花のうへの露37

 織田信長、豊臣秀吉という巨星が落ちた後、戦国の世は転機を迎えた。
 二強の蹂躙により疲弊した国々は、厭戦の空気に包まれつつあった。戦に苦しみ、疲れ果てた人々は、徳川家康が語る力強い言葉に、太平の世を夢見、心を寄せつつあった。初めは絆を謳うその言葉をあざ笑った者達も、戦国最強の本多忠勝に加え、青年武将に成長した徳川の強大な武力を見せつけられ、最終的には自国の未来を託して味方する事になる。
 一方、石田三成率いる旧豊臣軍は、主君を討たれた無念を刃に変え、ひたすらに凶行を繰り返していた。女子供にさえ容赦しないその有様に恐れおののく者は多かったが、参謀の大谷吉継の策謀もあって、石田軍もまた急速に勢力を拡大した。
 この二人の男の元に人々は集い、日ノ本はいまや東と西、それぞれに二分されつつあった。遠からぬ日、これまでに類を見ないほどの大合戦が勃発するであろうことを誰しも予見し、固唾をのんで情勢を見守っていた。
 そして来るべき日を思い、憂いに沈む男が今、四国にいる。
 その男の名は――前田慶次という。

 穏やかに照る太陽の下、海は空の青を映し、絶え間なく波音を響かせている。
 後頭部の高くに結んだ髪を海風になぶらせながら、慶次は浜辺にいた。蟹と遊ぶ夢吉をぼんやり眺めて思うのは、各地で見聞きした戦の事である。
(徳川家康……石田三成、か)
 多くの国が様々な理由でどちらかの勢力につき、にらみ合っている。日に日に大戦への緊張は高まり、情勢は今や一触即発のところにまできていた。
 以前より格段に警戒が厳しくなった関所に辿り着くたび、大刀を携えた慶次の姿は目をひき、
「我が国に仕官致せ。風来坊などその力をあだにするより、殿の為に振るうが武士の本分ではないか」
 と誘いかけられたり、
「これは胡散臭い奴。貴様、どこぞの間諜であろう」
 と疑いをかけられ、追っ手を差し向けられたりと、さんざんな目にあった。
(やっと四国に来て、落ち着いたけど……しばらく加賀には帰れないなぁ)
 そう思った慶次だが、途端に重いため息が落ちる。
 いや、もし今国の行き来が楽になったところで、慶次はまだ北へ足を向ける気にはなれなかった。
 加賀の叔父夫妻、越後の上杉とそのしのび。
 彼らは慶次を暖かく出迎え、労るだろう。かつての親友ともを殴り、結果的に死に至らしめた自分をたいそう気遣うだろう。
 だが、慶次はそんな哀れみを疎んだ。誰にも、秀吉との確執に触れてほしくなかった。
(それに、謙信に会ったら、どんな顔をすればいいんだ)
 上杉、武田は秀吉にとどめを刺した。どちらの国の将も慶次は見知っていて、皆が皆、酒を酌み交わして楽しく語り合える面々だと分かっている。
(秀吉が討たれたのは必然だ)
 それは分かっている。そもそも、彼らに付け入る隙を与えたのは自分だ。
 慶次が秀吉を半身不随にし、協力者が半兵衛を倒し、豊臣軍は急速に衰退した。武田、上杉は戦国の世の習いに従い、弱った敵のもとへ攻め入ったというだけなのだ。慶次に、彼らを責める資格などありはしない。
 ……だが、理性ではそう思っても、感情が追いつかない。
(あいつは……死ぬ時、何を思っただろう)
 慶次への恨みか。武田上杉への怒りか。半兵衛への友情か。それとも……ねねへの謝罪だろうか。
(秀吉……もう一度、昔のお前に会いたかった)
 立てた片膝を抱え、慶次は目を伏せた。
 ねねの死以後、ずっと避けてきた秀吉。だが彼の勢力が大きくなるにつれ、力に任せた支配による犠牲が、慶次の目に触れるようになっていった。
 心優しかった親友の変貌ぶりを嘆き、ねねの命を奪った事に怒りながらも、もしかしたらいつか、以前の秀吉に戻ってくれるのでは、と儚い希望を抱き、慶次は何も出来ずにいた。
 その状況を打破させたのは、ある女との出会いだった。

 ――慶次は京の街で、ちんぴらに絡まれている女をたまたま助けた。
 色っぽい体つきのその女は、慶次へ流し目をくれて言う。
『いやだね、何言ってるのさ。京に住む女で、あんたの名前を知らない奴なんか居ないよ、前田の旦那』
『そりゃ光栄だ。けど俺はあんたの名前、知らないよ。そっちだけ知ってるなんてずるいな、教えてくれよ』
 いい女に名を覚えられて、悪い気はしない。顔がにやけるのを抑えられずに、慶次は人なつっこく問いかける。すると、女は目を細めて艶っぽい唇に笑みを形作って、名乗ったのだ。
『ききょう。あたしは桔梗だよ、旦那』

「……ーい、慶次!」
「!」
 いつしか過去の夢にひたり始めていたのを、うつつの声が引き戻す。後方から砂を踏みしめる音が聞こえてきて、
「お、居た居た。こんなところで何してんだ?」
 振り返ると、眼帯で左目を覆い、銀色の髪を短く切った男、長曾我部元親の姿が目に入った。元親は側までやってくると足を止め、眉を上げる。
「ずいぶん覇気のねぇ顔してるなァ。朝の漁じゃ大はしゃぎしてたってのに、どうしたんだ?」
「うん……いや、何でもないよ」
 慶次は苦く笑って首を振った。自分の暗い話で、無用な心配をかけたくはない。そう思ったのだが、元親は眉間にしわを寄せ、
「その面はどうみても、何かあるようにしか思えねぇなぁ。何だ、脳天気なあんたにしちゃ珍しい、悩み事か?」
 腰を曲げてこちらを覗き込んでくる。これは弱った、と慶次は眉を八の字にした。
(何かと聞かれても、話すのには抵抗がある)
 自分より年上で、国主として四国を背負う元親は、多くの者にアニキと呼ばれ慕われるだけあって、頼りがいのある豪放磊落な男だ。慶次の話を聞けば、ためになる助言を寄越してくれるだろう。その言は芯が通っていて、間違いがない。それは分かっている。
 だが、慶次は胸の裡を言葉にしたくなかった。
(俺の行動の是非を、他人に委ねちゃいけない)
 それは若者らしい、視野が狭く、自己犠牲にひたりがちな感覚でもあったが、慶次は己の成した事にもう一度向き直ろうとしていた。
 ねねの件で秀吉と距離を置いていた事で、彼が多くの人々を傷つけた結果を顧み、今また、主を失った石田軍が恐怖をまき散らしている現実に立ち向かわねばならないと考えていた。
 石田三成は声高に秀吉を称え、尊崇の対象を奪った者への復讐を掲げて、闇雲な戦を仕掛けている。慶次自身も石田の手の者とかち合い、剣を交えたのは一度や二度ではない。慶次はもはや過去と決別したつもりでいたので、手加減をして適当にやり過ごしてきたが、事ここに至り、逃げているだけでは駄目だという事に気づいた。
(あいつにも、心底から慕ってくれる奴が居た。それなら俺は秀吉だけじゃなく、そいつとも向き合わなきゃならないんじゃないか)
 争いは好きではない。だが、時には力を振るわねばならない場面があるのを、慶次は秀吉との事で学んでいた。石田には何の恨みも無いが、彼を止めるのが、自分の最後の務めなのではなかろうか。
(これ以上、あいつの夢で、野望で、誰かが苦しむ姿を見たくはない)
 沈思黙考に耽り、ぐっと拳を握りしめる慶次。それを黙って眺めていた元親は、
「……まぁ、話したくないのなら、強いて聞き出そうとは思わねぇがな」
 肩をすくめた後、背を真っ直ぐに伸ばした。
「あんたは開けっぴろげに見えて、意外と自分の事を語りゃしねぇ。
 若い内は何でも自分でやってみりゃいいが、辛くなったら誰かに頼ったっていいんだぜ?」
 そして精悍な顔にニッと笑いを浮かべ、
「あんたは一人じゃねぇんだ。あんまり抱え込みすぎるなよ」
「痛っ!」
 ばしーん、と慶次の頭を引っぱたく。遠慮のない一撃に慶次は思わず悲鳴を上げたが、頭を押さえながら、笑みが自然と口元に上がってくる。
「……ありがとう、元親」
 何も聞かないでいてくれるのは、自分を信頼してくれているからだ。その上で力になってやると言ってくれる、その気持ちが嬉しい。元親はオウ、と白い歯を見せた。と、そこへ、
「……元親様ー……」
 遠くから女性の声が聞こえてくる。微かなそれに元親はぴくりと反応し、
「おーう、紫乃! こっちだ!」
 大声で答えながら、そちらへ足を向けた。足早に砂を踏みしめ、あっという間に浜辺から草地の上へと移動した元親の前に現れたのは、小柄な女性。走ってきたのか、その細い肩が大きく上下しているのが、ここからでも見て取れる。
「……か……俺に会いた……」
「……馬鹿……ない……昼餉が……」
 向かい合った二人はその場で何事かを語り始める。何と言うことのない会話をしているようだが、しかし互いを見つめるその表情は嬉しげに輝き、互い以外、何も目に入らないかのように、幸せそうだ。
(まるで利とまつ姉ちゃんみたいだ)
 その様子を眺めながら、慶次は思わず頬を緩めた。元親とその妻の語らいは、どんなに相手を大事に思っているのが伝わってきて、心が温かくなる。しかし一方で、
(……ねね。秀吉)
 過去の光景をそこに重ね合わせ、重苦しい気持ちも同時に抱く。
(あんな風に、二人でいる時が一番幸せそうだったのに)
 深く、何よりも深く互いを愛し寄り添うた二人の姿は、未来永劫、変わらぬものだと信じていたのに。
(……秀吉……)
 どうして、覇道を選んだのか。どうして、愛した者を斬り捨てねばならなかったのか。その答えを知った今でも尚、秀吉の考えは理解できず、今や新たに問いかける事も出来ない。
「……っ」
 慶次は奥歯を噛みしめ、暗澹たる思いで顔を上げる。目に映る空はどこまで青く、どこまでも澄み切って美しかった。