gentle time

 久しぶりに飲もう、とアラガキを街に連れ出し、適当な店に入って昔話に花を咲かせた。
 以前は自分を真似て痛飲しようとして、撃沈していた元教え子は、軍隊生活でずいぶん鍛えられたらしい。複数件はしごをしても、まだケロッとしている。
「そろそろ帰りましょう、南部さん。ジョー達が心配しますよ」
 こちらの足取りがおぼつかないのを心配した様子で、体を支えてくるアラガキの背中を、うるせぇっと上機嫌で叩く。
「まだ宵の口じゃねぇか、俺はイケるぞ。
 アラガキ、次はお前が店を選んでくれ。いきつけはねぇのかよ」
 問いかけると、アラガキは苦笑して、
「じゃあ、次で終わりにしましょう。こっちです」
 そう答えた。
(おっ、この堅物に常連の店があるのか)
 意外に思いながらついていくと、どうやらそこは繁華街の端、住宅地にもほど近い閑静な場所に建つビルの、地下に潜る店のようだった。
 狭い階段を、手すりと杖、そしてアラガキの声を頼りに降りていく。
 ごつごつとした取っ手を押して、扉を開ければ、ふわりと柔らかい風が頬を撫でた。
(広くはなさそうだな)
 音の響きからして、入口と同じく店内は狭そうだ。
 恐らくカウンターしかない、小さな店なのだろう。
 手を伸ばせばすぐ壁に行き当たり、もう一方はといえば、ぬくもりを感じられるような、木肌の感触も鮮やかなカウンターが触れる。
 さほど奥行きもなさそうな店内に人の気配はなく、客は自分たちだけのようだ。
(ほう。こりゃいいな)
 店の作りはこじんまりとしているが、スツールに腰掛けた南部は内心唸った。先ほど触ったカウンターを撫でてみると、塵一つなく、手触りは吸い付くようだ。これは良い木を使っている、と素人でも分かる。
(今日は冷え込むってのに、こんな狭い店で暑くもなく、寒くもなく、湿気も適度、臭いもしねぇ。……ふーむ)
「良い店じゃねぇか、アラガキ」
 自分の隣に座った気配に手を伸ばして軽く叩くと、相手は小さく笑った。
「分かりますか」
「そりゃな、こちとら酒場のプロだ。いい店は見えなくとも、肌で感じられるさ。
 お前がこんな洒落たところを知ってるとはなぁ。自力で見つけたにしちゃ、上出来だ」
「自力ではないですよ。知り合いが働いてるんです。――ファル、南部さんだ」
 不意の呼びかけは、カウンター向こうで静かにたたずむ相手へのものだ。そこでようやく気配が動いて、
「はい。……初めまして、いらっしゃいませ。お噂は、かねがね伺っています」
 発した声が女のそれだったので、南部は内心、おう、と呻く心地がした。
「女マスターか、驚いた。ここはあんたの店かい」
 問いかけると、鈴を振るような柔らかい、かすかな笑い声が耳をくすぐる。
「いいえ、私はただの雇われです。オーナーが優しい方で、任せて頂いていますが」
「そうかい。なるほどな、アラガキが通う訳だ」
「どういう意味ですか、南部さん」
 そりゃおめぇ、とニヤニヤしながら、隣を肘で小突く。
「良い雰囲気の店にいい女がいるとなりゃ、目当てにもするだろ。色気一つねぇ奴だと思ってたが、案外すみにおけねぇな」
「それは違います、よしてください。彼女とはただの友人ですよ」
 息を飲んだ後、アラガキが慌てた様子で否定してきた。だが、それも分かりやすい常套句だ。
 そうかそうか、と一人で合点して、南部はアラガキの否定を適当にいなした。足を組み、彼女がいる方角へ顔を向ける。
「それで――ファルさんか。俺の自己紹介はいらなそうだが、こいつとは長い付き合いなのか」
 少しの間を置いた後、いいえ、と穏やかな返事がかえってくる。
「ずっと昔に知り合って、離れて、再会したのは最近です」
「ふーん、そうか」
 それならまだ、良いところまでは行っていないのかもしれない。
 何しろこの堅物だ、ちょっとくらい雰囲気が盛り上がったところで、無駄に自制しかねないだろう。
 もったいない、声の調子や、客の注意を無駄にひきつけない、空気に溶け込むような優しい気配は、どう考えてもいい女なのに。もっとも控えめに過ぎて、あちらも積極的に出るタイプではなさそうだが。
(人の恋路に口出しするような野暮はしたかねぇな)
 とは思うのだが、さてどうなるか。まずはお手並み拝見といくか、と南部は身を乗り出した。
「ま、とりあえずかけつけだ。お嬢さん、あんたお勧めの一杯を出しちゃくれねぇか」
「本日のお勧めでしたら――」
「いや、そうじゃねぇ。あんたが俺に飲ませるなら、で見繕ってくれ」
「南部さん?」
 妙な注文にアラガキが訝し気な声を上げる。まぁ待て、と手で制して笑う。
「こいつぁ良くできた男だが、根が純情でね。情にほだされるとすぐコロッといっちまう。そんなだから、色々心配もするもんでな。
 まして、これまで女の気配なんざ、これっぱかしも無かった奴が、行きつけの店があるなんて言い出した上、行った先にはいい女が一人。これで心配しないわけはねぇだろ」
「…………」
「別にあんたをくさしてるわけじゃねぇ。だが、俺は目が見えねぇからな、他のところであんたを見定めてぇのさ。気を悪くしたんなら謝るが」
 息を吸う間を置いた後、
「いいえ。ご心配はもっともだと思います。……少々お待ち下さい、今お作りします。
 アラガキ、あなたはどうしますか」
「あ、いや、俺は……ひとまず、いつものでいい」
「かしこまりました」
 すう、と気配が滑るように動き、ボトルやグラスを出す音が静かに響く。戸惑うアラガキがそわそわしているのを同時に聞きながら、待つ事しばし。
「――こちらをどうぞ」
 カウンターに置いた手にふっと柔らかい温もりと、グラスの感触が触れた。盲目でも分かるようにと添えられた手のガイドに従って、酒を手に取る。そしてそれを口に運んで――は、と南部は笑ってしまった。
「カリフォルニア・レモネードか。こいつぁ、一体誰に対する酒なんだ? ファルさんよ」
「南部さん。どういう意味ですか。……気に入りませんか」
 言葉が非難めいて聞こえたのか、アラガキが軽く手に触れてきた。そうじゃねぇよ、といなす。
「お前ぇ、カクテル言葉も知らねぇのか、アラガキ」
「カクテル言葉、ですか?」
「おうよ。花言葉みてぇに、カクテルにも意味があるんだよ。女口説くときに使えるから覚えておけ」
「は、はぁ……」
 ぴんとこない、という調子は昔ながらの野暮天だ。しょうがねぇ奴だと笑い、南部は作り手の気配に向けて、話を続ける、
「カリフォルニア・レモネードのカクテル言葉は『永遠の感謝』だ。
 俺ぁ、あんたと今日初めて会ったばっかりだぜ? 感謝をささげられるような覚えはねぇから、聞いてるのさ。
 ファルさんよ。あんたは何でこれを俺に出したんだ?」
 また、沈黙。彼女はどうやら、相手の言葉を咀嚼する間を挟む癖があるようだ。しばしの間を置き、
「……あなたのお話は、アラガキからよく聞いています。あなたが居なければ、この人は今、こうしてまっとうに生きてはこられなかっただろうと。南部贋作という人は、自分にとって師匠であり、親のようなものであり、かけがえのない人だと。そう聞いています」
「っ」
 隠しているわけではないとはいえ、己の心情を開示されたせいか、アラガキが気恥ずかしそうに身じろぎする気配がする。
 こいつどんだけ俺の話をしてんだ、女相手に色気のねぇと内心呆れながら耳を傾けると、
「……私は昔、彼に救われました。彼が手を差し伸べてくれたからこそ、今の私があるのです。
 アラガキが私を救い、あなたがアラガキを救った。
 そういう方に捧げるカクテルであれば、感謝を意味するものでなければならないと思いました。ですから、そちらを差し上げました。
 ……お気に召しましたか」
 ファルは、ゆったりとした落ち着いた口調で、そう締めくくった。
 声の調子は淡々としているとさえ言っていいが、その響きには間違いなく、心からの信頼と親愛が含まれており、それは自分にさえ向けられているようだ。南部は心中、うーむ、と唸ってしまった。
(こりゃ驚いた。……真面目に、いい女じゃねぇか)
 思慮深く、控えめで、それでいて芯の強さを感じさせる佇まい。アラガキを慕い、彼が信頼しているからと迷いもなく、初対面の自分へ優しい好意を向けてくる、その眼差しを目に出来ないのが、残念にさえ思う。
(なるほどな。こりゃ、アラガキが気に入る訳だ)
 夜の街の女ときたら、下手をすれば弄ばれる事さえありうると思ったのも杞憂だったようだ。
 南部はグラスを握り、ぐっと煽った。
 酒飲みにはジュースのような軽さだが、レモンやライムの爽やかな飲み口は、散々飲んできた身にはなかなか染みて、美味い。
 こっ、とグラスをカウンターに置いて、南部は手を伸ばした。まだおかれたままのファルの指に触れて、軽くたたく。
「……ああ、十分気に入った。あんた、良い腕してるぜ」
 そう口にすると、はにかむように微笑んだ気配と共に、ありがとうございます、と控えめな礼が返ってきた。
 その様子も好感が持てて、南部は気分が浮き立つのを感じる。
 それを察したのか、ほっと安堵のため息をつくアラガキ。
「南部さんをいつかここに連れてきたいと思ってたんです。気に入ってもらえてよかった」
「ああ、いい店だ。こんなところなら、俺も通いたいくらいだな」
 そう嘯き、南部はグラスをちびちび飲みながら、二人の会話に耳を傾ける。
 安らぎの色を帯びた各々の声には確かな信頼関係が感じられ、にやつかずにはいられない。
(こいつぁいいじゃねぇか。浮いた話の一つもねぇと思ってたアラガキに、まさかな)
 良い年をしてまだ独り身の一番弟子の行く末を、ちょうど心配していたところだ。上手い事いけば、めでたい話が聞けるかもしれない、いや聞きたい。
(野暮はしねぇが、相談してくるようなら、発破をかけてやるかな。アラガキの事だ、どうせもたもたするに決まってやがるしな)
 その時を思うと、今からニヤニヤと笑いが止まらない。狭い店内、穏やかに過ぎていく時間を、南部は酒と共に十分堪能するのだった。