花のうへの露8

 自分の身体の一部のように馴染んだ手中の重み、地面に向けて延びるその先端までを意識しながら、政宗はゆっくりと刀を正眼に構えた。
 目はうっすら雪が残る境内に向けられているが、見ているものはそれではない。
 息を吸う、吐く、風が袖を揺らし髪を撫でる、足の指に力がこもり草履の下にある石畳の固さを感じる、周囲の全てを染みいるほどその身に感じながら、竜の隻眼が見据えるのは、炎の赤を身にまとった青年武将の残像。
(真田、幸村)
 身体の奥から熱がわき起こり始めるのを感じて、政宗は口を好戦的な笑いに歪めた。その上体をひねり、右腕を後ろにひいて顔の脇に刀を持ってくる独特の構えをとり、引いた右足のかわりに折った左膝にぐっと力がこもる。
(今のあんたは、オレをHeat upさせられるのか)
 幻に問う政宗の頭にあるのは、小十郎から報告を受けた武田の現状についてだった。
 先の戦で、上杉と共に図ったような形で豊臣を討った武田の総大将、武田信玄は今、病に伏せているという。偉大なる主を失いかけている甲斐を今支えているのはむろん、信玄の意志を受け継いだ真田幸村だ。
(あんたの事だ、どうせ武田のおっさんが倒れて右往左往してるんだろう)
 生まれた時より国を背負ってたたねばならなかった政宗にしてみれば、真田幸村は『幸せな人間』だった。
 ただひたすら信玄を尊び、命じられるまま突進していくだけでいい、重責を負わぬ気軽な身分。
 戦いの技量は負けず劣らず、まっすぐに向かってくる熱き魂は、普段感情を抑えがちな政宗をも熱くたぎらせるほどだが、背負うものの軽重がもたらす覚悟の差はいかんともしがたく、政宗はいつもそれが歯がゆくもあった。立ち位置が異なる相手は、宿敵とは呼べない。
(だが、これであんたもオレと同等だ)
 ぐ、と足に力をこめ、政宗は竜の目で睨みつける。
(来い、真田幸村。あんたがこねぇなら、オレが行く)
 何度もぶつかり合いながら未だつかない決着に、心がくすぶる。ぎ、と歯を食いしばり、政宗が今にも赤い残像に切りかかろうとした時。
「――っ?」
 研ぎ澄まされた感覚に蹄の音が引っかかり、緊張の糸がいきなり断ち切られた。馬がこちらにまっすぐ、向かってきている。
「……あぁん?」
 誰が来るのか、と刀を下ろし振り返ると、畑や田の間を長く伸びる道に人馬の姿が見えた。目をこらせば、手綱を引く男と、馬上の女が視界に映る。
(ありゃあ、小十郎と……例の女か?)
 小十郎自ら馬を引くような女など、(姉を除けば)他にあるまい。興味を引かれた政宗は身体ごと向き直り、彼らが緩い階段をのぼって自身の前にやってくるまで待った。
「政宗さま。鍛錬のさなか、ご無礼仕ります」
 やってきた小十郎は常と変わらず、堅苦しい。政宗は浅く頷き、
「よぉ小十郎。何してるんだ、そっちは?」
「はっ。これなるは、先日ご報告いたしました朝顔にございます。政宗様にぜひ一言ご挨拶を申し上げたいと言うので、連れて参りました」
「Hun?」
 それは殊勝なことだ、と女へ視線を向ける。綿入れをまとった女は政宗と目が合うと、淑やかに視線を下げた。そして「旦那、下ろしておくれ」と小さく小十郎に声をかける。それが、身分が上の者に対して頭上から語りかけるのを嫌っての事と察し、政宗は手で制止する。
「あぁ、いい。あんた足を怪我してるんだろ。オレは気にしねぇから、無理するな」
「ですが……」
 小十郎の肩を借りようと手を乗せた朝顔は困り顔になった。しかし政宗がじろっと見据えると、逆らっても無駄と悟ったか苦笑して、前のめりになった身体を戻す。そしてあらためて、頭を下げた。
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。また上より、失礼致します。私は朝顔と申します。このたびは私などに滞在のご許可ばかりか、過分なおもてなしを頂き、大変ありがたく存じます」
「!」
 朝顔の口上に、小十郎が驚いた様子で彼女を見上げる。
「オレは何もしちゃいねぇ。礼なら小十郎に言うんだな。あんたの世話は、そいつに任せてある」
 政宗はといえば、落ち着いた女らしい所作の朝顔に目を細めた。
 分厚い綿入れを着ているので身体の線はわからないが、少なくとも顔は美形だ。柔らかそうな頬にぽってりとした色気のある唇、高貴の眼差しを避けて視線が下がっているが、長いまつげが影を落とす瞳は伏し目だとより艶めかしく、つい顎を持ち上げてのぞき込んでみたくなる。
「Ha、I see。あんたは確かに、小十郎のTypeなんだろうな」
 政宗はもっと線の細い、守ってやりたくなるような女の方が好みだが、朝顔のように、全身から馥郁ふくいくと色気を漂わせるようなのは、確かに小十郎が好みそうだ。
「なっ……ま、政宗様、戯れ言を仰いますな!」
 政宗の呟きを聞きつけ、珍しく小十郎が慌てだし、一方朝顔は首を傾げて髪をさらりと肩に流す。
「たい、たいぷ? ってなんだい、旦那。こっちの方言かい?」
 こっそりと小十郎に語りかける言葉はざっくばらんだ。先ほどの口上で小十郎が驚いたのは、常と異なる言葉遣いだったからだろうか。ねぇ旦那、と小十郎の肩をつつく朝顔に、小十郎はますます言葉を窮した。
「い、いや、それは、その……」
(おーおー、赤くなってやがる)
 守り役の狼狽ぶりに政宗は思わずニヤニヤしてしまった。
 幼い頃から面倒を見てもらい、今も忠実な家臣として常にそば近くにいる小十郎には、政宗も頭が上がらないところがある。その小十郎がまさか女一人のことで、これほど惑うとは……こんな面白い見物はなかなか無い。
「……ま、そいつは後で小十郎から聞き出すんだな」
 地面に指した鞘を手に取り刀をおさめ、政宗は笑い含みに言う。
「小十郎の客なら、あんたはオレの客でもある。歓迎するから、ゆっくり療養していけ。何かあれば小十郎を使ってくれてかまわねぇ。しばらく、あんたの専属にしてやる」
「政宗様!」
 何を言い出すか、と小十郎が目をむいて声を張り上げた、それとほぼ同時に。
「……ひっとーーーう!!」
 遠くから呼びかけの声が届く。ぱっと目を向けると、ばたばたと砂埃をあげて、義直がこちらへ駆けてきている。前方に固めた髪を上下に揺らして走ってきた義直は、政宗と小十郎の前に膝をつき、
「筆頭、たった今、急ぎの文が届きましたっ」
 両手で一通の書状を差し出す。刀で手がふさがっている政宗は小十郎に目で促した。それに応えて義直の手から書を受け取った小十郎は、裏にひっくり返して差出人の名を口にする。
「これは……政宗様、徳川家康からの文のようです」
「徳川だと?」
 三河の武将がわざわざ何の用だ、とわずかに視線を上向かせた政宗は、一瞬気がそれた。小十郎の後ろ、馬上の朝顔が目に入ったのだが、その表情にはなぜか驚きの色が浮かび、
『とくがわいえやす?』
 その唇が音もなく、言葉を紡いだのを見たのである。
(……?)
 瞬きをした次の瞬間には、朝顔は顔色を拭い、何事も無かったかのように目を伏せたが、
(……何かあるのか。この女)
 政宗の中で疑念の墨がぽつりと落ちて、じわりと広がり始めた。