花のうへの露12

 闇に覆われた森に、雨が降る。枝葉にふれ、さわさわと衣擦れのような音を立てる雨は冷たく、じわりじわりと体温を奪っていく。
(雨は嫌いだ……篠突く雨など、以ての他だ……)
 山道を進みながら、男は心中で呻いた。濡れるのも構わず、前髪からぽたりぽたりと雨粒を垂らしながら、ゆっくりと、しかし躊躇いなく足を進める。
(……このような雨の中、どれほど身体を冷やされた事か……)
 目の前に蘇るのは、累々と屍が転がる戦場に降り注ぐ雨、そしてその地に倒れ伏した主の姿。
(秀吉様……どれほど、無念であられただろうか……)
 力を失い、親友を亡くし、失意のままに臨んだ戦で敗北し……たった一人で崩じたその無念はいかばかりだろうか。
(秀吉様……秀吉様……秀吉様……)
 あの戦では男自身も血を吐くような思いで戦ったが、押し寄せてくる軍勢に為す術もなかった。
 幾千幾万の敵を斬り、数え切れぬほどの傷を負い、それでも這うようにして戻った男の目の前で、主は命を散らした。
(秀吉様……半兵衛様……お二方の無念、私が晴らします……)
 ずるり、とぬかるむ土に足を埋めながら、男は暗くよどんだ闇に切れ長の目を据えて、誓う。
(私が……邪魔するものは全て斬り捨て……何もかも……)
 あの絶望的な瞬間から、何度となく心に刻みつけている誓いを繰り返す。
(何もかも奪い尽くして……あの憎き……)
 あの憎き者共を全て滅する。その時を思い、暗い喜びと絶望的な怒りにハァッ、と白い息を吐き出した瞬間。
 ……ヒュッ……
 そぼ降る雨の中、僅かに空気を切り裂く音を耳が拾った。
「!」
 反射的に身体が動き、白刃が閃いた。光が走った瞬間、ギィンッ! と硬質な音が響きわたる。目にも留まらぬ速さでふるった刀で払い落としたそれに、男は目を見開いた。その瞳が捉えたのは、地面に突き刺さる八寸の針。
「これは……」
 これには見覚えがある、いいや、決して忘れるものか! 激情のあまり男はぎりり、と歯を食いしばった。怒りが冷え切った指先にまで熱をたぎらせ、絶望に沈んでいた心が沸騰する。
「……そこかぁぁぁぁぁっ!!」
 喉から発作的な叫びが迸り、男は本能の示すまま刀を振るった。超人的な膂力で振るった刀の軌跡は光の刃となって、男の眼前に広がる闇を払った。森の木々を切り倒し、太い幹の木が半ばからずれ、めきめきと音を立てながら倒れた。その木で羽根を休めていた鳥や、穴ぐらで眠っていたリスが驚き、鳴き声をあげる。
 闇の中で影となって逃げまどうそれらには目もくれず、男は不意に開けた空を見上げた。その目は今倒した木から切り離された、黒い影の姿を追い、鋭く輝く。
「……見つけた!」
 歓喜のような、憎悪のような声を張り上げ、男は地面に降り立った影を睨みつけた。狂気に似た満面の笑顔で、高らかに咆吼する。
「とうとう……貴様を見つけたぞ!」
「……やはりお前か」
 対して答えたのは、低く、冷たい殺意に満ちた声。それは、影を切り取ったような様相の人間だった。
 影のように思われるのは、頭から足の先まで全て黒の装束に包まれている故で、かろうじて見えているのは口元だけだ。その上は、何の模様もない黒の仮面で覆われており、何の感情も読み取れない。
「ここで何をしている、石田三成」
 黒装束が淡々と尋ねる一方で、男――三成は刀を鞘に納めながら、気持ちを高ぶらせて叫ぶ。
「知れた事だ、貴様を殺しにきた」
「……」
「さぁ頭を垂れろ、許しを望んで希え、そしてその首を刎ねられろ!」
「……断る。お前に下げる頭などない」
「私ではない、草下の秀吉様に謝罪しろというのだ!」
 激高した三成は、大一大万大吉の紋が刻まれた柄頭を突きつけ、叫ぶ。
「貴様のせいで、秀吉様がどれほど苦しまれたかっ……半兵衛様がどれほど心残りであられたかっ……! その罪は貴様の死を以てしても購われる事はないっ、ひと思いに殺してなどやるものか! その身に千の、万の死を刻みつけてやる!!」
 突きつけた刀が震え、揺れる手元から滴がしたたり落ちる。憎悪の固まりを突きつけられた黒装束は、しかし何の動揺を見せなかった。
「……下らぬ」
「何だと!?」
「お前の憐憫につきあうつもりはない。竹中半兵衛は病に冒され、余命幾ばくもなかった。豊臣秀吉はあまりにも多くの者に憎まれすぎていた。あの時でなくとも、いつかは反乱が起きていただろう」
「貴様っ……」
「いずれ崩れ去る楼閣だった。瓦解が早いか遅いか、それだけの話だ」
「貴っ様……黙れ、妄言を囀るなぁっ!!」
 怒りのままに身体が動く。地面を抉る勢いで走り、三成は黒装束の目前で、悠長にも見えるほどの動作で刀に手をかける。そして、
「消えろっ、消ィえ失せろォォォォォォ!!」
 怒号を上げながらその手から閃光が放った。一撃必殺の光が黒装束の首を狙って走り、今しもはね飛ばすかと思われた時、影が消えた。
「!」
 手応えのないまま刃が空を走る。それが振り切る前に三成はばっと上を降り仰いだ。黒装束は三成の頭上を飛び越え、腕を交差させる。握りしめたその拳から生えるように針が何本も飛び出し、鋭く空気を裂いて、三成に向かって放たれる。
「くっ!」
 背後からの攻撃を視界の端にとらえ、三成はその場で膝を折った。身体を深く沈めたその頭上を、光の針が飛び越し、カカカッと堅い音を立てて木に突き刺さる。
「そんなもの食らうか!」
 叫んで三成は足を張って身を翻し、地面に着地したばかりの黒装束に迫った。その姿がかき消えるような速さで懐に飛び込み、刃先を影の中へと突き立てる。
(とった!)
 確かな手応えに、三成は一瞬笑みを浮かべた。しかし刀を通じて伝わってくる感触は、人のそれではない。
「なにっ」
 確かに貫いたと思われた黒装束は木に姿が変わり、三成の刀はその幹に深々と刺さっていた。
「くっ……!」
 憎悪に突き動かされるまま力任せに突き刺した刀はすぐに抜けず、三成の足がそこに縫い止められる。まずい、と背筋に冷たい予感が走った時、
「――千羽鴉せんばがらす
 闇の中から滑り込むような声が耳に届き、次の瞬間、無数の針が頭上を埋め尽くし、雨よりもなお激しく、耳障りな金属音を立てて降り注いだ。
「ぐああああっ!!」
 ドドドド、と地面が揺れる勢いで針が襲いかかってくる。避ける間もなく、かろうじて頭を庇った三成の全身を針が襲う。鎧に覆われた箇所はほとんど針を弾き返したが、その下の服がのぞく関節部分にいくつも、鋭い痛みが突き立つ。
「うっ……くっ……」
 周囲の地面が針で埋め尽くされ、三成の立っている場所だけ地面がのぞく。全身のあちこちに針を生やした三成が呻くと、その前に、黒装束が影のにじみ出るように現れる。静かな声で言う。
「……手と足は貰った」
「貴っ様、……!?」
 不意にかたく柄を握っていた手から力が抜け、ずるりと滑り落ちた。足も言うことを聞かなくなり、勝手に折れて、どさりと投げ出すように地に膝をつくはめになる。
「なにを、したっ……」
 僅かに指先は動かせるが、鉛のように重く、手も足も動かない。まるで自由にならない己の身体に苛立ちと怒りをたぎらせ、三成はぎらぎらと輝く目で睨み上げる。対して黒装束は無の仮面で見下ろし、
「……奥州の村を襲ったのはお前か」
 反対に質問を投げかける。夢に見るほど憎い相手を前にしながら、何も出来ない事に猛烈な怒りを抱き、ぎりぎりと歯ぎしりをしながら呻く。
「村、だと……何の事だっ」
「……数日前、ここより南に位置する村が壊滅した。それもたった一人、痩身の男によって、次々と襲われ、皆殺しにされたと聞いている。たった二、三日で、しかも離れた位置にある三つの村を潰滅せしめる……お前なら、出来ぬ事もないだろう」
「だったら、どうしたというのだっ……!!」
 黒装束の言う事に思い至り、三成は吐き捨てるように肯定した。あの村々の連中は三成が豊臣の家臣と知った途端、口汚く罵って石を投げつけ、すきくわなど貧相な武器を持って彼を追い払おうとした。
 それが、三成の逆鱗に触れた。自身はどう言われようと構わなかったが、命すら捧げて崇拝する主を侮辱し、あざ笑う者共を無視して去るなど、到底出来ない事だった。
「秀吉様の名を汚す者は、誰であろうと許さないっ!! この私がっ、全て斬り捨てるっ……!!!」
 三成の答えを聞いて、黒装束は唇を横に引き結んだ。顔の表情は全く分からないが、その身から氷のように冷たい気配が吹き出し、手がすうっと上げる。
「……そうか。ならば、死ね」
 平坦ながら鋭く刺すような殺気を帯びた言葉を漏らす、その指先から針が伸びた。そしてそれをそのまま勢いよく振り下ろす。
「うぅああああああああっ!!!!」
 避ける間もなく、眼前に針が迫る。こんな下衆に不覚を取るなどあり得ない。怒りに全身が燃え立ち、針で縫い止められた腕を動かそうと、三成が吠えたその時、
 ギィン!!
 目の前で火花が飛び散り、針が消える。同時にハッと息を飲み、黒装束はその場から後ろにとびすさった。手に新たな針を握り込み、ばっと右手に向かって構える。
(何だっ)
 眼前に飛来し、針を弾き飛ばしたのは小太刀だ。それを視認した三成は、飛んできた方角、黒装束と同じかたへ視線を向けた。その目に映ったのは、
「こんなところで二人きりのPartyとは、寂しいもんじゃねぇか。オレ達も加わらせてもらうぜ」
 森の中から現れた、二人の男だった。
 馬に乗った男達のうち、言葉を発した一人は蒼い陣羽織を纏っており、兜には高々と天を指す弦月の前立て、その右目を眼帯で覆った奇妙な風体をしている。馬上で腕を組んだその男は三成と目が合うと、不敵に笑って言った。
「さぁ、教えてもらおうか。てめぇらのどっちが、オレの目を盗んで、奥州で悪さをしてやがるのかをな」