「……石田三成。聞き覚えのある名だな」
朝顔の殺気に顔をしかめながら、小十郎は記憶の糸を辿った。そう遠くない日、その名を耳にした気がする。朝顔はそうだろうね、とため息混じりにいった。
「先の武田上杉による豊臣侵攻の折り、戦場で殺戮の限りを尽くした男だよ」
「あぁ……あれか」
その噂は、戦の地、大阪より遠く離れた奥州にも確かに届いていた。
かつての威容を失い衰弱した豊臣軍は、戦のはじめから劣勢を強いられていた。豊臣から裏切り者、脱走者が続出する中、しかしただ一人、飽くことなく刃を振るい、数え切れないほどの兵を屠った武将がいた。それが石田三成という名だったはずだ。
(石田三成……確か、豊臣秀吉の一の部下だったか)
一度思い出せば、蔓草を引くように、石田の情報が掘り起こされていく。小十郎が調べた限り、石田三成という男はどんな戦でも自ら先陣を切り、卓越した剣術で戦場を支配して、圧倒的な勝利を主に捧げていたという。
「石田三成についちゃ、豊臣秀吉が死んでから、行方不明になったと聞いているが……そいつが何故、奥州くんだりまで来て、てめぇを殺そうとした? どうも尋常じゃねぇ有様だったが」
狂うがごとく怒り散らし、全身全霊を込めて朝顔に殺意を叩きつけた石田は、もはや常人の思考を捨てているようにさえ見えた。いったいどんな恨みがあれほど人を狂わせるのか。
薄ら寒い思いをしながら小十郎が問うと、額の汗を拭って、朝顔は目を閉じた。落ち着いた声音で、涼やかに答える。
「それは――あたしが、豊臣を、滅ぼしたから、だよ」
松明の炎が揺れ、足下の影を踊らせる。大きく伸び上がったそれに飲み込まれるのでは、そんな錯覚をしながら、小十郎は痺れたように朝顔を見据えた。
「おめぇが……豊臣を?」
あまりにも思いがけない告白で動きを止めた頭を振り、馬鹿な、と呻く。
「何を言ってやがる。豊臣秀吉を討ち取ったのは、武田信玄と上杉謙信だ」
言った後に、朝顔がしのびだという事を思い出し、眉根を寄せて付け足す。
「それともてめぇは、どっちかに雇われて、裏工作をして豊臣を陥れたってのか」
強大な勢力であった豊臣を滅ぼすなど、女一人で成せる事ではない。むろん後ろ盾があっての事だろうと検討をつけたのだが、朝顔は首を横にふった。目を伏せ、淡々と言う。
「しのびたるあたしの最後の主は、豊臣だったよ」
「何だと?」
先の言葉とは全く逆の立場ではないか。小十郎は思わず驚きの声を上げた。
「それならてめぇは、雇い主を裏切ったっていうのか。……なら、やはり武田上杉侵攻の時に……」
情報を流すなりして、裏から豊臣の崩壊に手を貸したのか。しかしここでも朝顔はそうじゃない、と否定する。
「右目の、旦那。あんたは、その戦の前、豊臣軍が、奇襲を、受けたって話、知ってるかい?」
「……あぁ、聞き及んでいる。加賀の前田慶次が、大阪城に殴り込みをかけたって奴だろう」
前田慶次という風来坊は、以前縁あって知り合った男だ。軽薄だが、嫌みのないさっぱりした気性は政宗にも気に入られており、時折顔を出しては、茶飲み話をしていく仲でもある。
「たった一人だってのに鬼のように強くて、豊臣の兵を片っ端から蹴散らし、仕舞いには豊臣秀吉を殴り倒して、半身不随にさせたんだってな」
しかも大阪城に備蓄されていた金品を強奪し、貧苦に喘ぐ町民に全てばらまいたと言うから、あの婆娑羅者も派手な事をやらかしたもんだ、と呆れ感心したものである。
「豊臣秀吉が武田上杉に敗北したのは、その時の怪我と、もう一つ。軍師の竹中半兵衛を失った故と聞いているが……」
語りながら徐々に嫌な予感を覚え始め、声が揺らぐ。まさかと思いながら、小十郎は朝顔を見下ろした。
「そいつに、てめぇが関わっていたってのか、朝顔」
「…………そうだよ」
間を置いて、吐息を挟みながらも、揺らぎのない声音で答える朝顔。
「その、殴り込みの、お膳立てを、したのが、あたし、なんだよ」
「……前田をそそのかして、言いように使ったってわけか?」
あの女好きの男であれば、朝顔の色香にあっさり迷いそうだ。もしそうなら前田が情けないし、前田を誑かしたのなら、この女が腹立たしい。
そう考えて言葉を尖らせる小十郎へ、朝顔は影のある笑みを向けた。
「……前田の、旦那は、元々、豊臣秀吉に、禍根が、あったのさ……。そいつが、うまいこと、あたしの、思惑と、重なったって、だけだよ……」
禍根。暗い言葉だ、前田慶次には似合わない。反射的に思い、女への反発もあって嘘だと決めつけようとした小十郎だが、
(そういえばあの男は時折、妙に寂しげな顔をしていたな)
「……前田は、豊臣とどんな因縁があったんだ?」
淡い記憶を思い起こして尋ねたが、朝顔は苦笑した。
「そいつは……あたしの口から、言うわけにゃ、いかないね……。知りたかったら、前田の、旦那に、お聞きよ……教えて、くれるかは、分からない、けどさ」
それは尤もだ。なら、と小十郎は目をきつくして問う。
「その代わりじゃねぇが、てめぇの思惑とやらを聞かせてもらおうか。てめぇはなぜ、豊臣を裏切った」
「…………」
壁に背中を預け、浅く息をついて朝顔は黙っている。その表情は熱を帯びて赤らみ、目が潤み、どこまでも儚げで、そして美しい。
「前田から強いて聞き出そうとは思わねぇが、てめぇは別だ。黙りがきくと思うなよ」
二度と惑わされまい、と気張る小十郎は自然と声が低くなり、その身から冴えた気がわき起こる。それに当てられた故か、朝顔は僅かに目を細め、
「……豊臣に、居た頃……あたしは、ある戦場で、石田に、会ったんだよ」
大きな吐息とともに言葉を吐き出す。
「あの男は、豊臣の、一番槍でね……いつでも、どこでも、鉄砲玉みたいに……飛び出していった。あたしは、裏の仕事――情報収集やら、偵察が、主だったから……あいつと、顔を合わせる、ことなんて、そう、無かった」
当時を思い起こしているのか、その目が遠くなる。
「あの日、あたしは、竹中半兵衛の命で、降伏を、促す書を、持って行った。だけど、相手方は……あたしを、捕らえてね。痛めつけて、豊臣の内情を……聞き出そうと、した」
「…………」
「丸三日……散々な目に、あって……もう死ぬかと、思った時……石田が、来た」
石田の名前を紡ぐ朝顔の声が、不意に冷える。
「てめぇを、助けにきたのか」
「いいや……ただ、殺しに、きたのさ――豊臣秀吉の敵を、全てね」
朝顔は呼吸を乱し、俯いて呻いた。
「あの時の、事は、忘れられない……一面、死体だらけ、だったよ……女子供も、容赦なく、皆、殺された」
「……」
思わず口をつぐむ小十郎。髪をかきあげ、朝顔はかすれた声で笑った。
「そりゃあ、あたしだって、綺麗な手じゃあ、ない……あの男を、人殺しと、罵る権利なんか、ありゃしないよ。……だけど……」
くしゃり、と髪を握り込み、怒りと恐れをにじませて、囁く。
「あんな……あんな、ひどい事を、する奴に、好き放題、させてるような、豊臣秀吉を……あたしは、許せなかったんだ」
「……朝顔」
力なく頭を垂れ、かつての惨劇に憤り、かつ恐怖して身を縮こまらせる朝顔はどこまでもか弱く、儚げで、今にも消えてしまいそうだ。(これが、朝顔の手なのかもしれない)そんな猜疑心を抱きながら、それでも胸が締め付けられるような思いで、小十郎は名を紡いだ。
朝顔の言葉は続く。
「だから……あたしは、豊臣を、裏切った。それだけじゃあ……ない。豊臣そのものを、つぶすために……前田の旦那や、武田上杉に、話を持っていって、色々と、手を配った。だから……分かっただろ? 石田が、どうして、あたしを、殺したいほど……憎んでるか」
しのびが裏切り、敵に通じて、主を貶めた。その事実を知ったのなら、忠誠心厚い石田が捨て置くわけがなかろう。しかし、
「それならてめぇよりまず、直接豊臣に刃を向けた相手――前田や、武田、上杉を殺そうとするのが順なんじゃねぇか」
指摘すると、朝顔は軽く肩を上下させる。
「もちろん、あの男は、そのお方たちも、殺すと、言ってるよ……。ただ、手の届くところに、居たのが……あたし、だったって、だけさ……」
「……そうか。てめぇが一つところに留まれねぇ理由は、石田か」
先に外歩きをした際に引っかかっていた疑問が氷解する。
あんな男に追われていたのなら、一つの場所のじいっとしている訳にいかないだろう。今度は朝顔も首を縦に振る。
「……細かい事を、よく覚えてるねぇ……。あの男が、こっちを……探してるってのは、知ってたからさ……前田の旦那とは、三河の手前で、別れたけど……多分そのまま、あたしの後を……追ってきたんじゃ、ないかね……」
「だが、足を怪我して、身動き出来なくなった、か……」
それなら朝顔がこれほどの傷を負ったのは、自分のせいでもあるのではないか。自責の念に駆られかけ、小十郎はハッとした。
(いけねぇ、すっかり朝顔に同情しちまってるじゃねぇか)
今の話がどれだけ真実を含んでいるかは分からない。そもそも、全て嘘かも知れない。
この女は伊達屋敷にいる間、小十郎にさえ正体を気取らせなかった。夜の森で対峙した時に見た身のこなしは、怪我をしているとは思えぬほど俊敏で、相当な手練れであるのは違いないだろう。
(騙されるな)
今はしおらしくしているが、傷が癒えた時、政宗にあの針を突きつけるはずがないと、どうして言えようか。
「……だが、あれだけ動けるようにはなってたんだ。てめぇなら、石田が近くまで来てると知った時点で、遠くに逃げる事が出来ただろう」
気持ちに引きずられて声もよそよそしくなる。朝顔は足を引き寄せて、膝に顎を乗せ、
「……そりゃ、出来た、けどさ。そう、したら……あの男が、行く先々で、人を、殺して、回るじゃないか……」
消え入りそうな弱い声が細々と漏れる。
「もう……あんな光景は……見たくない、んだよ……ましてや……この、奥州で……の、殿様が……文七……右目の、旦那がいる、この、国で……」
「朝顔……?」
どうも様子がおかしい。とげとげしい警戒心を抱いたまま、小十郎は近づいた。いつでも刀が抜けるように緊張しながら、ゆっくりと朝顔に近づき、
「おい、どうし……」
そろりと伸ばした手が、小袖に触れるより先に、ふっと朝顔の身体が傾いた。
「! 朝顔!」
どさり、と土の床に身を投げ出したのに驚き、身を乗り出してのぞき込むと、その目に赤色が飛び込んできた。
「……しまった、傷が開いたか……!」
着物の脇腹に滲む血を見て、小十郎は舌打ちした。
相手は不審な女だと心を鬼にして尋問を強いたが、朝顔はつい先ほど手当を受けたばかりなのだ。あれだけの傷がそう簡単にふさがるわけがなく、ましてやこれほど長々と語りをしていれば、身体に障って当然だ。
「おい! 今すぐ、稲尾のじいさんを呼んでこい、急ぎの患者だ!」
小十郎は牢の外へ出て、離れたところに待機していた兵へ怒鳴った。慌てた兵が、矢のごとく飛び出していくのを見もせずに部屋へ戻る。
そして、ひゅうひゅうと弱い呼吸を繰り返す朝顔の身体を仰向けにする。今や血の気が引いて、青ざめている頬の汗を拭おうと手を近づけかけたが、
「……っ」
躊躇って、引っ込めた。立ち上がって避けるように一歩下がり、歯をかみしめて、苦しむ朝顔を見下ろす。
(おめぇの言葉のどれを、信じればいい)
石田三成がこの奥州で凶行を繰り返すのを、止めたかった。最後の言葉は、小十郎が知っている、情細やかな朝顔のそれだった。しかし今の小十郎は、頭から受け入れる事が出来ない。
(朝顔……おめぇの本当の顔は、どっちなんだ)
主を裏切り、人殺しも厭わない、冷徹なしのびと、艶やかで人なつっこい朝顔と。
両極端な二つの面を持つ女を前に、小十郎は猜疑と情が入り乱れて息苦しくなり、きつく拳を握りしめていた。