暖かな日差しが色硝子の窓を通して、木製のテーブルの上で揺れている。
穏やかな午後の時間。バイオリンの音色も心地よいクラシックが流れる喫茶店は、コーヒーや紅茶の豊かな香りと柔らかい談笑に満たされ、誰もがアフタヌーンティーを満喫していた。のだが――
店の一番奥まったテーブルに座したアラガキはリラックスするどころか、がちがちに緊張している。
「……ふん。こいつがアラガキか。写真で見ちゃいたが、ずいぶんなご面相だな」
その自分に鼻を鳴らしたのは、向かいに座った老人だった。
杖に両手を乗せ、背中の曲がった小柄な男だが、しわに埋もれた目は鷹のように鋭い。声もはきはきと明瞭で、老体とは思えない声量に圧倒されてしまう。
(ファルは優しい人と言ってたが……見るからに頑固おやじだな)
彼女の人物評は、評価者の優しい感性によるものだから、ある意味あてにならない。
人の悪口を言わない彼女にかかれば、この気難し気な男も、天使のようと表現されてしまうのでは、と危惧する。
もっとも、男がファルになした行いは間違いなく善行だ。そう思いながら隣に視線を送れば、彼女もまた緊張した面持ちで老人に向き合っていた。
(恩人に紹介したいと連れてきてくれたんだ。俺がしっかりしないと)
それを見て気合を入れなおしたアラガキは、ぐっと背筋を伸ばした。ともあれ、まずは挨拶だ。
「……初めまして。タツミ・レナード・アラガキと申します。あなたのお話は、ファルさんからいつも聞い――」
「ファル、お前は向こうにいっとれ」
不意にアラガキの台詞を遮り、老人は杖で離れた席を示した。
「え? でも、おじいちゃん」
「でももへちまもない、とっとと行け! わしはこいつとサシで話をしたいんじゃ」
「サシって……わたし、アラガキを紹介したくて……」
困ったように身じろぎするファルを見かね、アラガキは彼女の腕にそっと触れた。
「ファル。少しだけ、二人にしてくれ」
「いいの? アラガキ」
眉を八の字にして見上げられたので、頼もしく見えればいいと思いながら笑いかける。
「ああ、大丈夫だ。いってくれ」
「……うん。わかった」
こくん、と頷き、ファルは席を立った。
ふわりと髪とスカートの裾をなびかせて、指定のテーブルへ移動していくのを目で追っていたら、
「やにさがりよって、みっともない奴じゃな」
いきなり侮蔑が飛んできたので、ギクッと顔を正面に戻した。
鷹の目を半眼にして、老人はアラガキを見据えている。
「し、失礼しま……」
した、という語尾に、
「お前。ファルと寝たか」
「なっ」
あからさますぎる問いが唐突に被ったので、カッと目を見開いてしまった。
言葉に詰まると同時に、頭に熱が即座に上ってくる。みっともないくらい赤くなっている顔を目にした老人は、ひときわ大きく鼻を鳴らした。
「少し目を離すとこれだ、油断も隙も無い。店をやる時、男には気をつけろと言ったのに、まんまと引っ掛かりおって」
「う……」
あっさり看破され、羞恥で体が縮こまりそうになった。しかしアラガキは熱を払うように頭をふり、せめて表情だけでもまともに見えればと顔を引き締めて見つめ返す。
「俺は、ファルと真面目に交際をしています。軽い気持ちで弄ぶような真似はしていません」
「やかましい、口ではどうとでもいえるわ」
「っ」
老人がぴしゃりとはねつけるので、つい軽くのけぞってしまった。そのすきを狙うように相手は言い募る。
「ファルは底なしのお人よしじゃからな。相手がどんなロクデナシだろうと、優しいだのいい人だの言いよる。
中でもお前の事は、耳にたこが出来るほど聞かされたわ。
やれすごく優しい、一緒にいると安心する、笑顔が好きだの、やくたいもない」
「は、はぁ……」
他人の口から、ファルの好意を聞かされるのはこんなに照れるものか。狼狽えて思わず視線を彷徨わせてしまう。
老人はコーヒーをすすり、続ける。
「お前も知っとるだろうが、あの女はろくな人生を送っとらん。生まれてこの方、幸せなんてものから縁遠い生き方をしてきた。
虐げられるのが当たり前、搾り取られるのが当たり前。
己の体を好きなように弄ばれるような生き方を、諾々と受け入れてきた奴なら、ちょいと親切にすればころりといくのは火を見るより明らかだろうて」
「……」
アラガキは膝の上で拳を握った。
老人が言わんとしている事は分かる。
口こそ悪いが彼はファルを心配し、彼女の恋人として紹介されたのが足を失った傷痍軍人では、先行きを危ぶんでしかるべきだろう。その気持ちは理解出来た――だが、だからこそ。
「……ご心配はごもっともです」
アラガキは視線を上げ、男の鋭い眼差しを真っ向から受け止めた。
値踏みする強い光に負けまいと眉間に力をこめ、
「ファルは優しすぎる。あなたの言う通り、大抵の人間も彼女にかかれば善人と称されてしまうでしょう。
その優しさに付け込んで騙されていないかと、心配するのは当然です。
……お聞きになっているか分かりませんが。
俺はかつて軍人として海外派兵へ赴き、地獄のような戦場を経験しました。
その結果両足を失い、帰国してからも一人だった。自分には何も残されていないと絶望し、自殺すら考えました」
老人は口をつぐみ、目を眇めた。はねつけず、話を聞いてくれている事に励まされて、先を続ける。
「そんな俺に、ファルは何も言わず、寄り添ってくれた。
彼女は俺に助けられたと言いますが、逆です。
俺が、ファルに助けられた。
悪夢にうなされ、不幸なわが身に酔いしれて嘆くだけだった俺を、ファルが助けてくれたんです」
ふ、と少し視線を横向けると、向こう側のテーブルでこちらの様子を窺うファルが見えた。
心配そうにそわそわしている様も愛らしくて、思わず頬が緩む。
「俺にとってファルは、救いです。もう二度と失いたくない光です。
俺はこの通り、足がなく、地位も名誉も金もない。彼女にしてやれる事はそう多くないかもしれない。
けれど出来る限りを尽くして、彼女を幸せにしたい――心から、そう思ってる。
俺が今日ここにいるのは、ファルを地獄から救い出してくれたあなたに、それを伝えたかったからです」
「…………ふん」
かちゃん、とカップがソーサーに戻される。コーヒーを飲み干した老人は、そっぽを向いた。
「元軍人というから脳まで筋肉と性欲にまみれた奴かと思ったが、少しはまともな事を喋れるようじゃな」
「は」
「……まぁ、いいじゃろ。ファルと付き合うなら、好きにせぇ」
「! い、良いんですか」
てっきりもっとこじれると思ったのに。つい身を乗り出すと、老人は顔をしかめた。
「見苦しい顔を近づけるんじゃないっ。
……元娼婦と知っていいように使いまわすような奴でなければ、男関係にまでいちいち口を出す気はない。
わしがいつまでもあいつの面倒を見れるとも限らんしな、そろそろ連れ合いがいてもいいじゃろ」
「え? ……お体が、悪いんですか」
「この年になればあちこちな。憎まれっ子世に憚ってきたが、いい加減、長い事もないじゃろ」
淡々としてはいるが、急に弱気な事を言い出すので、アラガキは目を丸くしてしまった。
確かに一見して、老人はかなりの高齢だ。
かくしゃくとしているが、ファルと共に何十年と、というのは難しいだろう。思わずアラガキは首を振った。
「そんな事を言わないでください。ファルはあなたを本当の家族のようだと言っていました。
あなたがいなくなってしまったら、とても悲しみます」
「……お前にそんな事まで言っとったか、あいつは」
ぼそっと老人が呟く。そしてしばらくじっとコーヒーカップを見つめた後、顔を上げ、
「ファル! こっちに来い!」
向こう側のテーブルへ思い切り声を張った。
無沙汰に足をふらふらさせていたファルは慌ててこちらへやってきて、
「おじいちゃん、アラガキ。おはなし、終わった?」
小首を傾げる彼女へ、老人は鷹揚に頷く。そして、入れ替わるようにソファから滑り下りた。
「わしはもう帰る。ここはおごってやるから、好きなもんを食え」
「もう? おじいちゃん。ひさしぶりにたくさん、お話できるとおもったのに」
「お前らと違ってわしは忙しいんじゃ。女の無駄なおしゃべりなんぞ、そいつに浴びせておけ。
……じゃあな、アラガキ」
「! はい、今日はありがとうございました。あなたにお会いして、お話が聞けて、とても嬉しかったです。またこういうお時間を頂きたいです」
初めて名前を呼ばれた! ばっと立って頭を下げると、老人は口の端を皮肉げに持ち上げた。
「暇が出来たら、その時には付き合ってやらんこともない」
そういって老人はレシートをひったくり、杖を鳴らしてさっさと店を出て行ってしまった。
……嵐のような人だと見送ってから、アラガキは腰を下ろし、息を吐き出した。向かいに座ったファルへ苦笑いを浮かべてしまう。
「迫力のある人だったな。最初から最後まで、圧倒されっぱなしだ」
「どんなお話をしたの?」
「どんな……といわれると……そうだな」
老人が最後に吐露した先行きの不安は伝えるべきではないだろう。少し考えたアラガキはふっと笑って、
「あの人はお前をとても大事に思ってるんだな。ファルの言う通り、優しい人だったよ」
そう告げた。それだけで話の全てが伝わるはずもないが、ファルは軽く目を瞬き――それからふわりと花のほころぶような笑みを浮かべて、
「うん、おじいちゃん、やさしいの。
……おじいちゃんにアラガキを、アラガキにおじいちゃんを紹介できて、わたしうれしい」
アラガキの手に自分の手をそっと重ねてきた。
それを握り返し、心和む温もりを包み込みながら、ふと思う。
(あの人もこの暖かさに癒されたから、ファルに手を差し伸べたんだろうか)
辛辣で頑固そうな老人があまりにもあっけなく交際を認めてくれたのは、自分の話が少しでも琴線に触れたからでは、などと思う。言葉こそ荒っぽくても、彼には間違いなくファルへの思いやりがあった。
(……あの人にとっても、救いなのかもな)
老人も自分も、ファルという女性との出会いによって人生が変わったのかもしれない。
まるで奇跡のような出会いと幸せを思い、アラガキは改めてその尊さを深くかみしめたのだった。