花のうへの露19

 夜中駆け回っていた桔梗は朝方屋敷へ戻り、半刻寝た後、起きた。すぐに身支度を整えて、部屋を出る。
鷹通たかみち様、お目覚めの刻限にございます」
 そうして、途中あちこちに寄りながら、まだ人もまばらな廊下を通って行き着いた先は、屋敷の主の部屋だ。外から声をかけてから障子を開くと、広い部屋の真ん中にこんもり盛り上がった布団があり、
「う……むぅ……もう、朝か……」
 もぞもぞ動いたかと思えば、掛布の下から男がはいずり出てきた。
 ふあぁ、と大きなあくびをもらすその面相は、まるでヒラメのように目が細く、お世辞にも美男とは言えないが、いかにも人が良さそうだ。
「今日の朝餉は鮭が出るそうですよ。お早く、お起きになられてはいかがですか」
 桔梗は部屋に入ると、てきぱき動いた。あぐらをかいた鷹通の前に水桶を添え、着替えをその側に置き、布団を畳む。
「鮭か、久しいな。ちょうど、そろそろ食べたいと思っていたぞ」
 桔梗と対照的にのんびりした仕草で、鷹通は顔を洗い始める。手を水に浸しながら口にした言葉はしかし、
「それで、昨夜は如何した。鳴竹なりたけの様子は」
 その悠長さには似合わない空気を纏っていた。桔梗は手を休めぬまま、淡々と答える。
「鳴竹はやはり近く戦をする算段のようです。特に秘するよう注意を払っておりましたが、城に武器や兵を続々と集めている模様」
「ふむ」
「さらには先日、観梅の宴と称して一族郎党を寄り集め、連判状を記したようです。決して裏切るまいと互いに誓い合い、固く結束を結んだとか」
「それはいよいよ、穏やかではないなぁ」
 鷹通は顔の水を拭い、立ち上がった。すぐさま桔梗が近寄り、その着替えを手がける。腕を上げた下でくるくる動く桔梗を平目で追いながら、鷹通は続けた。
「しかしそれならば、証拠が欲しいな。どこの誰それが荷担していると分かれば、よりよい」
「はい。近くまた集まりを持つようですから、その際に書状を手に入れましょう。昨夜はそこまで探れませんでしたので」
「うむ、うむ。頼んだぞ、桔梗」
 鷹通は朗らかに笑い、桔梗の肩をぽんぽん、と叩いて労った。
「しのびの里でも特に腕が立つと聞いてはいたが、お前は本当に頼りになるな。助かるぞ、桔梗。近く戦になるやもしれんが、その時もまた、我ら佐久家を助けて欲しい。報償は望みのままに与えるでな」
 その声は真摯で、優しさに溢れている。しかしそれは、自分に与えられるべき分を超えているものだ。鷹通の着替えを終えた桔梗は、恐れ多い事で、と静かに答えた。
「私は一介のしのび、命ぜられた事に応えるだけの草に過ぎませぬ。ご厚情は光栄に存じますが、過ぎた褒美にございます。なにとぞ、ご容赦を」
 固辞すると、鷹通は残念そうに眉根を八の字にした。
「そうか? そこまで厭わずともよかろうが……まぁ、良い。わしは働きに見合ったものを与えたいのだ。気が変わったらいつでも言うがいい」
「はい、有り難く存じます。……では、今朝餉をお持ち致します」
 深々と頭を下げた後、桔梗は鷹通の部屋を辞した。

(ふう……さすがに少し、疲れたね)
 日が昇り、陽光が目に刺さる。ほぼ徹夜の身には、さわやかな朝の気配はやや荷が重い。そんな事を思いながら台所へ向かって歩いていると、
「おっ、桔梗ではないか。早いな」
 庭の方から声がかかった。
 さっとそちらへ顔を向けた桔梗が見たのは、庭先で諸肌を脱ぎ、木刀を手にした若い男だ。筋肉の引き締まった胸にびっしり汗をかきかき、朝から鍛錬をしていたらしいその男は、鷹通の息子、頼鷹よりたかだ。目が合うと、父と似ず男らしく引き締まった顔をニッと笑いに変え、
「朝に見るあだな美女というのも、乙なものだな。うーむ眼福、眼福」
 からかいを口にする。調子のいい軽口に微笑して、桔梗も答えた。
「頼鷹様は鍛錬にご熱心でいらっしゃいますね。お水でもお持ちしましょうか」
「うむ、そこにあるので持ってきてくれ」
 廊下に置きっぱなしになっている水筒を示されたので、桔梗は草履を履いてぱたぱたと頼鷹へ歩み寄った。どうぞ、と差し出したところで不意に腕を捕まれ、ぐいと抱き寄せられる。
「あっ、頼鷹様」
「うむ、今日も良い抱き心地だ。身に染みるわ」
 そういってぎゅうと抱擁するものだから、汗に濡れた分厚い胸板に押しつけられて、ぐっと息が苦しい。しかしそれで嫌だ、気持ち悪いと思わないのは、無駄な肉のない逞しい胸から匂い立つ男臭さに思わずくらくらしてしまうのと、頼鷹の抱き方が、不思議と嫌らしさを感じさせないからだ。
「つくづく、親父殿には勿体ない。どうだ桔梗、今日こそ俺と一夜の夢を見ようではないか、ん~」
 そんな事を軽い口調で言いながら、目を閉じて顔を近づけてくるのだが、
「お戯れはそこまでになさいませ、頼鷹様」
「むぅっ」
 その唇に水筒の吸い口を差し込み、桔梗が身を引けば、太い腕は容易くほどけて、決して無理強いしない。
「んぐ……なんだ、今日も連れないなぁ。戯れではないというに」
 水筒を抜いた口を尖らせる表情は、まるで拗ねた子供だ。思わず笑いを漏らして、
「それでは尚のこと、お心改めなさいませ。頼鷹様のお相手をつとめるほど、桔梗は身の程知らずではございません」
「親父殿の相手はするのにか? 俺の方が良い男だろうに、変わった好みだなぁ、お前は」
「さて……殿方の魅力とは、様々でございますから」
 実際鷹通と理無い関係になっているわけではないが、男女の仲と勘違いされたほうが、しのび仕事には都合がいい。わざと誤解を招く物言いをすると、頼鷹は「むぅ、女心はわからんなぁ……」と首をひねったが、それ以上しつこく絡んではこない。
(こういう嫌味のないところが、魅力的なお人なんだよねぇ)
 やや強引なところもありはするが、この優しさはやはり父親似なのだろう。言い寄られて悪い気もしないので、桔梗はついつい、親密なふれ合いも許してしまう。しかし自分は仕事でここにいるのだ。男にうつつを抜かす訳にもいかない。
「それでは、鷹通様の朝餉を準備せねばなりませんので、失礼致します」
 早々に下がろうとする。頼鷹はそうか、と気を取り直して笑いかけた。
「気が変わったらいつでも俺の床に来いよ、桔梗。待ってるからな」
 最後にもそんな軽口を叩いて、しょうがないお人だ、と桔梗の笑いを誘うのを忘れずに。

「うぅむ、たまらんなぁ……」
 きびきびと去っていく桔梗の後ろ姿を眺めやり、しみじみと呟く頼鷹の姿を見下ろし、
「頼鷹様って、趣味悪いなぁ……」
 思わず呆れ声を漏らすと、
「おう、佐助か。お前、いつからそこにいたんだ?」
 聞きつけて、頼鷹がこちらを見上げてきた。ようやく、気づいたか。松の上に腰掛けた佐助は、着物の裾をさばいて足を組み、頬杖をついた。
「頼鷹様が、ねえさんを抱きしめたところからだよ」
 毎日毎日、良く懲りもせずちょっかいをかけるものだ。頼鷹は照れもせず、からから笑ってみせる。
「はは、そうかそうか。いやぁ佐助、姉者は本当に良い女だな。お前は果報者だぞ」
「はぁ、そうすかねぇ」
 城内で桔梗と佐助の正体を知るのは、城主鷹通のみ。他の者には女中とその弟という触れ込みで、桔梗は鷹通、佐助は頼鷹の側仕えをしているので、頼鷹は桔梗の弟として、自分を扱っている。
「あぁそうだぞ。よく考えてみろ、あの立派な胸、ありゃあ他じゃ見られない逸品だ。抱きしめると、とろけるように柔らかくて、しかしもっちりしていて、それがぎゅーっと俺の胸元でつぶれてむっちり広がるのが、本当にたまらん。
 それにあの尻だ、きゅっとあがっていて実に良い形だ。歩くときもこう、腰をふりふりさせていくのだから、いかにもそそるじゃないか。ぜひとも一度、あの服の下の桃尻を拝謁したいもんだなぁ。あれは子を山のように産むぞ」
「……あのさぁ……ちょーっと下品じゃないの? 頼鷹様。仮にもお武家の若様がさぁ」
 手で桔梗の身体の線を再現までして、嬉々として語る頼鷹に、佐助はあーぁ、と口を曲げてしまった。
 筋骨逞しく男らしく、何事にも大らかな頼鷹に、佐助は親近感を持っており、小姓の身でありながら、こうしてうち解けた物言いを許されるほど、親密になっている。
 が、しかし。大変な女好きで、しかも桔梗へ熱心に言い寄っているところは、感心できない。
「なぁに、貴賤問わず、男が女を語るのはいつも同じようなものよ。言葉でいくら繕うたところで、殿様も農民も、する事は同じ。ならば、気取るのも時の無駄というもんだ。
 なぁ佐助、お前も姉者はたいそうな女と思うた事はあるだろう?」
 それには苦笑して、そりゃね、と佐助は肯定した。そらみろと頼鷹は呵々大笑したが、「たいそうな女」の意味は、頼鷹のそれとは全く違うものだった。
(あんなおっかない女、そりゃ滅多にいないよ)
 佐助の知る桔梗は、里でも一目置かれるほど腕の立つ中忍であり、その力量はお頭からも絶対の信頼を寄せられているほどである。
 佐助が、実際に仕事をしている桔梗を見るのは今回が初めてだったが、なるほどその身のこなしといい、佐助の動きを完全に縫い止めたあの殺気といい、噂に違わぬ凄腕だと再認識したばかりである。
(あっちの姐さんを知ったら、頼鷹様もしっぽを巻いて逃げちまうかもなぁ)
 あるいは、戦場で鬼鷹と呼ばれているこの男なら、力ずくで押さえつけられるかもしれないが。そんな事を思いながら見下ろす先で、頼鷹は水筒を干し、素振りを再開した。
「まぁ、そのうち、口説き落とすさっ。ああいう、上玉を、この腕に、抱くことが出来ればっ、死してなお、悔いはないっ」
「またまた……そんな縁起でもない事を」
 大袈裟に物を言うものだと呆れながら、地面に飛び降りた佐助が言う。冗談じゃあないさ、と頼鷹は顔を引き締めた。
「近い内に、鳴竹との戦が、起こりそうだから、なっ」
「えっ?」
 どきっ、と心の臓が跳ねる。自分たちが佐久に雇われたのは、その鳴竹の動向を探り、戦に備える為だ。
 しかしその詳細は桔梗と鷹通、そして家臣団が内々に語らっているらしく、佐助はもちろん、頼鷹にさえ、まだ話は来ていない。
(なのに、何で知ってるんだろう)
 自然と探る目になってしまったのか、頼鷹は素振りをやめ、おいおいなんて顔だ、と笑った。
「親父殿らがなにやらごそごそ動いているからな。いま佐久に喧嘩を売ってきそうなのは鳴竹に違いない。先の戦で俺が長男を殺したから、今頃恨み骨髄で刃を研いでいるだろうよ」
 そしてずかずか近づいてくると、
「わっ!?」
 皮の固い大きな手で佐助の頭を掴んで、わしわし乱暴に撫でる。
「どんな戦だろうと、俺は死なん。だからそう案ずるなよ、佐助。今度の戦とて、一番手柄を立てて親父殿を喜ばせて差し上げるさ」
「わ、わかった、分かりましたよ、だから離してっ」
 ぐわんぐわんと振り回され、佐助は思わず悲鳴を上げた。軟弱な奴め、と笑いながら佐助を解放した頼鷹は、
「おお、そうだ、佐助。お前に用があるんだった」
 ふと思い出した様子で、廊下へ近寄った。そしてそこに置いてある脇差しを手に戻ると、
「これをやろう、佐助」
 無造作に差し出した。まだ目が回っていた佐助は意味が分からず、
「は、え? 何で?」
 思わず無遠慮に問い返してしまう。頼鷹は笑って、
「もし今度戦があれば、俺はお前を連れて行こうと思う。小姓として俺の側にいろ、そして俺の活躍ぶりをその目に焼き付けろ」
 佐助の手にぎゅっと刀を押しつける。その重さにようやく我に戻り、佐助は戸惑った。
「えっ、でもこんな……貰えませんよ、こんな恐れ多い」
 まさか愛刀を下されるとは思わなかったので、慌てて返そうとしたが、頼鷹は受け取らない。腕を組んで拒み、笑う。
「佐助、お前は頭も、剣の筋も良い。お前の愛嬌も気に入っている。だから俺はお前を育て、ゆくゆくは近習に取り立てようと思っておるのだ」
「えっ……」
「男子たるもの、この戦国時代に生まれて名を成さぬなど、ありえぬことよ。佐助、お前は小姓などで終わる男ではない。もしその気があるのなら、本気で俺に仕えてみないか」
 頼鷹の顔からはいつしか笑みが消え、怖いほど真剣な表情が浮かんでいる。佐助は戸惑い、脇差しに目を落とした。
(名を成すなんて、俺はそんな事)
 考えたことがないかといったら、嘘だ。しのびとして育てられた身なれば、この初仕事で手柄を立て、上の者に早く認めてもらいたいと願っていた。
 だが、これは好機ではないか。今のままでは自分を子供のように扱う桔梗の下で、いいように使われるだけかもしれない。それならば一か八か、戦へ出て己の腕を試すのも、一つの手ではないか。
 胸を張って立つ頼鷹の威風堂々とした姿を前に、佐助はぎゅっと鞘を握りしめた。
「あの……か、考えさせてもらって、いいですか。その、姐さんにも、相談したいし」
 かろうじてそう言うと、頼鷹はふっと顔を和らげ、
「うむ、そうだな。無理はいわん。だがもし望むのなら、俺は喜んでお前を迎えるぞ、佐助」
 そういってまた頭に手を置いてきたが、今度はただ置くだけで、包み込むような優しさを感じる。
「……ありがとうございます。頼鷹様」
 佐助はその大きさと温もりに、どきどきと胸の高鳴る思いで、小さく礼を口にした。