sear/bite

searing pain

 久しぶりに手にしたギアはずしりと重い。こんなに重かったか、と驚いて持ち直し、見下ろした。
 グリーンのカラーリング。その色に紛れて分かりにくいが、積み重ねた練習と試合の跡は確かに存在し、全てと言わずともいつ、どんな時についたものなのか、未だ記憶に残っていた。
(……遠い昔の事のようだ)
 自分がこれを着てリングに立っていたころから、時は経っている。だが、実際よりも、もっと多くの時間が過ぎ去ってしまったかのように思えて、少し眩暈すらした。
(色々あった。色々、変わってしまった)
 ギアをベッドに置き、隣に腰掛け、視線をさげる。かつて、当然のようにそこにあった足は、ない。代わりに金属フレームの義足が膝から下にぶらさがっている。
 鏡を見なくとも、自分の体には無残な傷跡が刻み付けられているのも、知っている。
 そして彼はもう、南部ジムの人間ではない。退役軍人会の選手として、メガロボクスの公式戦に出ようとしている。
(南部さん。……あなたも、変わってしまいましたか)
 ギアに触れようとして、寸でで止まる。ぐ、と拳を作った。
(これを捨てて、新しいギアを身に着ける俺を、許してくれますか)
 目が熱い。瞬きをして熱を散らそうとした一瞬、瞼の裏に蝶の残像が見えたように思えて、息を飲んだ。
 ――許しを請う必要などない。先に裏切ったのは、あちらなのだから。
 黒い塊が喉に詰まる。息苦しい。拳を自分の膝に、固く無骨な金属の膝に乗せ、がん、と叩きつける。痛みを覚えるのは手の方だけだ。
(許してくれ。もう、たくさんだ)
 誰に何の許しを希っているのか、分からない。分からないまま、アラガキは顔を覆い、低く呻いた。かつての自分の存在を、隣にひしひしと感じながら。

biting pain

 その痛みを、自分は知っている。

 目が見えない。右目はえぐり取られたようにズキズキと痛み、一寸の光すら差さない。
 ――残念ながら、もう選手としての復帰は絶望的で――
 ――これからって時だったのに――
 ――あまり落ち込むなよ、南部。命があっただけめっけもんだと――
『うるせぇ、勝手な事をぬかすな!』
 彼を慰め、宥めようとする連中に怒鳴り、物を投げつけ、一人になった病室で声を抑える事もなく号泣する。その涙も枯れ果て、声も出なくなった頃にようやく顔を上げた時、彼は一つ残った目を見開く。
 誰もいないはずの病室、そこに一人の男が立っている。
 三十がらみの体格のいい男。顔に大きな傷跡が描かれたその男は――足がない。膝から下が無いのに、そこに立っている。
『な……何だてめぇは』
 誰何する声がみっともなく震える。幽霊なんて信じた事はなく、男にも見覚えがない。足がないのならすでに死者か、彼を地獄へ誘い出す悪魔の類か。そんなことまで考えた時、男は口を開き、
『……こうなったのはあんたのせいだ。南部さん』

「――っ!!!!」
 心臓が大きく跳ねた勢いで、ばちっと目が覚めた。
 視界は暗い。だが病院でない事はすぐわかった。部屋の天井は低く、窓の外からは小さく波音が聞こえ、自分以外の人間の寝息も耳に入ってくる。
 ここはぼろ船の仮宿。今の彼は選手ではなく、名トレーナーでもなく、借金に追われるただの犬――はったりとイカサマでその場をしのぐ男、南部贋作だ。
(……夢か)
 息をついて額を拭えば、嫌な汗でべっとり濡れている。むくりと起き上がったのは一杯酒でもひっかけるかと思ったからだ。
 だが、そういえば全部川に放り込んでしまった。南部は舌打ちし、顔に手を当てる……己の右目を覆う、眼帯に。
(……アラガキ)
 体の一部を失う悲痛を、自分は知っている。その苦しみを理解できて、なおかつ元教え子を襲った悲劇の原因が己にあるのではと、寝る前に考えていたのが、そのまま夢になってしまったらしい。
(…………アラガキ)
 何も言葉にならない。ジョーやサチオが深い寝息を立てて眠る中、南部は一人歯を食いしばり、後悔が心臓を食い破る痛みに耐えていた。