まるで火中に飛び込む虫のように、衝動的に。
 じじ、と蝋燭の芯が燃える。その音がきっかけになったかのように、桔梗はハッと我に返った。
 そうだ、こんな事をして何になる? 秀吉が亡妻に思うところがあったとして、それが自分に何の関わりがあるというのか。
「もっ……、申し訳……」
 そう思い至った途端、桔梗は焦燥に襲われ、口ごもりながら謝意を吐き出そうとした。だがそれより早く、
「あれは我の弱さであった」
 静謐な声が耳に届く。びくっとして顔を上げると、秀吉は再び背を向けていた。圧を感じるほどに大きな背中が視界を埋める。
「我は覇王でなくてはならぬ。この腐りきった日ノ本を生まれ変わらせる為、何よりも強くなくてはならぬ」
 秀吉の顔は見えない。だがその体からふつふつと湧き上がる闘志は桔梗の目にもとらえられるほど力強い。
「その為に切り捨てた。あれはもはや過去だ。我には必要のないものだ。――故に貴様も気に掛けるな。用のないものに思いを残すほど無為な事はない」
「秀吉様……」
 弱さ。その言葉に何故か胸が痛む。その痛みが示すものを、桔梗は言葉にできなかった。己の感情を抑制する事に慣れきったしのびには、不可解でどうにも持て余す痛みだ。だから、
(もうやめよう)
 それに戸惑い、さらなる言葉を重ねようとする自分の衝動に蓋をした。すっと音もなく天井裏にあがり、
「……承知いたしました。夜分にお手間を取らせてしまい、申し訳ございません」
 濃淡のない声でひそやかに謝罪を口にする。うむ、と咎めもなく鷹揚に答える秀吉の姿を見つめてから天井板を戻し、すぐさまその場を走り去った。
 埃が舞う天井裏を素早く移動し、暗がりから外へ飛び出して屋根にかけ上る。その頂点、平らな棟の部分にしゃがみ、握りしめた拳を押し付けて、桔梗は自身の浅薄な好奇心を恥じ入った。
(あたしは何をしている。秀吉様がどんな事情を抱えていようが、その天下取りをお手伝いできればそれでいいのに)
 秀吉はこの脆弱な国を強国に生まれ変わらせようとしている。
 その願いだけを胸に、己の弱さの象徴たる妻さえ切り捨てて前に進もうとしているのだ。その覚悟を、決意を、何故疑ってしまったのか。
(あれは石田が暴走したが故の凶行だった。秀吉様が欲する世界が、あんな血みどろのものであるはずがない)
 あの時自分が目にした死体の山。それこそが秀吉が作り出す国なのだと何故、あれほど強く確信したのか、今はわからない。
 そうだきっと、拷問を受けて死に瀕していたあの時の自分は、精神に異常を来たしていたのだ。生死の境にあって正常な判断ができないほどに混乱していたから、あんな愚かな事を考えてしまったのに違いない。
(もう、やめよう)
 草の自分はやはり心など持ってはいけないのだ。
 考える頭など持っていたらこうして、信じがたいほどの愚挙に走ってしまう。
 考えるな。一抹の思考も持ってはいけない。
 自分はただ、豊臣の旗印に付き従っていけばよいのだ――そう思い、ぐっと腹に力を込めた時。
 ドォンッ!!
 突然足元が縦に揺れた。
「!?」
 一瞬体さえ浮くほどの揺れに驚き、とっさに鬼瓦を掴む。それと同時に、障子を突き破って、暗い庭へ大きな影……先ほど秀吉が向かっていた書机が飛んだかと思うと、ぐわしゃ! と凄まじい音を立てて海鼠壁に激突する。
「なっ……!」
 見る影もなく粉々になって地面に落ちるそれに目を瞠る桔梗の前で、どんっと地響きを立てて人影が庭に立つ。それはふいごのように荒々しく呼吸を繰り返し、すううと思い切り息を吸って肺を限界まで膨らませると、
 オオオオオオオオオオオオ!!!!!
 耳をつんざくほど大音声を張り上げて吠え滾った。
「!!」
 咄嗟に耳を塞ぐも、音の圧力が突き刺さり、桔梗は声にならない悲鳴を上げてぐらりとよろけた。そのまま屋根瓦の上をごろごろと転がり、なすすべもなく端から宙に投げ出された。そして、受け身を取る事も出来ずに地面へ叩きつけられ、激痛に息を詰まらせるが、その身が竦んだのは痛みのためではない。
 オオオオオオッ!!!!
 獣が吠える、怒りに任せてその拳を振るう。松の木を幹ごと薙ぎ払い、池に拳を叩きつけて水さえ蒸発させ、石灯籠を跡形もなく消し飛ばす。
 怒りの咆哮で塞がれた耳に、それらの騒音は遠く響く。だが地面から伝わる振動から今何が起きているのか理解し、桔梗は喘ぎながら身を起こした。その目がとらえるのは、出会ったあの日のように、怒りに駆られて暴れ狂う、男の姿。
「秀吉……さ、ま……っ!」
 微かに発した呼び声は自分の耳にすら遠い。だがそこで秀吉が、ぴたりと動きを止めた。不意の静寂の中、ふらりと気まぐれな風が吹いて、それまで月を隠していた雲を吹き散らし、月光がその姿を浮かび上がらせる。
 暴虐の嵐に見舞われ、半兵衛が丹精して整えた庭の面影はもはや残ってはいない。その中央に立つ秀吉は、獣じみた呼吸を繰り返しながら、ずしゃっと膝をついた。
「……ろ……」
 はぁ、はぁ、と肩で息をしつつ、秀吉は自分の手を見下ろす。それで己の顔を覆うと、
「消え……ろ……消えろ、消えろ……消えろ……!!」
 低く、切れ切れに呻いた。
(ひで……よし、様……?)
 そばにいくべきか。だが恐怖で、体が動かない。屋根から落ちた格好のまま凍り付く桔梗の耳が、少しずつ音を取り戻し、その微かな声を拾い集める。
「……貴様は……この世にはいない……」
 秀吉は今しがた衝動的な破壊に至ったその手で自身を壊そうとするかのように、激しく顔を叩き始めた。
「貴様は、もう、どこにもいない……なのに何故……」
 その拳は秀吉の顔の骨をも歪ませ、鼻がごきりと折れて血が噴き出す。だがそれにも構わず、秀吉は天を仰ぎ、
「まだ、俺を惑わせる!! 貴様は、俺が……俺がこの手で殺したというのに!!」
 びりびりと肌に刺さるほどの怒りを発しながら――そう、叫んだ。

「…………秀吉様が……己が罪を悔いておられただと……?」
 桔梗の語る言葉に、石田がひくりと口をひきつらせた。
 そうだ、この男はきっと許すまい、と桔梗は仮面の下で目を閉じて、さらに意識を集中する。この男は秀吉を万能の神のように崇めているのだから。その予想通り、石田の体から怒気が膨れ上がり、
「秀吉様が望んでおられたのが、罪の忘却などと……貴様の曲解には、へどが出る!! 訂正しろ!! 秀吉様を貴様の矮小な妄想で貶めるな!!」
 絶叫が弾ける。その手が走り、刀の柄に触れ――だが、その意気をくじくように、目の前をさっと腕が横切った。
「っ、家康!! 邪魔をするな!!!!」
 今しも飛び出そうとしていた石田が、それを遮った男に噛みつく。すまない三成と言いながら、徳川がまっすぐにこちらを見据えてきた。
「わしはずっと疑問に思っていたんだ、桔梗」
「……何をだ」
 その視線を感じて、桔梗は苛立ちを覚える。
「お前はそれまで、豊臣へ真摯に仕えていた。それは契約関係というものを超えた、一つの絆としてお前と秀吉公をつないでいたものと、わしは見ていた。
 だから何故、お前が豊臣を裏切ったのか、どうしても分からなかった」
「…………」
 今ここですべきは殺し合いであり、問答などではない。石田の殺気も、桔梗のそれも、膨れ上がって最早一触即発の様相を呈しているというのに、この男は何故邪魔をする。まずこの男を殺すべきか。そう思った桔梗は、
「だが今、お前の口から秀吉公の話を聞いて、分かったんだ。
 お前は、愛するものを失い、我が身を削るようにして戦い続ける秀吉公の――人としての心を、守りたかったんだな」
 ――!
 その瞬間、形を成していなかった己の心を見出し、思わず息を飲んでしまった。
 草は心を持たない。
 だから、心を持つ人に仕える。
 その者に従い、その者の為に戦い、その者を守る為に生きる。
 だがあの夜、桔梗が見たのは、目に映るもの全てを破壊しながら、今にも粉々になりそうな心を抱えた、主の姿だった。
 人として生きながら、もっとも愛する者を心と共に殺し、その喪失に泣き叫ぶ、一匹の獣の姿だった。
 桔梗の目にはそれが、あまりにも恐ろしくて。
 それがあまりにも――悲しかったから。

 だから決めたのだ。必ず、この男を殺そうと。
 まだ人の心を持っている内に、息の根を止めようと。
 そう、決めたのだ。

(……あぁ、そう、だった)
 徳川の言葉は、桔梗の体から力を奪った。正鵠を射られた衝撃に硬直し、その手から針がばらばらと零れ落ちる。それが地面に落ちる音一つ一つが耳に届き――同時に、
「許さない……貴様の罪を、私は許さないィィィィィ!!!!」
 怒号と共に石田の姿が勢いよく飛び出し、瞬く間に眼前にその息遣いが迫る。
(斬られる)
 音は聞いていた。石田が跳ぶ音も、刀が鯉口をきる音も、刃が鞘の中を滑る音も、空気を斬り、自分の首目掛けて迫る音も。それら全てを聞きながら、桔梗は微動だに出来ず、ただ茫然と目を見開き――
 ギキィン!!
 次の瞬間後ろに突き飛ばされ、正面から刃と刃がかみ合う音が鳴り響いた。
「っ……」
 それでようやく我に返った桔梗の耳に届いたのは、
「Wait! こいつは俺の獲物だ、あんたは引っこんでな、前田!!」
「……そいつはこっちの台詞だよ、独眼竜。俺は譲らないってさっき言ったろ」
 六爪と大刀とを重ね合わせ、二人がかりで石田の斬撃を受け止めた、伊達政宗と前田慶次の声だった。
「貴様ら……どこまで私の邪魔をすれば気が済む……! どけ、貴様らの相手はその女を切り刻んだ後だ!!」
 石田が吠えかかる。激しいつばぜり合いで火花が飛び散り、それぞれの力に抗う三人の足が地面にめり込み、みしみしと音を立てる。前田がハッと息を吐き、
「あんたの相手は俺だけだ、秀吉を手にかけたのはこの前田慶次なんだからな。それに」
 こちらへちらりと視線を送ったのか、肩越しに呟き声を漏らす。
「……桔梗には返しきれない恩がある。あんたにやらせるわけにはいかない!」
「前田……桔梗……前田ァァァァ……桔梗ォォォォ……っ!!」
「Don’t forget me, 石田三成!! あんたが倒さなきゃいけない敵は一人二人じゃねぇ!!」
 三人の声が被さり、ギャリンッ!! と耳障りな音を立てて、刃が弾き返される。
 互いの力に押されて数間、後ずさった前田と伊達が、桔梗の前に踏みとどまった。次の踏み込みに備えて柄を握り直し、伊達がHa! と笑いを吐いた。
「こいつは天下分け目の戦なんかじゃねぇ、最初はなっから仇討ちだけが目当てだったとはな! それをこんな大事おおごとにしやがって、つくづく救われねぇ男だ!!」
「そいつは俺にも責任がある、独眼竜」
 前田慶次はすうと正眼に構えて静かにいう。その声にはもはや浮ついた色はかけらもなく、ただ静かな覚悟が秘められていた。
「俺が最初から最後まで、正面からあいつに向き合っていれば、きっとこんな事にはならなかった。
 ……もう遅いかもしれないけど、けじめはきっちりつけさせてもらう」
 その覚悟を感じ取ったのか、伊達が六爪の切っ先を、距離を開けた場所で態勢を整えている石田に向けながら、告げる。
「……その大口は、俺を出し抜いてからにするんだな。誰があいつに引導を渡すにしても、こんなくだらねぇ戦いは今日を限りに、終いにする」
「あぁ……そのつもりだ!」
 二人の呼吸が揃う。同時にぐっと足が沈み、再び前へ飛び出す。否、飛び出そうとしたその時、
 トンッ。
 軽い音を立てて、桔梗は前に並んだ二人の肩を踏んで、跳んだ。
「チィッ!」
「桔梗!!」
 その動きに気を取られて、男たちは反応が遅れる。もとよりしのびの身、前田や伊達よりもその動きは速い。
 桔梗は矢が飛ぶような速さで石田へ向かう。先に、自身へ石田が接近した時をもしのぐ飛び出しでぐんぐん迫りながら、桔梗は黒針を手にした。
 ――殺す――
 あの男を殺せば、負の連鎖は止まる。
 豊臣秀吉の掲げた夢のような理想に魅せられ、それ故に今、秀吉と同じく心を失いつつある男。
 ――だから、殺す――
 そうすればやっと、自分の仕事は全て終わるのだ。男が何か叫んでいる。憎悪の念に満ちた悪罵を吐き続け、迎えうとうとしている。だが、神速をうたわれたその動きも、今の桔梗にはのろく感じた。間に合わない。石田の刀が抜きはらわれるより早く、この針が額を貫くだろう。男の鼓動が聞こえる。憤怒に駆られた体のざわめきが聞こえる。背徳者を呪う声が聞こえる。その全てを桔梗の耳は捉えていながら、その全てが何の意味も持っていなかった。
(ころす)
 その一念のみに突き動かされ、桔梗は石田が鞘半ばまで刀を抜いた時と同じくして、その懐に入った。振りかぶった手から、指の延長のごとく針が伸びる。一撃必殺の闇色の針は空を裂き、息を飲んだ石田の額へまっすぐ突き進み――

「よせ、朝顔!!!!」

 その声が、ありとあらゆる音を貫いて耳に突き刺さった瞬間、突然横殴りの衝撃を受け、桔梗の前から石田が消えた。
「!!?」
 徳川が石田を突き飛ばしたのか。一瞬そう考えたが違った。動いているのは自分だ、ごう、と風が自分の周りをめぐり、体が吹き飛ぶ。いや、それも違う。横手からぶつかってきた誰かが自分を横抱きにして、凄まじい勢いで移動している。
「っ!」
 そうと悟り、桔梗は咄嗟に身をよじって、その誰かの横腹に肘を入れた。ぐっと呻く声が聞こえ、速度が緩む。地面に片足がついたのを支えに桔梗は腕を振り払い、その場から跳び退った。すぐさま構えようとするが、急激な移動で頭がぐらつき、めまいに負けて、膝をついてしまう。
 ここはどこだ。どれほど、石田から離された。すぐさま周囲の音を聞いて状況を把握しようとするも、極限まで張りつめていた緊張をぶつりと断ち切られた反動で、動悸がして、耳にうるさい。
「は……はっ、はぁっ……まを……じゃ、ま、を、……するな……!!」
 誰だ。また敵か。息を乱しながら、自分の正面にいる敵に向けて針を構える。だが、
「……もうやめろ、朝顔。これは、おめぇの戦いじゃねぇ」
「――!!」
 それに答えた声を耳にした桔梗は、体中の血がざぁっと引いていく音を聞いた。
 今、相対している男が誰であろう――伊達政宗が腹心、片倉小十郎景綱だと理解したが故に。