風が荒れ狂う。まるで剛腕を振るうかのように突然巻き起こった強風は、どっしりと渦巻いていた霧を掃き散らし、白い闇を払った。
「っ!」
その霧と共に吹き飛ばされた影が一つ、空中でくるくると回転すると、地面に這うほど低い姿勢で着地した。手中の黒針を銀色の針と入れ替えて、音もなく立ち上がる。
「……」
その表情は見えない。全身黒で身を包み、口元以外、模様のない面で顔を覆っている影――桔梗は、無言で風の源へと顔を向けた。その先にいたのは、
「どちらさんも熱が入っちゃってまぁ、どんちゃん騒ぎだね。悪いけどちょいと邪魔するよ!」
その長身よりもなお大きな刀を肩に担いだ偉丈夫、前田慶次である。
「……誰かと思えば、前田か……Partyの、クライマックスに、乱入してくるたぁ、てめぇが主役と、いわんばかりだな……」
強風に煽られて数十間、吹き飛ばされた伊達が呻く。何とか主戦場に踏みとどまったようだが、妙に息が荒い。その顔色が病人のように青ざめているのを見咎め、慶次は眉根を寄せた。
「とっておきはここぞって時に出てこなきゃな。それより、そっちはずいぶん調子が悪そうだな、独眼竜?」
「Ha……ちょっと、ここいらの空気が悪くてな……」
「政宗様……!!」
地面に刀を突き立てて風をやり過ごした小十郎が、立ち上がって駆け寄るが、同じく顔色が悪い。
どうやら先ほどこぼれ聞こえた毒霧というのは、かなりの威力を持っていたようだ。と、そこで不意に清涼な風が、慶次の髪を靡かせた。先ほど起こした暴風とは異なるそれは、ほんのり緑の色を帯び、ふわりと辺りに満ちる。
「お? 何だこりゃ」
「また毒か!?」
慶次と小十郎がとっさに身構えるも、
「解毒薬だ! 深く息を吸いな、旦那方!」
真田を助けた佐助が空いた手から緑の風を撒き、武将達へ大声で言い放つ。だがその次の瞬間、
「ぐはっ!」
「なっ、佐助!!」
突然その体が弾かれたように後ろに吹き飛んだ。仰向けに倒れた佐助の体には、いつの間にか五、六本の針が突き立っている。
「き、桔梗殿、何をする! 佐助は敵ではござらぬぞ!」
驚いた真田が非難の声を上げるが、桔梗は一瞥も与えず、冷たく言い放った。
「余計な真似をするな、佐助」
「よ……余計な真似、ね……せめて、口でいって、くんないかな……これ、痛いんだよ、くっ……」
体の動きを封じられたのか、力を込めている風なのに起きあがる事もできない佐助が、切れ切れに反発する。
それを耳にしても、桔梗はやはり前を向いたままだ。
表情の見えない無面が、真っ直ぐ自分に向けられているのを見て、慶次は大刀を地面に立てた。久しぶりだな、と笑う。
「そっちのあんたに会うのは久しぶりだな。どうしたんだ? もうしのびはやめたって言ってたのに」
「無駄口に興じる時間はない。そこをどけ、前田慶次。用があるのは、お前の後ろにいるその男だけだ」
(……目当ては俺じゃないってか)
こちらを見ている、そう思ったのは勘違いだったか。慶次はすっと視線を下げた。桔梗が見据えるのはただ一人、慶次の足下――
「前田……前田ぁ、慶次ぃぃぃ……!」
両肩の骨を脱臼し、地面に投げ出された格好で、狂犬のごとくぎらぎらと怒りに燃える目で慶次を見上げる、石田三成だ。
「三成、落ち着け! 今肩を入れる、じっとしていてくれ」
その脇に膝をついた家康は、敵大将としてではなく、友として手をさしのべる事にしたらしい。ぜぇぜぇと荒く呼吸を繰り返す石田の肩に手をかけるのを、視界の端にとらえながら、慶次は再び桔梗へ意識を戻した。
黒のしのびは無言のまま、こちらへと近づいてくる。何気ない動きだが、その全身からは突き刺すような殺気が溢れ、一分の隙もない。
(本気だ。――本気で、石田を殺そうとしている)
産毛が逆立つ。ちりちりと焦げる空気に柄を握る手が自然と固まる。瞬間、
ビュッ!!
「!!」
何の前触れもなく風が走り、慶次は反射的に後ろをかばう格好で太刀を構えた。ぎぎんっと硬い音を立てて、針が刀身に刺さる。
(速い!)
一瞬も目をそらしていないのに、桔梗が針を投げる仕草を捉えることも出来なかった。しかも、肉厚のこの刀に細い針が突き立つなど、尋常ではない。
「参ったな……あんたマジだね、桔梗。あの時と同じくらい、おっかないよ」
ひやりと冷たいものを感じながら語りかけると、桔梗は新たな針を生み出し、足を止めた。真っ向から向かい合い、口を開く。
「なぜその男を庇う、前田慶次。それは豊臣の残党だ。滅ぼす理由があっても、救う道理など無いだろう」
「……あぁ、そうかもしれないな」
確かにその通りだ。桔梗に匹敵する激しい殺意を、慶次は背後からも感じている。
「前田ァァァァ……秀吉様を貶め、秀吉様を裏切った貴様が……なぜ、まだ、生きているゥゥ……」
家康に傷ついた体を支えられるも、石田はその手を振り払って一心に慶次を睨み据えている。
今はまだ、先刻の毒と桔梗の攻撃による痛手で動けないが、いずれその憎悪を糧に、慶次の首を狩ろうと襲いかかってくる事だろう。
「俺はずっと、逃げてきた」
その敵意を受けながら、しかし慶次は三成へ背中を晒したまま、告げる。
「あいつを倒した事への後悔から。何もしてやれなかった無念から。何もかもから逃げ出して、後はどうにでもなれと戦いの全てをやり過ごしてきた」
刺さった針を抜き、肩に刀を担ぐ。腰を落とし、構えの姿勢をとりながら、慶次は桔梗を見据えた。
共に手を取り、友をくじき、その夢を打ち砕いた、かつての共犯者に、
「だからこそ、このけりは俺がつけなきゃならない。ほかの誰にも、たとえあんたであっても――秀吉の遺志を受け継いだ石田三成と決着をつける役目を、譲る気はない!!」
空気が震えるほどの大音声で吠え、どんっ! と地鳴りがする勢いで突進して、人の背丈ほどもある大刀を、しのびの頭上で勢いよく振りかざした。
「!」
ひゅ、と細く、息の音が鳴る。
ずどぉぉんっ!!
その次の瞬間、刀は地面にめりこみ、その場に大穴を穿つ。刃の下に桔梗の姿はない。さっと影が差したのに反応してとっさに振り仰いだ頭上、慶次は巨大な羽を広げた大鴉を見た。
「なっ!」
天を遮り、一帯が闇に沈むほどの大きさに驚いて息を飲む音と、
「――
密やかな囁き声が重なる。それと同時に鴉は翼をはためかせて上昇し、くんっと頭を下に向けた。その翼は畳まれ、巨大に見えた体は一転、槍のように細く長くなり、
(来る!!)
研ぎ澄まされた殺気を感じて、慶次が一足飛びで石田の前に飛び出すと同時に、ぐわっと加速して襲いかかる。
ギギギギィィィ!!
甲高い悲鳴にも似た音を立てて、鴉の嘴と、振りかざした慶次の刀がぶつかり合う。だがその一点のみならず、
「ぐあっ!!」
全身に突き刺さる激痛を感じて、慶次はぐらっとよろめいた。打撃は受け止めたのになぜ、と、黒い鴉と激しくつばぜりあいながら、ちらっと体を見下ろした慶次は、
「針っ……あぁそうか、あんたはそれが、得物だよなぁっ……!!」
むき出しの腕や衣をまとった肩だけでなく、くさりかたびらすら貫通して突き刺さっている針を目にして、呻いた。
よく目を凝らせば、巨大鴉と見えたものは、無数の針が桔梗の全身を覆っている姿だ。針は主の意に従い、まるで生き物のように体の上をうごめいており、強固な鎧とも武器ともいえる異様な様相を呈している。
「くっ……」
「退け、前田慶次」
しゃりんしゃりんと鈴のような音を立てて擦れあう針の合間から、桔梗の声が漏れ聞こえる。刀の上から慶次を押しながら、桔梗は――その顔は今針の奥で見えないが、まず間違いなく、慶次の背後にいる石田三成を真っ直ぐに捉えながら告げる。
「退かねば――お前も殺す」
「っ……な、事……できるかぁぁぁぁぁっー!!」
ぎゃりんっ!!
耳障りな音を立てて、大刀が上に乗った鴉を勢いよく横になぎ払った。力任せに引きちぎられた鴉は勢いよく投げ出され、
「うおおおおおっ!」
「!」
体のあちこちを貫通している針の激痛を無視して、慶次がそれに猛追した。桔梗が体勢を立て直す前に突進し、
どぉぉんっ!!
むき出しの土壁と、前方に構えた刀の腹との間に黒い鴉を挟み込んでたたきつけた。
「っぐ……!!」
びきびきと叩きつけた場所から周囲にひびが走る。その弾みか、体を覆っていた針が音を立てて一斉にはがれ落ち、再び姿を現した桔梗が口元を苦痛に歪めた。
その姿にずきっと胸の痛みを感じながら、慶次はそれでも力を緩めなかった。
(桔梗は本気だ。邪魔する奴は全部殺そうとしている)
このしのびが女人の身でありながら、鋼鉄の意志を持っている事を、慶次は知っている。
豊臣を裏切り、慶次に崩壊の引き金を引かせ、武田上杉を動かして、実現不可能と思われた豊臣滅亡を見事完遂せしめた、その冷徹なまでの決意を、慶次は知っていた。だからこそ、腹の底から叫ぶ。
「桔梗! 頼む、俺が全ての幕引きをしたいんだ、あんたこそ退いてくれ!」
「……そんな、事……お前に出来ない……っ」
ぐぐ、と刀がわずかに押し返される。壁に挟まれる瞬間、体を丸めて刃の面を両足で受け止めた桔梗が、ぎしりと歯を食いしばって抗している。
「豊臣、秀吉に、とどめを刺せなかった、お前に……豊臣を滅する事など、出来るわけが、ないっ!!」
「!!」
一瞬、力が抜けた。瓦解する大阪城が目の前に浮かび、秀吉の断末魔を聞いていられずに背を向けたあの日が、鮮明に蘇った。
ボンッ!!
その隙を逃す相手ではない。破裂音と共に目の前が煙に塞がれ、刀にかかっていた力がふっと消えた。
「くっ!」
乱入時と同じく、風切り音を立てて勢いよく大刀を振り回す。薄い煙幕はすぐに晴れたが、そこにはもうしのびは居ない。
「桔梗……!!」
やめてくれ、と哀願にも似た叫びがほとばしる。黒い影は慶次を置いてきぼりにし、地を伏せるように走って、まっすぐに標的へ向かい――
「舐めるな、狗畜生めがぁぁぁっ!!」
「させんっ!!」
怒りに満ちた咆哮と、断固たる意志を宿した声が重なり、
ギギンッ!!
白銀の刃と金色の手甲、何重にも束ねられた針の牙が甲高くぶつかり合った。