ugly dack

 長く仲たがいしていた兄と復縁したのは、春のことだった。
 最初はお互いどう振る舞ったものか戸惑いはしたものの、そこはやはり兄の樹生がリードをしてくれて、月に一度、彼のロッジでお茶会をしようという運びになった。
 その時にまたクッキーを持ってきてくれ、と頼んできたのは、よほど誕生日プレゼントが彼の胸に響いたのだろうか。
 キッチンに立ったのは久しぶりだったので、渡した時はゆき子は内心、口に合わなかったらどうしようとハラハラしていたのだが、予想以上に気に入られたようで、戸惑うやら、嬉しいやら。
 ともあれ、定期的にクッキーを作って山小屋を訪ねるのは月に一度の決まり事となり、多忙なゆき子もその日だけは必ず一日開けるようにして、楽しみにしている。
 楽しみにしている――のは、その通りだが。

「……お兄様! なぜ勇利が来ていると教えてくれなかったんですか!」
 その日山小屋を訪れたゆき子は、足を踏み入れた途端、かつての同志が当然のようにいる事に目を瞠り、樹生の腕を掴んで隅で詰問した。
 白都を離れ、すっかり隠遁生活を満喫してリラックスしきっている兄は、ゆき子の剣幕にものんきに笑い、
「勇利も時折、犬と一緒に来てるんだよ。お前のお茶会の日と重なったのはたまたまさ」
「そんな言い訳通じませんっ。わざと黙っていたんでしょう」
「さあ、どうかな。……だが、もうそろそろ勇利と顔を合わせても良いころなんじゃないか、ゆき子。いつまでも不自然に避ける事もないだろう」
 そう言って兄はゆき子をずい、と部屋の中央へ押し出す。うっ、と固まるゆき子の正面、机を挟んだ向こう側で車椅子に座した勇利は、
「……お久しぶりです、ゆき子さん」
 以前と変わらない淡々とした、けれど仄かな笑みを口元に漂わせた、柔らかい表情で声をかけてきた。
「…………え、ええ。久しぶりね」
 ぎこちなくおうむ返しをしながら、ゆき子はひそかに思う。
(勇利は、変わったのね)
 明らかに以前と雰囲気が違う。キング・オブ・キングスの時は常に張り詰めて、よほどの事が無ければ己の心情を口にしない、心を閉じた印象だった。
 今は樹生と同じように肩の力が抜けて、目に見えてくつろいでいるのが分かる。
 いや、少し困ったような顔をしているのは、ゆき子が彼とどんな顔で対峙すればいいのか分からずに、硬直しているからだろうか。
(だって、あの時以来だもの)
 トロフィールームで夢の結実と、同志関係の断絶を突きつけられたあの時から、ゆき子はまともな状態の勇利と会っていない。
 時折足を運ぶ番外地ジムで、勇利が来ていた、という話を聞く事はあったが、直接会うつもりは無かった。
(どう思われているのか、どんな顔をすればいいのか、分からない)
 そう考えてしまうのは、勇利が白都のギアを纏って広告塔として十分すぎるほど働いた上、半身不随の結果になってしまったからだ。
 もっとも、障がいの原因はギアを無理に外した為だけではないだろう。十三ラウンドにわたる熾烈な決勝戦を闘ったから、というのも大きな要因だとは思う。
 だがそもそも、彼をリングに立たせ続けたのはゆき子だ。
 いくら勇利が自分で選んだ事だと断言しても、今の状態を目の前にして、何を言えばいいのか――謝ればいいのか、感謝すればいいのか、それとも無言で立ち去るべきなのか、分からないからだ。
「…………」
「…………」
 しん、と居心地の悪い沈黙が落ちる。勇利の目を見られず、床ばかり見つめるゆき子は、今すぐここを立ち去りたくて仕方がなかった。
 最近になってようやく、兄と普通に会話が出来るようになってきたのに、心の準備もなく勇利と語り合うのは無理だ。そう思い、
(今日は帰ります)
 口を開きかけた時、
「……そうだ、勇利。ゆき子のクッキーを食べないか? 毎月作ってきてくれてるんだ。とても美味いから、ぜひ食べてくれ」
 不意に後ろから兄の声がしたかと思うと、手に持っていたバッグがさっと奪われ、
「!? お兄様!」
 止める間もなく、中からクッキーの袋を取り出されてしまった。樹生はそれを飾り気のない大皿の上にざらっと広げ、机の上――勇利の前にさっさと置いてしまう。
「ま、待って下さい、私そんなつもりで持ってきたわけでは」
 別に手を抜いたつもりはないが、兄と食べるためにもってきた、本当にシンプルなクッキーだ。
 よく作っていたのが子供の時で、兄ほど器用でもないから、簡単なレシピしか知らないゆき子には、それしか作れない。もし勇利も共にというのなら、もっと真剣に作ったのに。
 慌てるゆき子だったが、しかし制止するより早く、勇利の手が皿に伸びた。
 長い指がクッキーをつまみ、口元へ寄せられる。ちら、とこちらを見たのは、嫌がっている自分を前に、本当に食べていいか確認するためだろう。
(……嫌、だけれど)
 食べてもらうのなら、もっと凝ったものにしたかったけれど。
 勇利自身が進んで口にしようとしているのに、それを拒むのは、あまりにも頑なな態度ではなかろうか。
「……頂いてもいいですか」
 しかも重ねて尋ねられては、断るすべもない。
 自分を押しとどめる兄の腕を掴んだまましばらく黙り込んだ後、ゆき子は渋々頷いた。かぁっと顔が熱くなるのを感じながら、
「…………どうぞ。口に合うかどうかは、分からないけれど」
 視線を避けてそういうと、さく、と柔らかくかみ砕いた音が小さく耳に届いた。
 それをしっかり味わうような間があき、恥ずかしくてやっぱり逃げ出したいとゆき子が思い始めた時、
「美味しいです、ゆき子さん」
 静かな声が耳朶を打った。はっ、と顔を向ければ、勇利はこちらを見やり、穏やかに微笑んでいる。
 何の屈託もない、優しい笑顔。ゆき子を気遣い、敬意を払い、親しみさえ込めたその表情。
 それを目にした瞬間、ゆき子の脳裏に、ぱっと蘇るものがあった。

『美味しいです。ゆき子さん。……こんなもの、俺は初めて食べました』

 朴訥でやさしさのこもった声と、穏やかな微笑を浮かべた表情。
 それはかつて、まだ出会ったばかりの頃の勇利に、ゆき子がクッキーの味見をしてもらった時に見たものだ。
 あの頃の勇利は、終始遠慮がちで控えめな青年だった。才能や恵まれた体躯があっても、拳闘には向かないような性格だと時に感じるほどで、後にチャンプとして名を馳せた姿からすれば別人のようだった。
 だが、今の言葉――何のてらいもない、心から出た素直な賛辞を口にした勇利は、あの頃と同じ顔をしている。そう気づいた途端、悟った。
(変わったんじゃない。勇利は、戻ったんだわ)
 自分が彼に理想をはめ込み、目が曇っていたのだと、ようやくはっきり自覚する。
 勇利はリングを降りて変わったのではない。かつての自分を取り戻したのだ。
(……私は見る目がないわね)
 そう思ったら何だか少しおかしくなって、ゆき子は体の力を抜いた。
 ゆき子、と促す兄に勧められるまま、勇利の左手の席に腰を下ろし、自分もクッキーをつまむ。一口ほおばると、今日は茶葉の芳醇な香りがふわりと口の中に満ちて、なおさら心がほぐれていくように感じられた。
「……そうね。美味しく出来たみたい」
 呟いて勇利へ目を向ければ、彼は変わらず、優しく微笑んでいる。
 ゆき子もまたそれに笑い返し、小さく息を吐き出した。今日のお茶会は、いつもと違う楽しさに満ちた時間になりそうだ。

みにくいアヒルの子は、一体型ギアをまとった勇利は、美しい白鳥になりましたただの勇利になりました