花のうへの露40

 幾千、幾万の兵達。
 それぞれの思惑はあれど、ここに寄り集まった人々は皆、明日の世を生きたいと臨み願った者達。初めは世迷い事と一笑に付され、捨て置かれた平和な世の夢を、今はこれほどに多くの者が胸に抱いている。
 関ヶ原を見下ろす高見櫓の上に立ち、己が名の元に集った東軍の勇壮な様を見渡し、家康は胸に暖かいものがこみ上げてくるのを噛みしめていた。
(ようやく――ここまで、来た)
 日ノ本を二分するほどの強大な軍を率い、天下を相争う。
 幼少の頃より人質として不遇の時を過ごし、忍従の生を強いられてきた家康にとって、まさに夢のような一幕だ。ついに、という万感の思いは尽きることはない。
(だが、終わったわけではない)
 綻んだ口元を引き締め、家康は彼方へと視線を転じた。整然と列をなす自軍と荒れ地の反対側に陣取って対峙するのは、東軍に対して西軍と呼ばれる敵。
(三成と戦う事だけは、避けたかったが……)
 数だけで言えばこちらよりなお勝る、地を覆わんばかりの大軍をその目に捉え、家康は奥歯をこすり合わせた。かつて友と呼んだ男と刃を交える――その覚悟はとうにしていたはずなのに、心はまだ悲鳴を上げてしまう。
(――惑うな。全ては今日、勝利を得てから始まるのだから)
 ぐっと拳を握りしめ、胸を張り、決意を持って正面を睨み据える。その目には、戦いの果てにある新しい日ノ本の姿があり――そしてその耳は、櫓の梯子がぎしりぎしりと軋む音を拾い上げていた。
(誰か来る)
 忠勝ならば直接飛んでくるはず、伝令兵か何かかと何気なく背後へ振り返った家康は、
「お前は――慶次、慶次じゃないか!」
 思いもかけない来客に破顔した。櫓を上ってきたのは、加賀は前田家の風来坊、前田慶次だ。婆娑羅者の名を冠せられた色鮮やかな衣装は戦場であろうと変わりなく、ただ今はその長躯をもって力を示す大刀を背負っていない。
「どこを探しても見つからないものだから、もうすっかり諦めていたが……来てくれたんだな、慶次」
 まだ家康が秀吉の配下にあった頃、慶次は彼の理想を聞いてそれはいい、と膝を打ったものだ。此度の戦にあって、家康はいの一番に慶次の行方を探し、同胞として迎え入れようとしたが、今日まで果たせずじまいだった。かの風来坊は全国各地へ身軽く闊歩するため、追いきれなかったのである。
「――やぁ、家康」
 その久方ぶりの対面をして慶次は、しかしどこか浮かない顔だ。それに気づかず、家康はすっと手を差し出す。
「来てくれてうれしいよ、慶次。さぁ、わしと共に、皆の明日を勝ち取ろう」
「…………」
 だが、慶次は答えない。家康の手をじっと見つめ、凍り付いたように立ち尽くしている。
「――慶次?」
 あまりにも長い沈黙を訝る家康の声に、慶次は顔を上げた。その表情は堅く、常の陽気さは影を潜めている。意を決したように息を吸い込み、
「家康。お前に、聞きたい事がある。――お前はどうしてあの時、秀吉と一緒に戦わなかったんだ?」
「慶次」
「武田上杉が豊臣を攻めた時、徳川軍は戦を静観するばかりで、援護を全くしなかっただろう。それは、なぜだ? あの時徳川は、豊臣軍傘下にあったのに」
「…………」
 お前に裏切りを問いただされるとはな。と言い掛けて、家康は言葉を飲み込んだ。嫌みのつもりではなく、ただ驚きから思った事だが、慶次が並々ならぬ覚悟で親友の野望を挫いただろう事は、想像がつく。それは他者がむやみに触れてよいものではなかろう。
 その代わりに、家康は問いに答えた。
「あの戦で、豊臣秀吉は滅びなければならないと思ったからだ」
「!」
 鋭く息を飲む慶次をまっすぐ見つめ、家康は言う。
「なるほど、戦を続けて疲弊しきった日ノ本には、外国の列強と戦う力など残っていないのかも知れない。秀吉公が唱えた富国強兵の全てが誤りではなかっただろう。だが」
 目を細めた家康の脳裏をよぎるのは、かつてその偉容をもって、全てを平らげようとした一人の男の背中。
「豊臣秀吉が描いた夢には、民の幸せがなかった。自身の幸福さえ、含まれていなかった。わしにはそれが、ひどく悲しく見えたよ」
 その猛々しい背中は、しかし一転して弱々しくしなびる。半身不随となり、副将を失った豊臣秀吉はもはや自力で立ち上がる事などできず、それでもなお、目を爛々と狂気に光らせ、全てを討ち滅ぼせと部下に吠えたものだった。
「――豊臣秀吉が日ノ本を、そして自分を破壊してしまう前に、誰かが止めねばならなかった。願わくばその役目はわしが果たしたかったが、叶わず――せめてと、最期の姿をこの目に焼き付けようと思った」
 故に、加勢しなかったのだ、と。家康は結論づける。
 慶次は、黙って聞き入っている。その表情が苦々しいのは、みすみす秀吉を見殺しにした家康をなじりたいが故だろうか。
(道を違えたといっても……友である事には変わりあるまい)
 家康は慶次が大阪城に殴り込みをかけた一件、あれはおそらく慶次が秀吉に抱き続けた友情故なのだろうと考えていた。彼らがその昔、大層仲の良い間柄であった事は、家康も聞き知っている。
(友が道を踏み外すのを、見ていられなかったのではないか)
 そして友を見殺しにした男を前にしては、怒りと悲しみを覚えずにはいられまい――前田慶次というのは、そういう男だ。
 だが、長い沈黙の後、慶次はハッ、と短く息を吐いて肩の力を抜いた。その顔に諦観の表情を浮かべ、
「あぁ、そうだ。お前は正しいよ、家康。豊臣はあそこで滅ぼされなきゃいけなかったし、手を貸さなかったからって俺がお前を責めるいわれもない」
「慶次、お前がわしを責めるのは当然だ。お前は秀吉公の友だったのだから」
 だが慶次は首を振り、苦笑した。
「いいや、こいつが八つ当たりだってのは、自分でも分かってる。ただ……最後に全部、確かめておきたかったんだ」
「最後?」
「武田、上杉、そして徳川――皆が皆、同じ答えだった。それが確認できれば」
 すう、と舞うような優雅さで背を向けた慶次は、迷いの晴れた清々しい声音で言う。
「後は決着をつけるだけだ」
「待て慶次、お前……っ」
 引き留めようと、家康は咄嗟に駆け寄って慶次の肩を掴む。だがそれより一瞬先に、慶次は床を蹴り、櫓から飛び降りた。
「慶次!」
 端に駆け寄って見下ろすと、慶次が鮮やかな着物を翻して、だんっ、と地面に着地する。そして柱に立てかけた長刀を背に負うと、そのまま飛ぶような早さで走り去っていく。
「何をするつもりなんだ、慶次……」
 男の行き先を案じて目線を転じた家康は、しかし顔を引き締めた。その目が捉えたのは、急ぎこちらへ駆けてくる伝令兵の姿だった。