まだ春には早い時分、風は冷たい。しかし久しぶりに全身で外の空気を感じ、朝顔は生き返る心地だった。
「あぁ、いい気分だ。晴れてて気持ちがいいねぇ」
すう、と胸に思い切り息を吸い込み、吐き出す。
空は透き通るほどに青く、高い。頬にとげとげと触れる寒風はしかし、土やほのかに緑の匂いを含んで、ことさらほのぼのとした気分になる。ぽくりぽくりと静かに歩を進める馬もおとなしいもので、よく手入れされた鞍も座り心地が良く、良い外歩き日よりだ。
「あぁ、そうだな。だが寒かったり、怪我が痛んだりしたら、すぐ言うんだぞ」
手綱をひいて歩く小十郎に注意され、朝顔は笑って軽く手を振った。
「わかってるって。右目の旦那は心配性だねぇ」
そして横座りになった馬の上からゆっくりと、伊達の里を見渡す。
屋敷の門を出ると目の前には、広大な田んぼが広がる。休耕の時期で細い雑草が生えた田のぬかるみには薄く氷が張り、どこかうら寂しい雰囲気が漂っていた。しかし整然と並ぶ水田地帯に、朝顔は感嘆のため息をもらした。
「ここいらは米どころと聞いてはいたけど、こんなに広い田を整えてるなんて、伊達の殿様は大したお方だね。ここまでするのには、たいそう手間もかかったろう」
伊達の領地は全国でも有数の米の産地だ。それは国主たる伊達政宗が率先して田と川の整備を行い、それを国外へ売る事で領地を豊かにしている故、と朝顔も耳にしている。
「あぁ。政宗様はまだお若いが、民を心から思い、国にとって何が良いを常に模索しておられる。……素晴らしいお方だ」
小十郎の答えも熱がこもり、いかに主を大事に思っているかが、声からも、真摯な表情からも伝わってくる。
(たぶん、伊達の殿様が立派なのは、このお人のおかげでもあるんだろうね)
それを馬上から見下ろし、朝顔はふっと笑みを浮かべた。年若い国主ではこの乱世に、思い悩む事はさぞ多かろう。それを支えるのはこの実直で、いかにも頭の切れそうな側近なのではないか。
(もちろん、文七達も縁の下の力持ちなんだろうけどさ)
下克上と声高に叫ばれ、無能な国主が家臣に追い落とされる事も珍しくない昨今、これほどの人物が一家臣に収まっているということは、それだけ伊達政宗という人間に魅力があるのだろう。そんな事を思いながら再び風景に顔を戻し、晴れ晴れとした心地で言う。
「ここは良い国だね、右目の旦那。こうも居心地良いと、去りがたくなっちまうよ」
「!」
と、小十郎の歩が一瞬乱れた。軽く目を瞠ってこちらを見たので「?」何事かと視線を返すと、すぐにそらされてしまう。
「……まだ万全じゃねぇんだ、そう急いで出て行く事もねぇだろう」
声が不意に低くなって、なぜか深刻さを増す。何か気に障る事を言っただろうか、と首を傾げながら、朝顔は言葉を継いだ。
「そりゃ今は自分で動けないけどね、怪我が治ったらの話だよ。このまま、いつまでもご厄介になってるわけにもいかないだろ」
「越後に行きたいからか。あっちはまだ雪深い。行き来にはあと一月二月はかかるんじゃねぇか」
「まぁ、それは何とでもなるさ。急ぐわけじゃあないが、あまり一所にとどまっているわけにもいかないんでね」
何気なく言った途端、小十郎が顔をあげ、訝しげにしかめた。
「何だ、一所に落ち着けない訳でもあるのか?」
(おっと、口が滑った)
まずいところを突っ込まれた、と内心怯んだが、朝顔は表情を変えることなく、話を続けた。
「そうじゃないよ。ただ、あたしは旅暮らしのほうが性に合ってるって事さ。一つところでのんびり過ごすより、明日は何があるか分からないような気ままな生き方が好きなんだよ」
「……そうか」
咄嗟の説明に納得したのか、小十郎はまた視線を前に戻した。それなら仕方ねぇが、と呟き、
「とりあえず気を遣って、治ってもいねぇのに慌てて出て行く必要はねぇ。旅がそんなに好きならこの際、身体を労ってやれ」
真面目な口調で静かに言う。その言葉一つ一つに真心を感じ、朝顔はふ、と心和んだ。頬を緩め、
「右目の旦那は優しいお人だね。怖い噂ばかり聞いてたけど、当てにならないもんだ」
からかい含みに言うと、小十郎はさっと顔を赤らめながら、同時にしかめ面になった。
「これくらい普通だろう。怖い噂ってのは何だ」
「そうだね、外で聞いた話じゃ、鬼の小十郎、逆らえばとって食われる、実は奥州の影の実権を握る黒幕で、暗愚な主を操って天下統一をもくろんでるとかさ」
「……どこのどいつだ、そんな事を言いやがったのは」
途端、小十郎の機嫌は真っ逆様に落ち、声に怒りがじわりと滲む。それに怯えた馬がびくびく、と耳をそばだて、身体を震わせた。これはまずい、冗談なのに通じないようだ。場を和ませようと、朝顔はおお怖い、とわざとらしく自分の身体を両腕で抱きしめ、
「又聞きの又聞き、井戸端会議の暇つぶしみたいな話さ。そう目くじらたてるもんじゃないよ、右目の旦那」
そういったが、小十郎は渋面のまま首をふった。
「俺のことはどう言おうがかまわねぇが、政宗様を侮辱するような暴言は捨てておけねぇのさ」
(おやま。真っ先に怒るのは、殿様の事かい)
てっきり鬼だの黒幕だの、好き勝手に言われたのが気にくわないのかと思いきや、これは聞きしに勝る忠臣ぶりだ。
「……旦那みたいなお人に慕われてるなら、伊達の殿様は本当に立派なお方なんだろうね。出来る事なら一目、遠くからでもいいから拝見してみたいもんだ」
しみじみ、感心しながらそう言うと、小十郎は眉を上げ、小さく笑った。
「なら、政宗様に会ってみるか?」
「……えぇ?」