ビフォー・アフター

 ――野良猫が初の公式戦で勝利を得た、次の日。
 いつものように朝早くやってきた勇利は、ジムへ足を踏み入れ、ふっと見回した。
 いつものように、一番乗り。誰もいない。
(……何も変わりない。これが普通だろう)
 何となく、彼女がもう来ているのではと、無意識にその姿を探している自分に気づく。
 そして、窓際のストレッチエリアへ向かいながら、なぜ彼女を探すのかを生真面目に自問する。
(祝いの一言でも、かけてやるつもりか)
 彼女は、あれだけ希ったメガロボクサーのデビュー戦で、みごと勝利をおさめた。
 きっと昨日は、喜びのあまり眠れなかったのではないか。
 そして朝を迎えてジムへやってきたら、一番に自分へ報告しにくるのでは。そんな事を何となく、想像していたらしい。
(何を考えてる。いくらあいつが、やたら俺を褒め称えるとしても、俺があいつに期待など――)
 する謂れもない。
 自分はただ彼女を拾っただけなのだから、と結論付けようとした時、下げた視界に人影を見つけた。
 窓の外、階下は駐車場だ。今は早朝出勤、あるいは深夜勤務の人々が車の出入りに忙しい。
 その端、バイクを駐車するスペースに、見慣れた姿……子猫キトゥンが見えた。
 どうやらすでに出勤自体はしていて、そこで誰かと話しているようだ。
 相手は見慣れない男だが、白都の社員だろうか。
 同じ場所にバイクを停め、大げさに身振り手振りを交えて、ずいぶん話し込んでいるらしい。
 キトゥンは自分と相手の単車を指さしたり、触ったり、そばにしゃがみ込んで観察したりと、ずいぶん熱心だ。
「…………」
 おそらく二輪乗り同士で話が盛り上がっているのだろう、それは分かる。
 彼女自身、古びた愛車を足に使っていて、ずいぶん大切にしている。メンテナンスも出来る限り自分でしているのだ、と語っていたのを思い出す。
 だから、他のバイクを見て興味を惹かれるのも、自然な成り行きといえる、が――
(……トレーニングを始めよう)
 何かよく分からないが、顎に力が入っている自分に気づく。勇利は窓の外から視線を外し、日課のストレッチから開始した。

 ――ほどなくして、
「あっ、おはよう、勇利。相変わらず早いな」
 サンドバッグと相対しているところで、キトゥンがジムにやってきた。
 普段自分と会うと、すぐ顔を輝かせる彼女だが、今日はひときわ機嫌がよさそうだ。
「ああ」
 打ち込んだ拳を引き戻し、勇利は応える。
 彼女が口笛を吹きながら、掃除用具入れに向かうのを目で追い、
「…………機嫌が良いな」
 ついぽろり、と声に出してしまった。モップとバケツを取り出したキトゥンは、
「ああ、うん! さっき下の駐車場でさ、レアバイク乗ってる奴に出くわしたんだ。
 限定百台、しかもメーカー潰れちゃって、もう絶対手に入んないモデルでさ!
 ついつい話し込んじゃったよ、あーいいなぁあれ……中古でもめちゃくちゃ高いんだよなぁ……」
 興奮した様子で一気に語ったかと思えば、腕を組んでしみじみ言う。
 よほど希少なものなのは伝わってきたが、勇利はバイクについては全く分からないので、
「そうか」
 としか言いようがない。幸い、彼女は門外漢を責めるでもなく、
「そうなんだよ、まさか持ってる奴がいるなんてなぁ。
 乗ってたのも良い奴でさ、今度ツーリング行かないかって誘ってくれてさ」
 などと言い出したので、
「……行くのか」
 思わず出た声が、自分でぎょっとするほど低くなった。
 え、と振り返ったキトゥンも、こちらを見てびくっと肩をすくめ、
「えっ……え、その……誰かとツーリングとか好きじゃないから、行かないけど……えっ、勇利、なに? 何か怒ってる?」
 モップの柄を抱え、身を守るように後ずさった。
「…………いや。別に、怒ってはいない」
 それほど険相になっているのか。グローブで自分の顔に触れ、同時に、
(……どうして俺は、ほっとしているんだ)
 胸中にじわりと湧いた、不可解な安堵感に眉根を寄せ、キトゥンから目を背けたのだった。