小姓の仕事を終え、頼鷹の前から辞した後、人も寝静まった夜分。
こっそり部屋を抜け出した佐助は、お気に入りの松の枝に陣取った。そして、頼鷹から下賜された脇差しを両手に握り、ゆっくりと鯉ロを切る。
きぃ……ん……。
澄んだ音を立て、鞘を滑りながら刃が姿を現す。刃紋も見事な刀は使い込まれているが、手入れも十分にされており、刃の上に月の光を走らせて輝く。
するすると鞘を抜けた刃を縦にして、まじまじ見つめれば、佐助の顔が鮮やかに映し出されるほど、清かに美しい。
「……大層なもの、もらっちゃったなあ」
感嘆のため息を漏らしながら、佐助はしみじみ呟いた。いくら頼鷹の気前がよくても、簡単に手放すような代物ではない。
(どう、するかな)
落ち着かなく刃を返しながら、佐助は悩む。
手柄は立てたい。しかし、今のように桔梗の指示を待つばかりでは、早々活躍など出来まい。それなら頼鷹の申し出を受け、かの人を主と定め仕えたほうが、よほど芽がある気がする。
(でもそれって、抜け忍になるってことだよなぁ)
しのびの掟は厳しく、決まりに背いた者への処罰は重い。分けても、里を抜けた者へは、死をもって購いを求めるのが普通である。
それは己らの手の内が外に漏れるのを防ぐ為でもあるし、また、他のしのび達への見せしめでもあった。
(もしここで俺が抜けるっていったら……討ち手はやっぱり、姐さんなんだろうな)
その状況を想像するも、佐助はぞっとして思わず体を震わせた。
先だって命令を無視した佐助に、目を抉るといわんばかりに針を突きつけて脅した桔梗の事だ。佐助の命など、蝋燭の火を吹き消すように容易く、奪ってしまうに違いない。
「じゃあ、どうすりゃいいのかなぁ……?」
頼鷹の申し出は嬉しい、しかし桔梗が怖い。刀を鞘に納めながら難しい顔で呟いた時、
「何がだ、佐助」
「うわぁっ!」
不意に声をかけられ、思わず叫んでしまった。ぱっと見下ろした先にいたのは、女郎花色の鮮やかな髪を長く伸ばし、黒地に星を散らしたしのび装束に身を包んだ少女だ。
「ああ、かすが か……あー、びっくりした」
桔梗で無かった事にほっとして、佐助は心臓の跳ね上がった胸を押さえた。少女しのび、かすがは、流麗な眉根を寄せて不機嫌な表情になる。腰に手を当て、
「何だ、その驚き方は。また企みごとでもしていたのか」
「いやだなぁ、そんなのしてないって」
「どうだか。お前の事だ、どうせ好き勝手に遊びほうけて、桔梗ねえ様に迷惑をかけているんだろう」
それは、あながち間違ってもいない。あははーと笑ってごまかした佐助は、隠すように脇差しを後ろ帯に差した。
かすがは、最近育ち始めた胸の前で腕を組み、フン、と鼻を鳴らす。
「お前が何をしようと私には関係ないが、ねえ様の足手まといになる事は許せないな。お頭も、どうして今回の任務にお前などを選んだのか……」
「そりゃあ、俺様が優秀だからだろ?」
しれっと言い放つと、かすがの眉間のしわがぎゅーっと深くなる。かすがより佐助の力量が勝っているのは事実だが、それを否定出来ないのが悔しいらしい。佐助がこの仕事へ来る前にも散々拗ねていたし、今も「私だって修行を積めばお前になど……」とぶつぶつ唸っている。
(負けず嫌いだなぁ、本当に)
そういうところも可愛いと思ってしまうのは、惚れた欲目だろうか。佐助は地面に舞い降り、思いを寄せている少女のもとへ歩み寄った。
「それはともかく、かすがは何しに来たの。もしかして俺様に会いにきた?」
わざと間近に顔をのぞき込むと、かすがはカッと赤くなって後ずさる。
「ば、バカ言え! 何でお前なんかに、わざわざ!」
「やだなぁ、照れなくていいのに」
「照れてなどいないっ! 私はお頭様の文をねえ様へ届けにきたんだ!」
「あ、そゆこと」
かすがは里の頭と桔梗の連絡係をつとめており、たびたびこの屋敷に訪れている。かすがの姿を認めた時から、用件は見当がついていた佐助だが、つい雑談を楽しんでしまった。
「なら、早いとこ行った方がいいんじゃないの。遅くなると姐さんに叱られるぞ」
「お前が無駄話をするからじゃないかっ」
「話しかけてきたのはそっちだろー」
「どっちもどっちだね。あんた達、静かにおしよ」
「!」
「きゃっ!」
不意に滑り込んできた声に、今度はかすがと佐助二人して飛び上がってしまった。振り返ると、桔梗が足音も立てずにこちらへ歩み寄ってくるところだ。近くで足を止めると、
「こんなところでべらべらと、お喋りしてるんじゃないよ。人に見られたらどうするんだい」
呆れ顔で腕を組む。迫力ある存在感の胸が、ずっしりとその上に乗るのを見て、佐助は思わず(なるほど、あれは逸品なんだろうな)と考えてしまった。……最近、どうも頼鷹に毒されている気がする。
「も、申し訳ありません、桔梗ねえ様! あの、お頭様より文をお預かりして参りました!」
慌てたかすがは畏まり、さっと書状を差し出した。
「あぁ、ご苦労様」
それを受け取り、その場で開く桔梗。文に目を走らせる上司を前にして、がちがちに緊張するかすがと、頭の後ろで腕を組んで気楽に構える佐助。
(おい、しゃきっとしないかっ)
その不真面目さにかすがは目をきつくして、こちらのわき腹をつついたが、佐助は気にしない。さてお頭は何を言ってきたのかな、と気楽に構えていたが、
「…………」
文面を追う桔梗の表情が徐々に厳しくなっていくのを見て取り、ざわりと胸が騒いだ。
(何だ?)
今まで何度も頭からの文が来ているが、桔梗がこれほど深刻な表情をしているのは初めて見る。何が書いてあるのだろう、と気にかかり、佐助はつま先立ちになり、気づかれないようにのぞき込もうとした。しかし、
ボッ!
不意に音を立てて文に火がついた。橙色の光はあっと言う間に紙を飲み込み、跡形もなく燃やし尽くしてしまう。
「かすが」
残った灰を払い落としながら顔をあげた桔梗の表情に、先の深刻さは影も残っていなかった。
「お頭に了解したとお伝えしておくれ。手抜かりはない、ともね」
「はいっ、分かりました! ではねえ様、失礼致します!」
勢いよく返事をしたかすがは身を翻し、あっと言う間に姿を消してしまう。
(あらら、つれないなぁ)
「姐さん、お頭は何だって?」
もう少し語りたかったのに、と名残惜しく思いながら尋ねる。桔梗は一瞬間をおいた後、ひょいと肩をすくめた。
「そろそろ戦が起こりそうだから、つとめを果たせと発破をかけてきたよ。全く、口うるさい事だね」
(嘘だ)
先の深刻さに見合わない軽口に、佐助は直感的に不審を覚えた。ただ活を入れる為の文を、頭がわざわざ送って寄越すはずがない。それを見て、桔梗が難しい顔をするはずもない。
(きっと、何かある)
頼鷹も、近々戦があるだろうと言っていた。頭が何か命令をしてきたのであれば、きっとそれについてだろう。
「あの、姐さん。俺に何か出来ることありますか」
言葉遣いも改めて言うと、屋敷に戻ろうと背を向けた桔梗が足を止めた。肩越しに振り返り、口を開き、しかし、
「……佐助。その腰のものは、何だい」
全く違う事を問い返してくる。
「あっ」
脇差しのことをすっかり忘れていた佐助は、ハッとして柄に触れた。そうだ、まずこれの事を話さなければならなかったのに。
「これは、その……頼鷹様に、いただきました」
「頼鷹様が、どうしてあんたに?」
言いよどむ佐助に対して、桔梗の声は落ち着いたもので、それがかえって怖い。攻撃の意志ありと取られてはかなわない、と佐助は刀から手を離し、唾を飲み込みながら答える。
「……今度、戦が起きた時、俺を連れて行く、と仰ったんです。その……ご自分の従者に取り立てたいと」
「それは、これから先もずっと側仕えさせたい、って事かい」
「……はい」
叱られるだろうか。いやそれくらいならまだいい、佐助自身もこの話に引き寄せられていると桔梗が知ったら、この場で手討ちにされるかもしれない。
緊張に全身の神経を張りつめ、桔梗がもし打ちかかってきても、せめて一太刀は返したいと、密かに身構える佐助。
「…………」
その前で桔梗は、黙って佐助を見つめた。ざぁ、と風が吹き抜け、緩く束ねた髪をふわりと撫でていく。
長いまつげに縁取られた目を細め、静かに、まっすぐこちらを見つめてくる様は、まるで精緻に作られた人形のように美しく、それでいて、どこか空恐ろしい。
「……っ」
どこにも隙のないその立ち姿につい気圧され、佐助は目をそらしてしまった。だめだ、とても敵う気がしない。こちらが怖じ気づくのと同時に、桔梗が口を開いた。
「そうかい。頼鷹様がお望みなら、仕方ないね」
「……えっ?」
思いがけない言葉に再度視線を向けると、桔梗はもう一度肩をすくめた。
「そういう事なら、あんたは頼鷹様に随行するんだ」
「え……い、いいの? 姐さん。だって、頼鷹様に仕えるなんて事になったら、俺、里を出なきゃ……」
と、桔梗が目を丸くして、顎に手を当てて笑う。
「おやま、あんた抜け忍になるつもりだったのかい? そりゃ何の断りもなく自分で主を決めちゃぁ、お頭だって放っておかないだろうけどさ。きちんと契約を結ぶのであれば、構わないだろ」
「……あ、そうか……」
桔梗と対しなければならないのでは、という事しか考えていなかったが、確かにそれなら問題はない。
「なら、頼鷹様からお頭にお願いしてもらえば……」
「そいつは、後におし」
ほっとして胸をなで下ろした佐助に、桔梗がぴしゃりと言った。ついびくっとしてしまうこちらを冷めた目で見やり、
「近々、大仕事がある。身の振り方を決めるのは、その後にするんだね」
「……大仕事? って何なの、姐さん」
「そいつは、いずれ分かる。……それまでは、あんたの素性を鷹頼様に秘しておきな。もしあんたが里に帰る事があれば、正体を知ってる人間は少ない方がいいからね」
「あ……はい」
確かに、もしここで雇われないのであれば、身元が無闇に知れると、今後の仕事に障るかもしれない。
納得して頷く佐助に対し、それからもう一つ、と桔梗は言葉を続けた。その声の温度が不意に、すう、と下がる。
「情を抱くのは、おやめ」
「え?」
「あたし達は人じゃない、草だ。草に情はいらない。あんたがこれから先もずっとしのびであり続けるつもりなら、人の心は捨てな」
「……姐さん」
全く血の通わない言葉に、冷たい寒気が走る。だが、同時に反発も覚える。
桔梗だって頼鷹とは仲良くしているではないか。城主の鷹通にだって、ずいぶん気に入られているようだし、桔梗も誠意をもって尽くしているではないか。
(あれが情じゃないっていうなら、何なんだ)
「分かったね。肝に命じておくんだよ」
しかし桔梗は、佐助に発言を許さなかった。遮るように言い捨て、声をかける間も無く去ってしまう。
一人残された佐助は、
「……何だよ、それ。そんなのおかしいだろ」
釈然としない思いで呟き、視線を下げた。
腰に差した脇差しはずしりと重く、それはそのまま頼鷹からの信頼の重さのように感じられる。それを嬉しいと思うことも許されないなんて、納得できない。佐助は桔梗の去った方角を睨み、ぎゅっと口を横に引き結んだ。