花のうへの露1

 夜来の細雪が止み、ひんやりとした空気が頬を撫でる朝。小十郎は政宗の母、義姫のもとから、ゆっくりと帰路を辿っていた。
(早いところ、戻りてぇもんだが)
 残してきた仕事を思うと、のんびりしているわけにもいかないのだが、何しろ持たされた土産が馬三頭分にものぼるもので、中には脆い菓子のたぐいがあるというから、むやみに急かすわけにもいかない。
(仲が宜しいのは結構な事だが、ここまでくると過保護だな)
 義姫が根掘り葉掘り、息子の様子を聞きたがる様を思い出し、一人苦笑を口に上らせる。
 本来ならこのような役目は、たとえば義直や左馬之介などが務めるはずなのだが、政宗が一番信を置く小十郎にこそ話を聞きたい、というのが義姫の要望だった。
『Ha、母上のたっての望みとあらばしかたねぇ。小十郎、土産をたんまり持っていって、喜ばせて差し上げろ』
 政宗自身からも命じられれば、否やもない。小十郎は山のような進物を整えて義姫のもとへ向かい、下にも置かぬ歓待を受けた。少し話をして辞するつもりが、是非にと強いられて一晩泊まることとなり、その次の日。ようやく出立して帰途についたのが、辰の刻八時である。
(まぁ、昔のように険悪な状態であられるよりは、よほど宜しい事だが)
 政宗が家督を継ぐまでの間にあったあれこれを思い出しながら、馬上に揺られる小十郎。その足下は半ば溶けた雪に濡れる山道で、耳に届くのは、蹄が枯れ葉を踏み分ける沈んだ音だけである。
(そろそろ春も近いな)
 ぼそっ、ぼそっと重たい蹄の音を聞きながら、小十郎は考えに耽った。つい先頃まで雪に埋もれていた奥州も、命芽吹く春に向けて日一日、その化粧をぬぐい去りつつある。露に濡れる木々を見る小十郎の頭の中は、しかし戻った後に控えている仕事のあれこれに占められていた。
(文の確認と……土産の仕分け……田の手入れに……あぁ、孫兵衛が何か相談事があるといってたな)
 伊達の家政も取り仕切る小十郎の要務は数多い。奥州をその背に負う政宗の負担を少しでも減らす為なので、どれほど忙しくても苦にならないが、こうして仕事から身を離している時は、政宗が不自由していないか、何か遅滞はないかと心配で心が曇る。
(近々、文七郎辺りに書の手伝いをさせるか)
 そんな事を思いながら、馬を進めて下り坂にかかった時。
 ずっ……
「!?」
 不意に視界が揺れて、身体が前面に引っ張られた。ひぃん、と空気を裂く甲高い鳴き声が耳に届いた次の瞬間、馬体が勢いよく前のめりになる、否、踏ん張った馬の足ごと地面が斜面を滑り、その上三頭とも、荷物を背負った状態で連なっていたため、
「なっ!?」
 さすがの小十郎も身動き叶わず、咄嗟に馬体を挟む足を締めてしがみつく事しか出来なかった。しかも悪い事に、緩く湾曲したその道の先に、旅装の女が視界に飛び込んでくる。
「あぶねぇっ、避けろ!!」
 口から出た叫びに女が振り向く。笠の下に隠れた顔の表情までは見えなかったが、坂を滑り落ちてくる馬たちに驚いたのか、女はびくっとして後ろにとびすさった。だが、
「――あっ――!!」
 足を下ろした先に地面が無い。きつく手綱を絞って馬の暴走を止めようとする小十郎の目の前で、女の姿は山道の端から、ぱっと消え失せてしまった。遅れて悲鳴と、枝葉の折れるばきばきばきっという音が、地滑りの合間に小十郎の耳へ届く。
「どーう、どうどう!」
 坂を滑り落ちた馬が混乱状態であらぬ方向へ走り出しそうになるのを、小十郎はその膂力と卓越した手綱さばきで押さえ込んだ。道の端から飛び出しかけたところで何とか留まると、息を荒げる馬の上からひらりと飛び降りた。
(さっきの女は!)
 膝をついて下を覗き込む小十郎の目に映ったのは、一丈ほど下がった場所にある茂みに埋もれた女の姿だった。腰の辺りを中心にめりこんで、笠はどこかに吹っ飛び、着物の裾が膝までめくれて、あられもない格好になっている。
「おい、あんた大丈夫か!!」
 まさか死んだか、と肝を冷やした小十郎が良く響く声で呼びかけると、
「……あぁ……いたたっ」
 女は顔をしかめながら、茂みから抜け出そうともがいた。意識はあるようだが、腰がはまっているせいで、身動きが取れないらしい。
「少し待ってろ、今行く!」
 下手に動けば、女を支えてる枝が折れて、更に落ちるかも知れない。小十郎は腰の刀と羽織を地面に置き、未だ落ち着かない馬たちを木立に繋いだ後、慎重に土の斜面へと足を踏み出した。