There is no death.

■野良犬の話

 目の前に迫るグローブ、その動きは見えていたし、スピードもない。反射的に避けようとして、
『相棒、そこだ!』
「!」
 イヤホンから突き刺さった声にぎしっと凍り付いた。
 その瞬間、衝撃、眩暈、ぶれた視界はしてやったりという相手の顔や、天井のライト、目の色を変えてわめきたてる観客と目まぐるしく移り変わり――ドッ、とマットに倒れ込んだ時には、ロープの向こうでこちらを見据えるセコンドの男を映し出していた。
 ビール瓶を手にした片目の男は口の端をあげて笑い、唇を動かした。
 立つな。
(何でだよ、おっさん)
 耳鳴りがする。殴られた体よりも、生ぬるい血が流れだす傷よりも……なぜ、と問いかける心の方が痛い。
(あんたは俺に居場所をくれたんじゃなかったのかよ)
 立つな、と男が念を押す。それが無性に悲しく、腹立たしい。
 テンカウントが響き渡り、罵声と歓声で地下闘技場が湧きかえる中、目を閉じた。
 暗闇の中に浮かぶのは、ライトに浮かび上がった白線とバイクのエンジン音だけ。
 いっそこのまま死んでしまえたら、この渇きを癒せるのだろうか――そんなもの、どうでもいい。そう毒づいたのを最後に、意識は闇へ飲まれていった。

■酒飲みの話

 空き瓶がゴロゴロ転がり、飲み干した酒はそろそろ喉元まで上がってきそうだ。
 酔いは深まっていく。頭も淀んでいく。
 久しぶりに懐があたたかくなり、好きなだけ飲めると酒場に腰を落ち着けたは良いが……うまいうまいと楽しめたのは始めだけ、今はほぼ機械的に流し込んでいる状態だ。
(上手くやったじゃなぇか。何が面白くねぇんだ)
 濁った思考で自身に問いかけても、答えはない。あるいは、目をそらしたいのだろうか――自分の指示で、素質のありそうな若いボクサーを、イカサマ賭博に沈めてる事実から。
(……へっ、どうしようもねぇだろ。俺もあいつも、他に行くあてはねぇんだ)
 心中呟いて、酒を煽る。あと少しだ。あと少しで正気を失って、憂さも何もかも分からなくなるだろう。

■物足りない男の話

 コン、とグラスを作業台の上に置く。
 今日のアガリを語っていた黒人の胴元はそれが終わりの合図と察し、残りを手短にまとめて切り上げた。
 では失礼します、と去る間際、ふと思い出したように告げる。
「そういやあの男のサマも、そろそろしまいですかね」
「……あの男?」
 まだ無駄話か、と思いながら問い返せば、男は肩をすくめる。
「ナンブの野郎ですよ。これまで上手い事稼いできましたが、客が警戒し始めてるし、相棒のアンダードッグがやめるって言い出したそうじゃないですか。
 ウチじゃ、続けるのはもう無理でしょう」
「さぁな、アフターサービスの義理はない。死にたくなきゃ、どうにかするだろうさ。……話はそれだけか」
 言外に帰れと促せば、男はヘコヘコ頭を下げて厨房から出て行った。
 空のグラスに酒を注ぎ、手に取る。
 口を付けて、舌先にピリリと辛味がきく濃厚な味を楽しみながら、彼は目を細めた。
(あんたの手腕、もう少し見せてもらいたいもんだがね)
 借金という沼に足をとられ、あの男は少しずつ沈み続けている。
 その様を高みの見物で楽しむのも悪くないが、もう終わってしまってはつまらない。
 あの男には首尾よく新しいカモを見つけてもらって、せいぜい足掻いてほしいものだ。

 

■ねずみの話

 夜も更け、人通りもなくなった通りを行く。
 認可地区のように監視カメラがあるわけではないが、人目につかないにこした事はない。影から影へ、ねずみのように素早く――とはいかなかった。
「待ってよ、サンタぁ」
「名前呼ぶんじゃねぇよ、さっさとこいっ」
 自分の後ろについてくる仲間たちがどうにも静寂を保てないからだ。
 それに苦笑しながらも嫌な気がしないのは、今まで一人だった孤独を癒されているからだろうか。
「――あれだ」
 目指す獲物を見つけて呟くと、一番小柄な仲間がどれどれ、と自分の脇から前を見透かす。ひゅーと口笛を吹いた。
「あれギアじゃん。あんな高そうなもん、ほんとに盗れるのか?」
「ああ、いけるさ。大した戸締まりもしてないしな」
 自信満々に告げて、端末を取り出す。
 昼間のうちにあの店のセキュリティはチェック済みだ。さすがにゴスキノよりはまっとうな作りとはいえ、楽勝でとける。
「ギアを売っ払えばうまくすりゃ、半年は食いつなげるぜ」
「あれに目つけたって聞いた時は正気かと思ったけど、お前なら大丈夫だよな。頼りにしてるぜ」
 ぽん、と肩を叩かれると嬉しくなる。うなずき、共に影を走った。
 店の前までたどり着き、ドアの施錠をはずすためにプログラムを起動。
 立ち上げを待つ間、ショーウィンドウに飾られたそれ――マネキンが着込んだ、メガロボクス専用ギアを見上げる。
 一般的なギアとは一線を画す、限りなく人体に沿った設計。オレンジのカラーリングのなされたそれは、まるで周囲を睥睨しているように見えて、どうにもカンにさわる。
(お高く止まりやがって……白都め)
 最初に見た時から気にくわなかったのだ。  あの天をつくような自社ビルのように、このギアも、お前とは別世界の存在だと告げているようで――お前の父親のように、お前のように、せせこましくいきる貧乏人とは違うのだと、見下しているようで。
(見てろよ、今引きずり下ろしてやる)
 ガキっぽい復讐心だという自覚はあったが、やらずにはいられない。
 そこでようやく準備が整ったので、端末を扉にかざせば、あっさり鍵は外れた。
 彼は仲間と共に、店内へとそっと忍び入る。そのギアがやがて、運命の出会いを生み出すとも知らずに。

■何かを目指す男の話

 朝、目覚めてロードワークへ出る。
 数キロから十数キロを走り、ジムへ行き、汗を流して朝食。コーチと話し合いながら、筋トレとスパーリングをこなす。夜も走って家へ帰り、ベッドへ倒れ込み、眠る。
 ――昔も今も、メガロボクサーとしての一日の流れはそう変わりない。
 変わったと言えば、メニューの質がより良く、深くなったのと、起床後や就寝時に義足のつけ外しが加わった事か。
(ここまで、来た)
 メガロニアの開催が発表されたその日。鏡に映った自分を見つめて思う。
 以前よりもシャープになった輪郭、黒ずんだ肌、その上に刻まれた大きな火傷跡、そして昏く沈んだ目。
 己の力が発揮できる事を純粋に喜んでいた昔とは明らかに人相が変わってしまった。
 改めてそれを実感し、いっそう残酷な時の流れを感じる。洗面台を掴んだ手に、力がこもった。
(……あと少しだ)
 メガロボクスランキング十七位までかけ上って、三年。
 いつドクターストップがかかってもおかしくない体を抱えて、ここまで来た。
 トップを射程に捉え、自身を鼓舞しても、昔のように心からの喜びがこみあげる事はない。
 次も、その次もまた、相手を打倒するだけの試合が待っている――そう思うと、心は沈み、目は淀んだままだった。

■夢を見る男の話

 耳障りなアラートが鳴り響き、
『限界値です。これ以上の稼働は使用者の生命維持に関わります――』
 女の声に似た合成音が警告をしてくる。それを無視して、きしむ腕を持ち上げて拳を突き出す。
『シンクロ率は限界値です。これ以上の稼働は』
「うるさい!」
 しつこい声はささくれだった神経に突き刺さる。
 怒声を上げて遮った時、不意に壁面のパネルが赤に染まり、ビープ音を鳴らした。
 途端、身にまとったギアの重みがずしりとまともにかかり、思わず膝をつく。歯を食いしばって顔を上げれば、端末は複数回点滅し、不意にブラックアウト。
 同時にギアのどこからか、焦げ付いた臭いが漂った。
(ちっ。熱暴走でショートしたか)
 無理に無理を強いたのがまずかったらしい。
 自ら実験台となって進めている開発はこのところ暗礁に乗り上げていて、こんな事ばかりだ。
 舌打ちして床に座り込み、慎重にギアを外した。重たいそれをごとん、と外せば、羽が生えたかと思うくらい上半身が軽くなり、同時にAIの命じるまま動かした筋肉がびきびきと音を立てた。
(くそ……早く、こいつを形にしないといけないのに)
 気持ちばかり逸る。社運をかけた開発プロジェクト二つのうちの一つ、人工知能を用いたギア。
 その有用性を彼は誰よりも理解しているのに、皆はそんな事出来るはずもないと首を振る――同時に、あの女の一体型ギアこそ素晴らしいと手をこすり合わせながら。
(……見ていろ。今に、証明してやる。どっちが本物かって事を、このギアでな)
 彼の闘争心を示すような赤で彩られたギアに触れ、彼は目を険しくした。
 その眼差しはギアではなく、社長の座を奪い取った妹の幻を見つめている。

■夢を見る女の話

「――お兄様!」
 自分の声に驚いて目が覚めた。勢いよく起き上がると、寝汗が闇の中にぱっと飛び散る。
「はっ……はっ、は……」
 そのまま跳ねる鼓動に息を切らして、しばらく。
 凍り付いていたからだが少しずつ緩んで、肩が落ちると同時に吐息を大きく漏らした。
(……夢を見ていたのかしら)
 濡れた額を拭い、乾いた喉に触れる。
 どんな夢だったか、思い返しても分からない。ただ、兄を呼んだ事だけ自覚していたから、眉を顰める。
(今更、どうしてお兄様の夢なんて)
 白都の後継者問題で仲たがいした兄との関係は、新型ギア開発プロジェクトの対立で完全に冷え切っている。
 顔を合わせても必要最低限の会話しかしない兄を、あんなに切羽詰まった声で呼ぶような夢を見るなんて――仕事のし過ぎで、疲れているのだろうか。
(……内容を覚えていないのなら、きっと大したものではないわ)
 時計を見れば、起床時間まで一時間もない。それなら起きてしまおう。
(今日はスタジアムの建設現場を見に行くし、ぼうっとしていられない)
 汗で頬に張り付いた髪を払い、掛布をよけてベッドを降りた。夢の残滓に振り回されていい時間など、自分にはない。

■絶対王者の話

 ガウンを羽織り、ベンチに座って時を待つ。
 試合前の控室には自分一人だけ。彼の集中を乱さないため、セコンドは皆、出払うのが常だ。
 耳が痛くなるほどの静寂の中、足の間で組んだ自分の手を見下ろす。
 長年メガロボクスを続けてきた結果、手は大きく、固く厚くなった。
 その昔、ただの野良犬だった時とは明らかに異なる、鍛え上げた鋼の手を目にして――ふと、自分でも気づかない内に遠い場所へ来てしまったような気がした。
(……俺は今、何を目指している)
 あの頃は自分が立つべきリングを求めて、がむしゃらに走り続けていた。初めて得た自分の居場所が心地よくて、鍛えた成果を試合の勝利で得られる事が嬉しくて、何もかも新鮮だった。
 だが今、自分は誰にともなく無敗のチャンピオンともてはやされ、試合はトレーニングで想定した通りの結果で終わるようになっている。
 まるであらかじめ決められた道をひたすら進んでいるような感覚を覚えて、時折困惑してしまう。
(俺は闇から抜け出したつもりで、光の中で目が眩んでいるんだろうか)
 そんな事を思った時、ゴンゴン、と扉が叩かれた。音もなく立ち上がり、そちらへ向かう。
 時間だ。どうあれ今は、自分の成すべきことを成すしかない。

■早朝

 車椅子を動かしてリビングに出ると、庭に面した窓から差し込む朝日に目がくらんだ。
 少し瞬きをした後、車輪を回して窓へ向き直る。
 明けたばかりで、夜は空から速やかに消え去り、のぼり始めた太陽が周囲を紫から鮮やかな光に塗り替えている。
(……綺麗だな)
 それを目にしてふと思う。毎朝同じことを新鮮に感じるのは、以前と違う自分になったからだろうか。
「!」
 不意に手の下に温もりを感じて視線を向けると、目を覚ました犬が自分から頭をすり寄せてきていた。猫がごろごろと喉を鳴らすような表情に少し笑い、
「もう目が覚めたのか?」
 そう呟き、毛におおわれた頭を優しく撫でる。
 サチオが訪ねてくる時間には、十分すぎるほど早い。
 起き出してきたのは習慣からか、あるいは自分でも思っていたより、あの少年の訪問を、彼から番外地の様子を聞くのを楽しみにしているのだろうか。
(まるで子どもだな)
 苦笑して、窓を開ける。
 さっと風が吹き込み、それへ立ち向かうように庭へ犬が飛び出していくのを見送って、体の向きを変えた。まずは朝食を食べようか。

■朝

「――何だ。お前は番外地のパーティに行かないのか?」
 コーヒーを片手に呼びかけると、テレビ電話の画面向こうで彼の妹が、あちらはティーカップを口に運びつつ答える。
『あいにく時間が取れませんので。祝電とお花は贈りました』
「そこは抜かりなしか」
 さすがと笑う彼に、朝本さんが手配してくれましたからと彼女は肩をすくめた。
『お兄様こそ、いかないのですか。招かれはしたのでしょう?』
 水を向けられて、そうだなと頬をかく。
「行ってもよかったんだが……何となく、な」
『……メガロニアの事をまだ、気にしてるんですか』
 柔らかい声で問われると、ごまかしもきかない。今度が自分が肩をすくめる番だ。
「謝る機会を逸してしまったからな。これを機にと思わなくもなかったが……祝いの席でするような話でもないだろう」
『彼らはそんな気遣い、必要としないと思いますが』
 そうかもしれない。改めて顔を合わせにくいと思うのは、自分が気まずいからだ。
 それを正面から指摘されて痛いところをつかれたので、
「お前こそ、勇利とちゃんと会って話せる良いチャンスだろ?」
 仕返しをすると、妹はウッと息を飲んだ。それは、と困って言葉に詰まる表情は昔のそれと同じで、つい笑ってしまった。
 きっとさっきの自分も似た顔をしていたことだろう。全く、お互い不器用なことだ。

■昼

「踏み込みが浅い、もっと前に出ろ!」
「はいっ!」
 指示に従った練習生のパンチがミットに深く突き刺さる。会心の出来に思わず笑みを浮かべた時、アラガキ、と声をかけられた。
 リングの下に歩み寄ってきたミヤギがこちらを見上げ、
「これから番外地に持っていく差し入れを買いに行くが、来るか」
「! ああ、行く。悪い、代わってくれ」
 ミットを他の仲間に預け、ロープをくぐって降りようとしたら、ミヤギが口の端を上げた。
「うきうきしすぎだ、アラガキ。頬が緩んでるぞ」
「そ、そうか?」
 意識していなかったので顔に手を当てると、ミヤギは珍しいほど笑みを深めた。
「まるで犬だな。ぶんぶん尻尾をふってるのが目に見える」
「それは言い過ぎじゃないか……恥ずかしくなってくる」
 傍目に見たらそんなにか。いい年した男がはしゃぎすぎかと気恥ずかしさに呻くと、義手でぽん、と背中を叩かれた。
「久しぶりに顔を出すからな。俺も楽しみだよ」
「……ああ。そうだな」
 前回は子どもたちのスパーリングにかかりきりで、南部やジョーとはあまり話せなかった。
 今日は酒を交えて、じっくり語り合おう――そう思うと、確かに顔が自然と笑ってしまうな。

午後

 あと少しでパーティが始まるというのに、垂れ幕の一部が外れて、天井からだらりと下がっているのを見つけた。
 これはまずいと慌てて、リング上に椅子を置いて立ち、手を伸ばす――も、
「うっ……くっ、と、とどか、ねぇっ!」
 画鋲で天井にとめようと、精一杯背伸びをしても、どうしても届かない。数分奮闘した結果、行儀は悪いが机の上に椅子を置くか、椅子を重ねるかと検討し始めたところで、
「サチオ、なにやってんだ。落ちるぞ」
「わっ、ジョー」
 不意に後ろからやってきたジョーが、一目で状況を理解したらしく、貸してみなと自分の手から画鋲を取った。椅子に乗って、垂れ幕を難なく天井に留める。
「ほら、終わったぜ。あぶねぇから、次はひとを呼べよ」
 ぽん、と頭を軽く叩いたジョーは、壁にかけたバイクのキーを取り、さっさと出ていく。
 そういえば虻八商店にいくといっていたっけ、とその後ろ姿を見送ったあと、椅子と天井を交互にみやった。
「……ちえっ」
 小さく舌打ちする。
 まだガキの自分じゃ、できないことがある。悔しいけど、仕方ない。
 でも見てろよ、いずれジョーの背丈追い抜いてやるんだからな。

深夜

 番外地ジムの一周年記念パーティは何の滞りもなく、大盛況で幕を閉じた。
 懸念していた挨拶のスピーチも、途中で舌を噛む失敗はあったにしても、おおむね上手い事やって拍手喝采。
 後は皆と酒を酌み交わし、飲めや歌えや踊れやの大騒ぎ。楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、とっぷり更けた夜、お開きとなった。
「……ったく、浮かれすぎだぜ、おっさん。最近控えてたくせに、一気に飲みすぎなんだよ」
「うるせっ、今日飲まずにいつ飲むってんだ? おめぇも、もっと付き合えよ」
 体を支えられながら寝床へ向かう最中に説教をされるから、何を生意気なと拳を突き上げる。いい加減にしておけよ、とジョーのため息が聞こえた。
「俺ぁもう十分だ。大体そんな千鳥足で、一人で歩けもしねぇんだから、大人しく寝ろよ。
 ガキどもはもう眠ってんだしよ」
「ガキと一緒にすんじゃねぇっ。ふん、こんな楽しい酒は一年ぶりなんだ。
 余韻に浸りてぇ男の気持ちが、おめぇにゃわからねぇのかよ」
 一年経っても無粋な奴め、とジョーの背中を叩くと、再度ため息。よろよろと階段を登り切ったところで、良いからと寝室へ押し出された。
「余韻なら寝床でたっぷり味わいな。そんだけ上機嫌なら、いい夢見るだろ、ほら」
「お、とっとっ!」
 急に支えを失い、怪しげな足取りで数歩進んだところでマットレスにぶつかり、不恰好に倒れ込んだ。
 幸い子ども達を下敷きにするような事はなかったようで、ずしりと体が沈み込むのが分かる。ジョー、と名前を呼んだが、
「おやすみ、おっさん」
 笑いを含んだ声を最後に扉が閉められ、瞼の向こうで灯りが見えなくなった。
(ちっ、つまらねぇ奴だな)
 毒づく心中とは裏腹に、気分は高揚して笑みが自然と口の端に上る。ふーん、と酒臭い息を吐き、寝床に頭を預ける。
 先に寝ていたサチオが「おっちゃん、くさい!」と呟くのが聞こえたが、そうかそうかと笑ってその温もりを腕の中に抱きこんだ。
 ジョーの言う通り、今日はひと際いい夢が見られそうだ。

■深夜

 酔っぱらった南部を寝床に送り込み、人気の失せたジムの中をふらりと歩いて、外へ出る。空き地を横切って土手の上に立てば、ひゅう、と川風に髪を煽られた。
(良い風だ。……ちっと飲みすぎたな)
 火照った頬を撫でるやんわりとした冷たさが気持ちいい。川に入るか、バイクをかっ飛ばしてもいいかと頭をかすめたが、酔いで少し目が回る。
 下手したら事故りそうだからやめておこうと考え直し、ただそこに立った。
 夜の闇に覆われた世界は静かだ。さっきまで大勢の人でにぎわっていた空き地も今はしんと静まり返っていて、どことなく寂しげに映る。
 前方へ目を向ければ、暗闇に沈んだ川面は、認可地区へ近づくにつれ、夜はこれからだというように煌々と照るネオンを映し出して、生き物のようにぬめりながら光を反射している。
(……夢みてぇだな)
 一年前、自分はあちらの世界に殴り込みをかけた。
 一生暗闇であがき続けるだけだと諦め、どうせ手に入らないのだからと、憧れる事さえなかった光の中へ突き進んでいき、その頂点をもぎとって……今はまた、暗闇の中へ戻っている。
(でも、何にも見えないわけじゃねぇ)
 手を前に差し出せば、空に照る月の明かりがその輪郭を浮かび上がらせる。
 何も見えないわけじゃない。
 暗闇の中でも、そこには確かなものが存在していると、一年と三か月かけてようやく理解した。
「悪かねぇな」
 ぐ、と拳を握る。その手でもぎ取った今を思い、一人で笑った。
 あの全てを燃やし尽くすような闘いを潜り抜けた後、自分の中で燻っていた焦燥感は跡形もなく消えていた。
 そう、悪くない。今の平々凡々とした暮らしを、悪くないと思える事が、何となく、嬉しい。
「俺も寝るか」
 もう一度吹いてきた川の風に促されるように、踵を返す。
 明日は二日酔いで不機嫌になる南部や、はしゃぎすぎて寝坊してくるだろうサチオより早く起きて、朝食を作ってやるとしよう。
 もう目玉焼きを焦がすような失敗はしなくなったのだから、きっと文句だって出ないはずだ。

There will be but another world.
(死は存在しない。生きる世界が変わるだけだ)

■前日

 スーツを着込み、親父との食事を終え、車へ乗り込む。
 音もなく走り出した車内のテレビをつけてからネクタイを緩めると、
『一年前のメガロニア以降、プロモート業務から退いたとの報道もあった白都コンツェルンですが、本日、主催者である白都社長が第二回メガロニアの開催を宣言しました……』
「……メガロニアか」
 耳に飛び込んできたニュースに目を向ければ、白都ゆき子が大きく映し出され、画面にテロップが大仰に踊っている。
 さて、と座席に深く座った。
 国際大会たるメガロニアは大きなシノギのチャンスだ。メガロボクス自体、前回大会で大きく知名度を上げ、選手人口も増えてすそ野を広げつつある。
 ブックメーカーもこの発表に落ち着きをなくしている事だろうし、そうと決まれば自分も動かねばならない。
(あの時の失態を、一年かけて取り戻した。同じことは繰り返せねぇからな)
 手堅く、悪名高く、計算高い。
 そう評される自分はあの時、手ひどい失敗をした。一時期はかなり立場を悪くしたが、それも今は持ち直している。今度はもっと確実な方法で稼ぐ手段を見つけなければ。
 そう思いながら、ふと気づいた。
(あれはもう、一年前か)
 手ひどい失敗。それは、メガロニアを舞台にした八百長を見事にしくじり、大金をすって各方面の信頼を損ねたことを意味する。
 だが他方――自分の掌でせせこましく這いずっていた男に、これ以上ないと言うほどのしっぺ返しを食らったあれも、大失敗だった。
(……ふ。忘れたと思ってたがな)
 この一年、他に取り紛れてあんな連中の事など、すっかり忘却の彼方だったが……メガロニアときけば、らしくもなく胸の奥が疼いた。
「笑わせやがる」
 誰にともなく呟いて、懐から煙草を取りだす。
 これから先、すっかり忘れることなんて出来ないのかもしれねぇなと考える自分が、どうにも滑稽に思えてならなかった。

2019/4/6 放送1周年によせて。