■デリシャス・メモリー
シャルが家に泊まるようになってから、料理をする機会が増えた。
元より時間がある時は自分で作っていたが、栄養士のレシピを摂取する、というのがいかに味気ない食事だったかと、彼女と料理をしながら実感する。
「そろそろいいかな……勇利、味みてくれるか?」
今日のメニューはラタトゥイユだ。
二人で切った野菜を煮込む鍋を覗いたシャルが、綺麗な赤色をまとったパプリカやズッキーニをスプーンですくい、柄の部分を差し出してくる。
少し不安そうな顔をしているのは、いまだに自分へ料理を振る舞う事に、緊張を覚えているのかもしれない。
(『神ではない俺』にもう慣れていい頃じゃないのか)
苦笑しそうになりながら、勇利は手を伸ばした。
「え。えっ!?」
そしてシャルの手ごと、スプーンを掴んで引き寄せ、ぱくり。舌で転がすように咀嚼し、味わってから頷く。
「ああ、美味い。……お前の作るものは、なにか懐かしい味がするな」
口の中で優しく溶けるトマトの味わいを堪能して呟けば、
「そ、そうか? 勇利みたいにお洒落なものじゃないから、そう思うんじゃない、かな……」
まだ手を掴まれたままなのに戸惑っているのか、彼女が赤面しつつ答える。自作の料理が洒落ているのかどうかは知らないが、
(この懐かしさには覚えがある。……ジミーさん、みたいだ)
そんな事に気づき、ああそうか、と頬が緩んだ。
「俺は、お前の料理が好きだ」
美味くて、あたたかくて、心がこもっている。
シャルの料理を食べると、今は会えないあの優しい人が、飢えた野良犬に振る舞ってくれた食事の記憶を刺激される。
「え、あ、そ……そうですか……はい……」
真っすぐに伝えると、彼女はますます恥ずかしがって、小さくなった。
そんな様も愛らしくて、勇利は微笑み、手の甲に口づける――食事の時間がこんなに楽しいのは、本当に何年ぶりだろうな、と思いながら。
■ハッピー・スメル
深い眠りからふっと呼び起こされたのは、心地よい香りに鼻をくすぐられたからだ。
「…………」
瞼を上げれば、ベッドの隣は空っぽだ。先に起きたのかとぼんやり思いながら、勇利は起き上がった。
寝乱れた髪を手ぐしで直して床に足をつくと、伏せていた犬が頭を摺り寄せてくる。
それを撫で、共に居間へと向かえば、
「あ、おはよう、勇利。朝食もうちょいだよ」
台所に立つシャルがこちらに気づいて、笑いかけてきた。
その手元には、ぐるぐるとかき混ぜられる味噌汁の鍋。さっきの匂いはこれかと思い当たる。
「……ああ。おはよう、シャル」
そうこたえながら、自然と口元が緩んだ。
人の作る朝食の匂いで目を覚ますのは、なかなか気分がいいものだ。
■デイドリーム
「……今なら北のほうが面白いんじゃないか? 確かロードレースやってなかったっけ」
「ああやってる、やってる。荒野にでっけぇ即席のコースつくってさ、一日限りの大レースで大盛り上がりだ。ロードバイク乗った事あるか?」
「そっちは無いな。あれはこう、体ごと吹っ飛びそうで、ちょっとな……」
廊下を歩いていたら、ふとなじみ深い声が耳に届いた。
目を向けると、自動販売機の並んだ休憩所のソファで、シャルと社員の男が語らっているのが見える。
(あれは――レアバイクを持っている、という奴か)
以前シャルが熱心に話していた二輪仲間だろう。
今もバイクレースとやらで話がはずんでいるのか、勇利以外にはあまり見せない満面の笑みまで浮かべて、彼女はとても嬉しそうだ。
(…………)
前に同じ状況を目にした時、勇利は言葉にできない、何か不快な感情を覚えたため、そこから目をそらした。
今思えばあれは、自分が入り込めない話で他人と楽しそうにしている彼女を、見たくなかったのだと気づく。
だが、今は――勇利、と自分の名を呼ぶシャルの声を、幻聴に聞く。
――重ねた唇の合間から、名前と共に熱い吐息が触れる。
――熱に浮かされて潤んだ瞳が自分を映し出し、耐えられないというように閉じられる。
――彼が手で柔らかく膨らみの形を変えると、喉から絞り出すように甘い声を上げる。
――そして、しがみついたこちらの背中に爪を立てて傷跡を残し、彼女は――
「……勇利? ぼーっとして、どうしたんだ?」
「!」
は、と我に返ると、目の前にシャルが立っていた。
先ほどまで話をしていた男は、とうに立ち去ったらしい。
ジムへ行こうとして、廊下に立ち尽くす自分に気づいたのか、訝し気に見上げている。
「……いや。少し……」
夢を見ていた。そう言いかけて、なおさら疑問を呼びそうだと思い直し、
「何でもない。考え事をしていただけだ」
相手に質問の余地を与えずに歩き出す。
勇利、と後からついてくる彼女の足音を聞きながら、口元を手で覆い、息を吐いた。
……昼日中から何を考えているんだ、俺は。
■エンドレス・ワルツ
「も、やだっ……やだってば、勇利っ……!」
子どものような言葉遣いでシャルがぐい、とこちらの肩を押しのけた。は、はっ、と切れる息をのみ込み、
「……そんなに嫌か、シャル」
勇利は我ながら傷ついたような声で問いかける。
確かに、相当な長時間つき合わせているのは分かっているが、こうもはっきり拒絶されると、我に返ってしまう。
普段あれだけ自制しているのに、と反省して身を引きかけると、
「やだっ……き、気持ちよくて、もう、無理っ……」
シャルが涙目でそんな事を口走ったので、一瞬硬直した。
「……………」
沈黙。
彼女の荒い呼吸にしばし聞き入った後、もう一度前のめりになり、髪の合間から覗く耳にささやきかける。
「……それは、男冥利に尽きる台詞だな」
「え……あ、ちょっ、勇利、ほ、ほんとに、ほんとにもう、無理っ……!!」
失言に気づかないまま、こちらを止めようとする細い手を掴んで、掌に口づける。
彼女に溺れる夜はまだ、終わらない。
■スウィート・セルフィッシュ
風呂上がり、喉の渇きを覚えた勇利が、ソファでミネラルウォーターの封を切った時、
「ゆうりー」
「!」
どすっと後ろから衝撃を受けて、首に腕が巻き付いてきた。
何事かと振り返れば、彼の小さな恋人が、頭を沈めた状態で抱きついている。
「帰ってたのか、シャル。どうした」
今日は遅くなるといっていたから、まだだと思っていた。問いかけると、シャルがゆらりと顔を上げた。
頬を紅潮させ、半ば目を閉じたような表情でこちらを見やり、
「勇利。……しよ」
凄まじく直球な要求をしてきた。
「……酔ってるな」
一瞬絶句した後、彼女の吐息が酒臭いのに気づいて嘆息する。
白都ジムの飲み会は、相当盛り上がったらしい。
「今日はもう寝た方がいいんじゃないか」
怪しい酩酊ぶりにそう言ったら、腕にぎゅっと力が入って首がしまる。
ぐっと顔を近づけてきたシャルが、
「やだ。したい。勇利、しよ」
まるで子どもの我儘のようにねだってくるから、何だこれはと瞬きをしてしまった。
(珍しい事もある)
シャルは普段、これほどあからさまな物言いはしない。
そもそも自分から誘って来る事など稀、それこそ酒が回って理性を失っている時くらいだ。
(不用意な発言は控えろと、忠告したんだがな)
さすがに酔っ払いを組み敷くほど、飢えてはいない。
ペットボトルを脇に置いた勇利は苦笑して、
「ああ、分かった。お前が
くしゃくしゃと頭を撫でて、宥めるのだった。
■ライク・ディザスター
「久しぶりだなあキャット、いつ以来だ。メガロニア前だっけか、お前がいなくなったの」
「その節は急に辞めて、すみませんでした……」
諸々落ち着いた後、白都ジムへお詫びに訪れたら、顔なじみのメンバーに囲まれて小さくなってしまった。
突然いなくなってさぞ迷惑をと謝れば、
「迷惑というか……」
「俺らより……」
と意味深に顔を見合わせている。何かと目を瞬くと、そのうちの一人が咳払いをして、声を潜めた。
「……お前が居なくなった時、勇利がめちゃくちゃ荒れてな。トレーニングすっぽかすわ、マシンぶっこわすわでそりゃー凄かったんだぞ」
「えっ」
「しばらくしたら落ち着いたけど、あんなの誰も見た事なくてな。
もしかしてお前と付き合ってて、揉めたのかと思ったんだが、まぁ、誰も話題に出来なかったよな」
「そりゃそうだ、わざわざチャンプの地雷に誰が突っ込むよ」
「元鞘に収まったんならよかった」
まさかそんな、と思わず勇利を振り返れば、車椅子の彼は穏やかにトレーナーやコーチと語らっている。
今の様子からは想像できなくて、冗談にもほどが、と思ったのだが、本人に確認するのはとんだ藪蛇になりそうだ……。
■サッド・エアー
そういえばお互いバイク乗りだった、とジョーがシャーリーに水を向けてみたら、
「……中古のバイクだけど、結構カスタマイズ頑張ったんでお気に入りなんだよな。今はなかなか乗れないのがなー」
「乗りゃいいじゃねぇか。メンテはしてんだろ?」
「そりゃもう。でも車の練習の方が忙しくて無理だ。前は荒野を走り回ってたんだけどな」
「へぇ、俺もだ。街を出りゃ、どこまでも走りたい放題だ、気持ちいいよな」
「うん、何も考えずに、ひたすら走るの楽しかったな」
などと話が盛り上がった。
バイクいじりを始めたばかりのジョーは、あれやこれやと質問していたのだが、ふと視線を動かす。シャーリーの隣に座った勇利が、
「…………」
何とも言えない表情で茶をすすっているのが視界に映った。その顔に、思わず吹き出しそうになる。
熱を込めてマフラーについて語っている彼女に、
「おい、勇利が置いてきぼりで寂しがってるぞ」
指までさして教えてやると、
「え? ……えっ、勇利なんでそんな顔してんだ!? 何か具合でも悪いのか?」
「……いや。特にどこも悪くはない。気にするな」
彼女は慌てた様子で構い、勇利は勇利で小さく首を振る。
だがその表情の意味は明確すぎるほど明確だったので、ジョーは今度こそ笑いだしてしまった。
きっと自分が入れないバイクの話題で盛り上がっているのが寂しかったのだろう。
冷静沈着な勇利が、彼女のことになると、人間味のある感情を露呈するのが微笑ましく、おかしい。
(なぁ勇利。飼われてるのは一体どっちなんだ?)
一見して、シャーリーの方が勇利に懐いてべたぼれしているように見えるが、実際のところ彼も相当、彼女に参っている。
だからそんなひねくれた質問をしてやりたかったのだが、どうせ惚気が返ってくる気がするから、やめておこう。
■ディフィート・ジェラシー
普段飲まないハーブティーを口にしたからか。
食事の席を途中で離れる事はしないのに、と思いながら、シャルはトイレから出た。
自然食を売りにしたおしゃれなカフェの中で歩を進め、元の場所へ戻ろうとして、
「……ね、あれって白都コンツェルンの社長さんじゃない?」
「あっほんとだ。凄い、本物も綺麗ね。モデルみたい」
近くのテーブルから聞こえてきた会話に、ふと足を止めた。
午後のお茶会を楽しんでいたらしい女性二人は顔を寄せ、好奇心に満ちた目を向けている――すなわち、白都ゆき子がいるテーブルへ。
「一緒にいるの……あ、あれ、勇利じゃない!?」
「やだほんとー! うわ~本物初めて見た……あっちもモデルみたい。
すっごい美男美女、お似合い」
「あの二人付き合ってるのかな。ワイドショーで見た事ある」
「えーどうなんだろ?
勇利はそういう質問シャットアウトしてたし、社長さんはハッキリ否定してなかったっけ」
「そんなのわかんないよ。
だってもう引退しちゃってるだから、付き合おうが何しようが自由じゃない?」
「でも車椅子でしょ? そんなの付き合う方が大変じゃん……」
女たちの姦しいおしゃべりは止むことを知らない。
シャルは自然と曲がっていた口に気づいて、ごし、とこすってから、再び歩き出した。
「シャル」
「お帰りなさい。ケーキ来てるわよ」
何事か話していたらしい二人が、こちらに気づいて、声をかけてくる。
うん、とうなずいて椅子に座りながら、シャルはしみじみ思う。
(……やっぱりお似合いなんだよなぁ、この二人)
才色兼備の白都ゆき子に、スタイル抜群で端正な顔立ちの勇利。
外見だけでも絵画のようにしっくり合っているし、チャンプになるまで、共に手を携えてきた過去を思えば、むしろ男女として通じ合うほうが自然のように思える。
(今まで気にした事なかった。
……というか、ゆき子さんの方がお似合いって思ってたけど)
全てを終えた今、ようやく和解した二人が穏やかに語らうのを見ていると、何か寂しいというか、焦るというか――これまで感じたことのない思いが急に湧き出してきて、戸惑いを覚える。
「……シャーリー? どうしたの」
ついまじまじとゆき子を見ていたのがバレて、眉をひそめた彼女に問いかけられる。
頬杖をついたシャルは、
「いや……ゆき子さん、本当にいつ見ても綺麗だなと思って」
何となくため息交じりにそう呟くと、
「……何を急に……あ、ありがとう」
あまりにも唐突な発言だったからか、彼女は目を瞬き、白い頬にぱぁっと血の気をのぼらせる。
めったに見ない照れ顔はまるで少女のように可愛らしくて、本当にこの人は勇利とお似合いだなぁ、と敗北感を覚えてしまうシャルだった。
■ホット・ワード
「本当に髪を切るのか」
風呂に入ったシャルの髪にドライヤーをかけながら、勇利が問いかけてくる。
背後から吹き付けられる熱風にうとうとしつつ、シャルはうん、と頷いた。
「式も終わったし、この長さだとセットだのなんだのしなきゃいけないの、めんどくさいし。やっぱり短くしてる方が性に合うよ」
「そうか」
簡潔に答える勇利の指が、髪をはさみこんでなぞるのを感じる。何かちょっとぞくっとするな、と身じろぎしながら、
「勇利は、髪長い方が好き? 今の方がいいなら、切るのやめるよ」
何の気なしに尋ねたら、
「俺はどちらでもいい。髪の長さがどうであれ、お前には変わりない」
「ぐっ」
きっぱり言い返されて、つい言葉に詰まってしまった。
カーッと熱くなっていく顔を覆い隠しながら、勇利に見られなくてよかったと思う――もう結婚までしてるというのに、どうしてこの人はまだこんなに、自分を揺り動かして止まないのだろう。
■ホットワード2
今日はずいぶん冷え込むようだ。
後は寝るだけ、とベッドの上で本を読んでいたが、わずかな
「あー寒かった! これ明日、雪降るんじゃないか」
車に忘れ物をしたと外に行ったシャルが、寝室に入ってきたと思ったら、彼の隣に飛び込んで円くなった。それがまるで猫そのものだと苦笑して、
「大丈夫か。確かに冷えてるな」
頬に触れると、大分ひんやりしている。
うん、と答えたシャルは、ふとつぶらな目でこちらを見上げた。何か言いたげな視線に声をかけようとする前に、
「勇利。……寒いから、あったかくしよ」
甘えるように囁いて、掌に唇を寄せてきたから、どっと体温が上がってしまった。
……いつの間にか、誘い方が上手くなっている気がする。
■ファースト・デイブレイク
ガーデンソファーに座って毛布をまとい、冷たい指先に息を吹きかける。この時期、暑い日々は突然熱を失い、凍えるような夜が訪れる事がある。今日はそれだ。木々に囲まれた庭のずっと先に見える海からの風も、寒さに拍車をかけている。
「シャル」
不意に顔の脇にすっとグラスが差し出された。振り仰ぐと、勇利がこちらを見下ろしている。
「ありがとう、勇利」
受け取ればホットワインの温もりで寒気が散らされる。有難いと口をつける横で勇利がソファを乗り越え、隣に座った。毛布を引き寄せたその足に、寝そべっていた犬が頭を摺り寄せる。
「冷えるな」
「うん。でも後ちょっとで……あ」
呟いたその時、ちかりと光が海の上を走った。瞬く間に空がばら色に染まり、海がそれを映し出して同じ色に輝く。
「わぁ……凄いな。ここ、初日の出の絶景ポイントじゃないか」
感嘆して呟けば勇利は少し笑って、手中のグラスをこちらのそれに重ねた。きん、と美しい音色をバックに、
「今年もよろしく頼む、シャル」
柔らかく微笑んで言うものだから、(うわ……綺麗だな)どきっとしながら、シャルは自分からもグラスを合わせて、
「うん。よろしくお願いします、勇利」
この人の隣にいられる嬉しさに胸を弾ませて、そう囁き返した。
■キス・フォー・イグジスタンス
自分の体に大きな傷跡が刻まれたせいか。
傷のない、滑らかな背中を目にすると、それがどれほど掛け替えなく大切なものか思い知らされるようで、胸が締め付けられる。
「シャル」
「ん……勇利……」
名を呼び、呼ばれながら、しなやかに伸びる背に口づけをする。
今ここに、腕の中に、間違いなくシャルが存在しているのだと、何度も確認するように。
――自分がこれほど切実に求めているなんて、彼女はきっと思いもしないだろうけれど。
■レスト・イン・ピース
時折、うなされる声で目を覚ます。
「……っ……ぐ、あっ……」
低い唸りにふっと意識が浮上し、うつらうつらしながら、まぶたを上げる。
暗闇に沈んだ視界の中に映ったのは、自分の隣に横たわった勇利が、目を閉じたまま歯を食いしばって、体を硬直させている姿だった。
(うなされてる)
そうと気づけばすぐに手が伸び、
「……勇利。勇利」
強張った肩に触れて、強めに揺さぶる。すると呻きは止み、すう、と力が抜けて、彼の目が開いた。
「…………シャル」
天井からこちらへ向けた顔は汗をかき、ひどく憔悴していて、胸を衝かれてしまう。
(また、ギアレスの夢を見たの)
その顔を見れば、問いかけるまでもない。
生死の境をさまようほどの手術の後遺症は、体にも心にもいまだ、深々と傷を刻んでいる。勇利がこうしてうなされるのも、一度や二度ではない。
「起こしたか。すまない」
「…………ううん」
苦しいのは自分のはずなのに、開口一番そんな事を言うものだから、ますます辛くなる。
勇利がどれだけ苦しんだのか、結果を目の当たりにしているのに。
その時、自分が傍にいなかった後悔と、何も出来ない無力とに苛まれて、息が詰まりそうだ。
せめてもの労わりで額の汗を拭うと、彼はふっと表情を和らげた。身を寄せてきて、
「……抱きしめてもいいか、シャル」
そんな事を、わざわざ確認してくる。
聞かなくてもいいのに。
少し笑って頷くと、勇利は両腕を回してこちらを引き寄せた。
肩や腰にまきついて、ぎゅっと込められた力を感じると、抱擁されているというより、すがりつかれているような錯覚を覚える。
(……ごめん、勇利)
もっとも苦しい時に寄り添えなかった悔いは消えない。
だから今、少しでも楽になればいいと、胸に顔を埋めて背に手を回す。
頭の上から安堵するような吐息が聞こえ、やがてそれが安らかな寝息に変わるのを感じながら、自分も目を閉じた。
触れた胸から規則的に響く心臓の鼓動に、ふと涙がにじんで、まなじりから落ちていく。
それを拭うよりも早く、眠りの幕が滑るように意識を覆う――せめて、今度の眠りは穏やかなものでありますように、という祈りだけ残して。