チーム番外地が未認可地区の川沿いにジムを構えて、しばらく後の事。
鋭い呼気と共に、リズミカルにサンドバッグを叩く音が、小気味よく響き渡る。
自分のものとは違って軽く聞こえるのは、単純に体格が違うからかと思いながら、ジョーは声をかけた。
「……にしても、何でわざわざここでやるんだ、あんた。
勇利ん家でも、トレーニング出来るんだろ?」
声をかける。
と、サンドバッグを殴っていた女――キャットが振り返った。
ぱっと汗が飛び散ったのは、結構な時間、トレーニングをしていたからだ。
大きく息を吐き、彼女はそりゃそうだけど、とグローブを外した。
汗を手で拭いつつ歩いてきて、ジョーが腰を下ろしているソファの反対側に、どさっと座る。
「あれは、勇利のトレーニングルームだからさ。本人が出来ないのに、使うのも気が引けるんだ」
「そんなの、あいつは気にしないだろ。むしろ、あんたがやってりゃ喜びそうだ」
ふと、彼女と勇利が一緒にいるところを初めて見た時、自分の目を疑ったのを思い出す。
以前は余裕ぶっていけすかない奴、今はいつでも冷静で落ち着いてゆったり構えてる奴、という印象の勇利が、キャットと話している時、やたら甘ったるかった。
それこそ目に入れても痛くなさそうな可愛がりぶりだから、自分が車椅子でトレーニングを出来ないからといって、彼女がそれにならう事を良しとするとも思えない。
だが、キャットは肩をすくめて、
「勇利は多分、良いって言うだろうけど。
……だから、うん、まあ、こっちの気持ちの問題だな。
体の状態が良くなれば、状況も変わると思う。
それまでは、ここ使わせてもらえると助かる。使用料は払うよ」
「たまに来てやるだけだろ。いらねぇよ、そんなもん。
おっさんだって受け取らねぇと思うぜ」
サチオが積み上げたタオルの山から、一枚取って差し出すと、キャットはありがとうと受け取って、汗を拭き始めた。
「……なら今度、畑仕事手伝うかな。あっちも軌道に乗ってきたみたいじゃないか」
「まぁな。俺も時々駆り出されるから、助っ人がいると助かるぜ」
南部が気まぐれのように始めた畑は、日を追うごとに拡大して大仰な事になってきている。
土いじりなんて誰も経験が無かったので、何もかも手探りで、いつもいつも上手くいくわけではないが、
(意外と悪くねぇんだよな)
ああでもない、こうでもないと皆で試行錯誤しながら、固い土を掘り返し、種を植え、その出来に一喜一憂しながら、少しずつ畑を大きくしていく。
それを忍耐強く繰り返していくのは地味な仕事ではあったが、ジョーは最近、それを楽しんでいる自身を見つけて、面白がっているところだ。
(一度、最高に熱くなれる瞬間までたどり着いたら――その先にあるものは、何だって新鮮で、面白いのかもな)
張り切る南部にサチオと一緒になって文句を言いながら、自分も案外本気だ。
次は何を作ろうか、上手くできたら、勇利達やアラガキ達に渡してやろう、なんて思案していたりもする。
(ちょっと前までこんな事、考えもしなかったな)
地下でくすぶっていた頃は、このままただ漫然と生きていくだけかと思っていたのに。
あの雨の日、勇利に出会ったから。
メガロニアへ行くと決意したから。
様々な幸運と、出会いに恵まれ、信じた自分を信じ続けたから、ジョーは勇利と生身でぶつかり合うあの瞬間を経験できた。
そして、ずっと心中にくすぶり続けていた焦燥感も消え去り、リングを降りて、穏やかな気持ちで日々を暮らしている。
それはまるで奇跡のようだし、人生何が起きるか分からない、という南部の言葉は全くその通りだな、と思う。
「……にしても、ちょっと熱入れ過ぎたな、あっちぃ。
ジョー、そっちの水取ってくれ」
らしくもなく感慨にふけっていると、キャットが羽織っていた白いパーカーを脱ぎながら、こちらの棚に置いてあるペットボトルを示す。
おう、と手に取り、彼女へ差し出そうとして――ジョーはぎょっと息を飲んだ。
「ばっ、脱ぐんじゃねぇよ!!」
「うわっ!?」
とっさに手近のタオルを投げつけてしまう。顔を覆われたキャットは、
「何すんだよいきなり!!」
それをはぎ取って抗議してきたが、バカ野郎、と声を荒げてしまう。
「いいから脱ぐな! それ着てろ!」
「はぁ? 何だよ、別に裸になったわけじゃなし」
それはそうだ。彼女はパーカーの下にシャツを着ているので、非常識でも何でもない恰好なのだが、
「おま……、あー……」
(そうか、気づいてねぇのか、こいつ。……そりゃそうだ。気づかねぇか)
位置的に仕方ないと気づいて、ジョーは自分の顔が赤くなるのを感じながら、少し目をそらした。
「……あんた、首の後ろについてんだよ。……跡が」
ぼそぼそ、と指摘する。キャットはきょとんとした後、
「…………!!」
不意にぼっと赤面して、首筋を手で覆い隠した。
あ、え、う、と奇妙な声を漏らすのを見返して、咳払いする。
「……お前らの付き合いを、どうこう言うつもりはねぇが。ここにはサチオみたいなガキも多いんだ、ちょっと気ぃつけろよ」
「う……はい……すみません……」
急に殊勝になったキャットは、もそもそとパーカーを着直し、首元までジッパーを上げて小さくなる。
それでようやく、ジョーは落ち着きを取り戻し、
(……こいつ、ほんとに勇利の女なんだな)
そんな事を再確認してしまう。
しかし、あの慎重そうな勇利が、人目につくようなところに跡を残すとは……と考えたところで、はたと気づいた。
居心地が悪そうにしている彼女に、
「なあ。あんた、勇利に今日ここに来る事、言ってあるのか?」
確認すると、相手はもちろん、と頷く。
「今日は朝から病院でリハビリと検査だから、こっちに顔出して、昼過ぎに迎えにいくって、昨日話したよ」
じゃあもしかして、
(……こいつが俺のところに行くから、わざとやったのか? 勇利の奴)
そう思い至り、何となく脱力してしまった。
ジョーは、初対面の時にキャットが勇利の女と知ったのもあって、異性と意識していない。
それはおそらく向こうも同じで、というか彼女は勇利しか見えていないのだから、他の男が眼に入るはずもない。
なのに、わざわざあんなマーキングを見せつけてくるという事は、
「……勇利も案外、余裕ねぇんだな」
「え? 何が?」
思わずつぶやいたら、キャットに怪訝そうな顔をされたので、何でもねぇよと肩をすくめた。思わず苦笑いをしてしまう。
いつも冷静でゆったり構えている勇利が、この小さな女に関しては全く普通の男になってしまうのだと思うと、なかなか面白い。
今度会った時、少しからかってやろうか。
そうしたら、あいつは顔色を変えて突っかかってくるのだろうか――そんな事を思いながら、ジョーは腰を上げて、グローブを手に取った。
「……なぁ、スパーリングやろうぜ、キャット。
ちょっとなら構わねぇだろ」
誘いかけると、彼女は目を瞬き、それからぱっと顔を輝かせた。
「ああ、いいよ! 頭は無しな、医者からNG食らってるから」
うきうきとリングへ向かうのを、笑いながら、ゆっくり追いかけた。
今日は体を動かしたくなる、いい気分の日だなと思いながら。