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ぴゅうと北風が吹き抜けて、隣を歩くゆき子が肩を縮こまらせた。
「ゆき子、大丈夫か?」
「平気よ、お兄様。このくらい何ともないわ」
ランドセルを背負い直して答える妹は最近ずいぶん逞しい。だが目に見えて寒そうなので、自分のマフラーを外して、ゆき子のマフラーの上からぐるぐる巻きにした。
「お兄様?これじゃ苦しいわ。それに、お兄様が寒いわ」
ぷは、と息を吐いて言う妹の前にしゃがみ込み、樹生は笑う。
「ゆき子があったかくしてれば、俺もあったかくなるんだから、大丈夫だよ」
―いいにいさまのひ。
half-half
綺麗で、賢くて、大人にも物おじせず、堂々としている俺の妹は、どこへいっても評判がいい。
何でもできるなんて賢い子、将来が楽しみですね、お兄さんと一緒に白都を支えていくのね。大人たちは皆そうやって妹をほめそやすので、俺はいつもいい気分になった。その一方で、
「ゆき子。また半分こに失敗したのか」
「う……ちゃんと真ん中で割ろうと、したのよ。お兄様」
三時のおやつ、最後の一枚を分け合おうとしたゆき子が、両の手にもった、明らかに大きさの違うクッキーを見て、眉を八の字にする。その困り顔が可愛らしいと思いながら、手を伸ばして小さいほうをさっとかすめ取った。
「お兄様、ダメよ。そっちは小さいわ」
不公平を嫌う妹はきっとして、こちらから取り戻そうとする。いつも繰り返されるこのやり取りに笑って、奪われる前にクッキーの欠片を口に放り込んだ。
「あっお兄様!」
「お前の方が甘い物は好きだろう? 僕にはこのくらいでちょうどいいよ、ゆき子」
「……もう。いつもそうなんだから」
すでに食べてしまったものは、取り戻しようもない。
むくれたゆき子は仕方なく、残ったクッキーを食べ始めたが、やがてその顔が嬉しそうにほころんでいく。甘いものが好き、と言葉より雄弁に語る表情で、こちらも微笑みを誘われてしまいそうだ。
「適材適所だよ。僕にはこっちのほうがいい」
そう嘯いて、コーヒーに口をつける。
ブラックはまだ苦くて、美味しいと言えるほどではないが、クッキーの甘さに苦味が溶けていくのは、何とも言えず、心地よかった。
temporary peace
ふ、と目が覚めた。視界は暗い。閉じられたカーテンを開くでも、時計を見るまでもなく、まだ夜中だろうというのは、重くだるい体を感じた時点で分かっていた。
(……ねむれないな)
無理にでも寝なければ、と目を閉じ、寝返りを何度も打って、ようやく寝入ったと思ったのに。顔をしかめたのは、鼻に痛みを覚えたからだ。頬に手を当てれば、涙の流れた跡がざらついた。
昨日、彼の両親が死んだ。
その実感はまだ無い。夢の中の出来事のようだ。だが、授業を受けていた彼の下に届いた一報から数時間後、それは事実としてテレビのニュースで放送もされていた。
(本当に、もう、いないのか)
実感は無い。亡くなった親の姿を見ていないからか。飛行機の墜落事故、現場はまだ混乱していて、遺体の回収まで至っていないのだと言う。
ただ、乗員乗客共に全員亡くなっている、とアナウンサーは断言していた。それならばもはや、動かしようのない事実なのだろう、きっと。
「…………」
ぱたん、と腕で目を覆い、薄くため息をつく。寝ながら泣いていたのは、死を確信してしまったからだろうか。何か悲しい夢を、あるいは楽しかった夢を見ていたのだろうか。
(しっかり、しないと)
こういう時こそ普段通りに食べ、眠り、備えなければ。未成年とはいえ自分は白都コンツェルンの長男だ。
おそらくマスコミや、興味本位に押し寄せる人々の前に姿をさらけ出さなければならないだろう。その時に倒れるような愚は犯せない。頼れる大人はもういないのだから。
(……いや、お爺様がいるには、いるんだが)
もう一度息を吐いた。
白都コンツェルンのトップに君臨する白都幹之助は間違いなく彼の祖父で、今は唯一の保護者だ。
墜落事故の知らせが入ってから今まで不眠不休で事態にあたり、今もまだ会社に残って対応を続けている事だろう。
驚き立ちすくむ樹生を抱きしめ、安心しなさい、私が守るからと力強く告げた言葉も、耳に残っている。
だが、樹生は祖父を良く知らない。
世界をあまねく白都コンツェルンの最高経営者は家庭を顧みるような時間の余裕はまるでなく、孫の自分たちはもちろん、実子であっても家族のだんらんを過ごしたのは、数えるほどしかなかったという。
両親から聞いた祖父の姿もどこかあやふやで、客観的に過ぎて、まるで他人の話を聞いているようだった。
(……これからはあの人と、家族として過ごしていかないと)
そう思うと体がすくむ。
祖父と身近に接するというのは、すなわち会社の後継者として過ごすことと同じ事だろう。樹生はそれは親が継ぎ、将来、自分がもっと大人になってから受け継ぐものだと思っていた。
まさか明日からいきなり、というはずはないにしろ、突然大人の社会の渦中に放り込まれたようだ。不安がじわじわと胸を締め付けてくる。
(……寝なきゃ)
とにかく、浅くとも眠りを取らなければ。強いて目を閉じて、羊でも数えようかと思った時。
こんこん、と小さな音が夜の静寂に響いた。
「……?」
一瞬聞き間違いかと思ったが、身を起こして耳を澄ますと、もう一度ノック音が聞こえてくる。
(何か新しい知らせがあったんだろうか)
きゅ、と心臓が縮まる思いをしながら、樹生はベッドを下り、スリッパをはいた。急いで歩み寄ってドアを開け、
「……え? ゆき子?」
思いがけない相手を見つけて、目を丸くしてしまった。
「おにいさま」
青白い月光にさらされた廊下に立っていたのは、枕とぬいぐるみを抱えた、彼の小さな妹だった。
おにいさまと頼りなく呼びかけて、眉を八の字にするのが忍びなくて、樹生はしゃがみこんで顔を覗く。
「どうしたんだ、ゆき子。……眠れないのかい?」
そっと丸い頬に手を寄せると、柔らかな温もりが伝わってくる。うん、とゆき子はうなずいた。
「……おかあさまが、いないから。さびしいの。きょう、かえってくるって、いってたのに」
「…………」
その訴えには沈黙を返さざるを得なかった。事故の詳細はまだ、ゆき子には知らされていない。
全ての事態が落ち着くまでは幼い子どもを傷つけまいとする、周囲の配慮によるものだ。
だが、常ならぬざわめきに支配された家の様子を見て、いくら小さくとも、何も感じないわけがない。ましてまだ、母親の添い寝をせがむような子どもには。
「ゆき子」
樹生は優しく頬を、そして頭をなで、妹を室内へ招き入れた。
「ごめんな、気づかなくて。今日はおにいさまと一緒に寝よう」
「……うん」
枕とお気に入りの人形までもってきているからには、最初からそのつもりだったのだろう。
ゆき子はうなずき、迷いなくベッドに上がり込んで、部屋の主より先に布団の中へもぐりこむ。
その現金さに少し笑って、樹生もベッドに入り、布団の上からゆき子を優しくたたいた。
「ゆき子が寝付くまで、お話をしようか。何が聞きたい?」
「しらゆきひめ。おかあさまが、よんでくれるっていってたの」
「わかった。……昔々、あるところに、とても美しいお妃さまがいました……」
何度も読み上げた文章をそらんじながら、樹生はふと張り詰めた緊張の糸が緩んでいくのを感じる。
(……僕はゆき子の兄なんだ。しっかりしないとな)
この小さな妹に寄り添い、守ってやれるのはもう自分しかいないのだと心に刻み、かすかに笑った。
ゆき子が眠りに落ちる頃、樹生もまた目を閉じてその隣に横たわって、目を閉じる。
――この温もりに触れていれば、今度の眠りはきっと、途中で遮られることはないだろう。
dance with you
「さぁさ、早くしてくださいなお二人とも。
このレッスンが終わるまでは絶対に外にはお出ししませんからね」
鏡が壁面を埋め尽くすダンスルームに、ぱんぱんと高い手拍子が鳴り響く。
中央で向かい合って立つ二人――樹生とゆき子はダンスの教師を見やり、視線を正面に戻して互いを見た。
樹生は思わず、すっと目線をずらした。……このところ、素直に目が合わせられない。
「早く済ませましょう、お兄様。先生は踊るまであきらめないから」
「……そうだな」
互いにぎこちなく近寄り、手を取って指を絡ませる。
準備が出来たと見て、教師がリモコンのスイッチを入れると、軽やかなワルツが流れ始めた。
「お二人のダンスは創業記念パーティーのしめくくりですからね。
ちゃんとステップを覚えて頂かないと、白都の名前に泥を塗ることになりますよ!」
「……分かってるよ、そんな事」
「お兄様」
思わずぼやけば、ゆき子が諭してくる。
その顔は真剣そのものだが、最近とみに女性らしい雰囲気をまとうようになった妹を、どう扱っていいのか樹生は分かりかねている。
(普段通りにすればいいんだろうけど……落ち着かないんだよな)
この間までランドセルを背負った可愛らしい少女だったのに。
すくすく背が伸びて、成長して、今や社交界に出てもおかしくない、立派なレディだ。
(妙な色目を使う奴にゆき子を渡さないようにしないと)
ダンスは出来る。ステップも全部覚えたが、目立つのがさほど好きじゃない。
出来ればパーティー会場の隅にいたいが、白都コンツェルンの御曹司ともなると、周りが許してはくれず、今日も鬼教師のダンスレッスンから逃れられなかった。
(こうなったらゆき子の言う通り、さっさと終わらせよう)
課題の曲をいくつかやればきっと満足するだろう、と樹生はゆき子をリードして踊りに集中した。
軽やかに舞う美しい妹とのダンスが、いつしか心躍るものになっていくとは思いもよらず。
sister complex
勇利が白都ジムへ入所して、少し時が経った。
当初はこれまでとあまりにも環境が違いすぎて戸惑うばかりだったが、それにも大分慣れた。
会長にスカウトされた時点で周囲は腫れもの扱いで、遠巻きにされるか、しつこく素性を詮索されたりもするが、結果を出せば皆文句はいわない。トレーニング以外では親しく話す相手もいない勇利を、ジムにやってきた会長はだいぶ心配していたが、
(余計な雑音がなくていい。俺はあそびに来たわけじゃないんだ)
恩人のジミーに退路を断たれ、帰る場所は他にない。この場で上を目指すことだけが今の勇利の願いであり、目標だ。
(いつか、絶対に勝ちたい相手に会うために。俺はもっと広い世界が見たい)
そう心に刻んで、勇利は今日も一人早朝のジムにやってくる。まずはランニングをしようとマシンへ足を向けた時、
バターン!!!!!!
「勇利ーーーー!!!! この記事はどういう事だ―ーーーー!!!!」
勢いよく開いたドアと共に怒鳴られたのでギョッとした。反射的に振り返ると、息を切らした白衣の青年――白都樹生がそこに立っている。
「樹生。何……」
だ、と問いかける前に、
「これだこの記事、俺は何も聞いてないぞお前ゆき子とどういう関係だ!?」
まくしたてながらずいずい詰め寄り、こちらの顔にばしーん! と雑誌を当ててきたので、
「……見えない。何の話だ」
ぐい、と押し戻した。
改めて見れば、樹生が指し示しているのは週刊誌のようだ。モノクロの紙面には彼の妹たるゆき子、それに自分が写っており、派手なタイトルが踊っている――『白都コンツェルン御令嬢 深夜の密会デート!!』
「申し開きがあるなら言え勇利! 俺の可愛い妹をいつの間に毒牙にかけた!!」
「……かけてない。誤解だ」
黄色いサングラスの向こうで怒りもあらわに迫ってくるのを押しとどめ、反論する。
「これはボクシング協会の会長と会食に行った帰りだ。二人きりじゃない。よく見ろ、ここに朝本さんがいるだろう」
暗がりに沈んだ部分を指さすと、樹生は穴が開きそうなほどまじまじ覗きこみ、
「……本当だ。……そうか、デートじゃないのか……悪かった、勇利。カッとなってつい」
先ほどまで激怒していたのが嘘のごとく、素直に謝ってくる。軽く首を振り、勇利はマシンに乗った。スイッチを入れて設定しながら、
「週刊誌の与太話を頭から信じるな。俺とゆき子さんに何かあるわけないだろう」
「それならいいが……なら、この出版社を名誉棄損で訴えないとな」
「……そういう事をするとまた、ゆき子さんに叱られるんじゃないか」
さらりととんでもない事を言う樹生が、冗談を口にしてるわけじゃないのは一見して分かった。過保護な兄の暴走に、ゆき子が日々頭を悩ませているのは見ていたから、一応諭したが、
「何を言ってる! 事実無根の記事を掲載して世論を惑わすメディアを許していいわけがない! 正確な情報を伝達すべきジャーナリズムに反しているだろう!! そうと決まればさっそく弁護士と相談だ、トレーニングの邪魔をして悪かったな勇利!!」
来た時と同じように、樹生は一方的に喋ってあっという間にジムを駆け出て行った。その背中を見送った勇利は、前に顔を戻して黙々と走り始めたが、
「…………ふっ」
なぜか急におかしくなって、小さく笑ってしまった。妹可愛さに無茶をするのはどうかと思うが、白都で唯一、気兼ねなく話せる存在がいるのは、悪くない気がする。
wants your heart
「……白都コンツェルンが思い描く未来は、可能性に満ちています。今夜ここにおいでいただいた皆様には、我々が新たに生み出した可能性の未来をぜひその目に焼き付けて頂きたいと思います……」
ステージの上に立ち、スポットライトを浴びて堂々とスピーチをする白都ゆき子の姿を、会場に集った人々はため息を交じりに見入っている。その様を、会場の後ろの方で見つめていた樹生は、無意識のうちに奥歯を噛みしめていた。
(白都の未来、か。それはお前が自分の思い通りにゆがめているだろう)
後継者争いに勝利し、社長の地位についたゆき子の専横はすっかり板についた。
昔ながらの役員が何人も首を切られ、外部からヘッドハンティングされた人材が我が物顔で練り歩く。
自らが牽引するプロジェクトを強引ともいえる手腕で推進し、対立するものがあれば容赦なく叩き潰す。
(……白都のためにやっているのは、その通りなのだろうさ)
壁にもたれ、サングラス越しに妹を見つめながら、ひとりごちる。
今頭をよぎったのは、樹生を上に押し上げたい役員連中が耳に吹きこんできた悪意の数々だ。
数字だけ追っていくのであれば、ゆき子の辣腕は確かに会社に利益をもたらしている。人情に揺れがちだった前社長と比べれば、女ゆえなのか、思いがけないほど思い切った切り捨ても断行し、社内の膿を出し切って、白都コンツェルンを生まれ変わらせようとしている。
美しく、聡明な妹。ずっとそばで見てきたゆき子の優秀さは、樹生が一番良く知っている。そしてそれはゆき子も同じはずだ。
(お前は俺からも、容赦なく奪うんだな)
ファンファーレが鳴り、開いた緞帳の奥からゆっくりと人影が現れた。その姿を目にした途端、会場内がどよめく――そこに立っていたのは、銀色に輝く機械を上半身にまとった、一人の男。
「彼こそ白都の未来であり可能性を体現した男――一体型ギアを初めて身に着けた、世界最強のメガロボクサー、勇利です!」
ゆき子の声が高らかに名を呼び上げ、一際強いスポットライトがいくつもステージに注がれた。
その中央に立つゆき子は自信に溢れたこの上なく美しい笑みを浮かべ……そのわきで長身の男は、周囲の歓声など耳にも入らないような無表情のまま、唯一無二の存在感で、その場に悠然と立っている。
まるで、賞賛もスポットライトも、浴びて当然であるかのように。
(……っ)
樹生は爪が食い込むほど拳を握りしめ、凝視した。
美しい妹。彼女の夢を体現した男。その二人の姿を、出来うるのなら焼き尽くしてしまいたいと願うほど、昏く激しい憎悪を込めて。
stand close
慌ただしく荷物をまとめて、バン、と扉を開ける。
山小屋の外に止めてあるのは、大自然に囲まれたこの場には相応しくないようなスポーツカー。いずれ処分して、もっと燃費のいい車に変えようと考えているところだが、今はこいつの速さが有難い。
(俺が行って、何が出来るものでもないが)
メガロニア決勝戦は勇利のKOに終わった。
画質の荒いブラウン管の向こう側で、崩れ落ちる勇利の姿。かつて憎悪にまみれた怨念の塊だった自分が、ギアとともに叩き潰すと思い描いていたチャンプの敗北は、実際目にしてみると、樹生にはかりしれない衝撃を与えた。
気づいた時には、街へ行こうと外へ飛び出している。
(一応、ギアの手術をしたのは俺だからな。……何か伝えられる事はあるかもしれん)
リモコンを押してドアのロックを外しながら、ほんの一瞬、もしかしたら白都の関係者に出くわすかもしれない、という危惧を覚える。
(……いや。勇利はもう、白都の人間じゃない。ゆき子はきっと、奴の前に姿を現さないだろう)
他の誰に見つかっても構わないが、ゆき子と顔を合わせるのは――いや、きっと今ゆき子自身が、樹生と会いたくはないだろう。
会ってしまえばきっと、他の誰にも見せられない弱みを、勇利の敗北と生死に受けた心の傷を、さらけ出してしまうから。
(……遠目からでも、確認できればいいんだが)
勇利とは別の人の安否も気遣いながら、ドアを閉めようとした樹生は、
「! ……お前、いたのか」
視界の隅に灰色の影を見つけて、手を止めた。彼の後ろをついてきたのか、勇利の犬がいつの間にか、ドアのところに寄ってきている。
「危ないだろう。あやうく、お前まで怪我させるところだった」
手を伸ばして、やや硬い毛に覆われた頭を撫でる。
「俺は街に行って様子を見てくるから、お前は留守番を……お、おいっ?」
動物に言葉が通じるわけでもなかろうが、と思いながら話していたのだが、犬はいきなり身を乗り出して樹生の膝の上に乗ってきた。ずしり、とした重みに樹生がうめくのも構わず前を横切り、まるでそこが自分の指定席だというように、助手席に移って、丸くなってしまう。
「……一緒に来るつもりなのか?」
踏まれた足をさすりながら声をかけると、犬は顔を上げて、一声わん! と吠えた。そして後はしらんぷり、というようにまた伏せてしまう。
(てこでも動きそうにないな)
この犬もまた勇利の身を案じて、少しでもそばにいたいと願っているのかもしれない。そう思ったら、苦笑が口の端に浮かんでしまう。
「……主人に似て、お前も図太い奴だ」
それなら仕方ない、連れて行こう。そうと決めたら、勇利の身を案じて逸る心が少し落ち着いたような気がする。
――死ぬなよ、勇利。これ以上ゆき子を悲しませるなんて、俺は許さないからな。
心中でそう呟きながら、樹生はエンジンをかけ、ハンドルを握りしめるのだった。
star cradle
ふと目が覚めたのは、冷気が手を滑るように撫でて行ったからだ。瞼を上げたゆき子は混乱した。視界に映るのは燃えつきた焚火やマグカップの類、周囲は木々に囲まれ、どこからかフクロウの声が聞こえてくる。
(ここ……私……)
なぜこんな自然のただ中にと身じろぎしようとして、自分に寄り添う人の温もりに気づく。そっと視線を向ければ、すぐ間近に安らかな寝息を漏らす兄の端正な顔が見えた。
(……ああ。お兄様と、キャンプしていたんだわ)
すっかり山暮らしに順応した兄に綺麗な星を見に行こうと誘われ、何とか休みを確保して、人気のない静かな山中で兄と二人きりの時間を過ごしていたのだった。
話をするうちに、ワインやホットミルクを飲んでいたせいか眠気に襲われ、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
テントは立ててあるからそちらで寝るべきなのだが、兄もまた、そのまま意識を失ったようだ。
(冬じゃなくて良かったわ。白都兄妹が凍死、なんて書かれるところだった)
そんな事を思い、一方でこんなに近くで兄の寝顔を見るのはいつぶりだろうとも思う。
ゆき子が身じろぎしても樹生は起きない。
ここで居眠りしては体を痛めるだろうと案じたが、ゆき子はほっと息を漏らし、もう一度兄の肩に頭を寄せた。
起こすのは後でも出来る。今は頭上に広がる信じられないほど多くの星々の輝きと、静かな安らぎを堪能しよう。
dance with me
番外地ジム恒例のパーティーは、いつも最後にワルツが流れ、皆でダンスを楽しむ。
ダンスといっても正式なものではなく、土もむきだしの空き地やアスファルトの上で、それぞれが思い思いに踊り回るので、相当な大騒ぎだ。
「……こういうのも悪くないな」
昔の自分なら、眉をひそめて丁重に辞退しただろうが、今はこの空気が楽しい。心からそう思って呟くと、
「何がです? お兄様」
その小さな声も聞こえるくらい、手を取り、身を寄せて踊っていた妹が訝し気に尋ねてきた。その白い頬は、思っていた以上に酒をきこしめしたおかげで、チークを施したように赤く染まっている。ふ、と笑って樹生はさらにステップを踏んだ。
「こういうバカ騒ぎもたまには悪くないって事さ。お前もいい気分転換だろう?」
「どうかしら。朝本さんに無理を言ってしまったのが申し訳ないわ」
「お前はいつも素直じゃないな。楽しいなら楽しいと、昔みたいに言えばいい」
「……もう子どもじゃありませんから」
つん、と横を向いたゆき子は、今だけは白都の女社長ではなく、彼のたった一人の、賢く美しく愛らしい、自慢の妹だ。
「それならもう足を踏まれずに済むな、助かる」
さらにからかうと、ゆき子が柳眉をあげて、
「いつの話をしてるんですかっ、大昔のことでしょうっ」
大声で反論してきたので、樹生はこらえきれずに笑い声を上げてしまった。ああ、本当に楽しい、心躍る夜だな、今日は!