――持っていた飛行機のチケットを、手の中でぐしゃりと握りつぶしてしまう。
これじゃ使えなくなるかもしれない。呆然としながら頭の片隅で考えたが、拳をほどく事は出来なかった。
メガロニアトーナメント、決勝戦。
チーム番外地所属、ネイキッドボーイ、ギアレス・ジョー。
キャットがその名乗りに違和感を覚えたすぐ後、リングに上がった両者は――どちらも、ギアを身に着けていなかった。
「おいまじか! チャンプがギアつけてねぇぞ!」
「はぁっ!? 何で勇利がギアとっぱらっちまうんだよ、こんなのただのボクシングじゃねーか!」
(……ゆ……う、り)
会場が騒然となる中、キャットは目を見開き、息をするのも忘れていた。凍り付いたように見つめるリングでは、ジョーと勇利が対峙している。
ジョーはバロウズ戦でギアをつけた事により、決勝でも装着するのでは、と試合前に批判されていたが、今日はリングネームの通り、ギアレスだ。
だが、勇利も――長年身にまとっていた一体型ギアは、影も形もない。
その体を引き裂くような痛々しい痕を残して、全て取り払われている。
(何で……勇利、そんな……そんなの、どうやって)
ぎ、と手に力がこもる。
ギアについては少しかじっただけだから、詳しく分からない。
だが、勇利の一体型は神経と直結しており、もはや肉体の一部になっていたらしい。
それを、ペペ戦から今日までの短い間に外すなんて……。
(……ジョーと、対等に
混乱のただ中に陥りながら、キャットは辛うじて考えを巡らせる。
ジョーは、これまでずっと生身で闘ってきた。
それはひとえに、メガロニアのリングで勇利と闘うためだったはずだ。
勇利は、それを認めた。
バロウズ戦の時にはきっともう、ギアレス・ジョーを認めていた。
だから、自分のギアを外した。
ライバルの闘いに敬意を表して。そしておそらく、
(白都から離れて、一人のボクサーとして対峙するために)
無所属、の意味も遅れて理解する。
一体型ギアは、白都コンツェルンの最先端技術の結晶だ。その象徴だったキングがギアを外すなどという選択をすれば、白都ジムと決別するしかないだろう。
(……む……無茶な……)
その負担がどれだけのものかは、彼の体を見るだけでも想像を超える。
上体の半分を占める大きな傷跡。
神経と繋がれ、脊髄にまで深々と食い込んでいたはずのギアを外した。
であれば、いくら名医の手によるものでも、地獄のような苦しみに耐えなければならなかったはずだ。
(勇利、何てことしたんだ)
ようやく息を再開したキャットは、くらくらして頭を押さえた。
元より彼がストイックで、過酷なトレーニングを黙々とこなす性格と知ってはいたが、あれはもう、生死を分けかねない選択だろう。
いくらなんでも、あまりに代償が大きい。
もし今日の試合を乗り切ったとして、今後メガロボクスを続けられるかどうかも分からないのではないか。
(……でも……でも、そうか。勇利は、そのくらいの覚悟で、あそこにいるのか)
もう一度、今度は少し気持ちを落ち着けて、目を向ける。
観客で埋め尽くされたドームの中央で、二人は互いに向き合い、試合開始を今か今かと待ちわびているようだ。
待ちに待った決勝戦でたぎるジョーはもちろん、勇利もまた、深い満足と闘争心を抱えて微笑している。
あんな顔をする勇利を、キャットは初めて見た――いや、違う。
(地下で初めてジョーと闘った時。あの時と、少し似てる)
開始前から闘志を漲らせているのは、ジョーをただ一人、自身を熱くさせるライバルと認めたから。
この男となら、心からメガロボクスを楽しめると分かっているからだろう。
(……勇利。ジョー)
キャットはくしゃくしゃになった飛行機のチケットを、上着のポケットに入れた。
空いた手を祈るように組み、息を殺して二人を見つめる。
いまだ会場の動揺が去らない中、ブザーが鳴り響く。
――そして、運命の決勝戦が始まった。
試合の流れは終始、チャンピオン優勢で進んでいた。
ギアを外しても、いやギアという枷を外したからこそ、勇利は解き放たれたような動きで、一方的に攻めている。
ジョーもむろん攻撃を繰り出してはいるが、有効打はチャンプの方が多く、翻弄されているように見える。
(あいつより勇利の方が、公式戦の経験数も、積み重ねてきた技術も桁違いだ。これは当然……だけど)
四ラウンドが終了し、双方コーナーへ引く。
サチオや南部のサポートを受けるジョーとは対照的に、勇利は腰を下ろす事なく、ロープに両腕を預け、セコンドも無しに一人で立っている。
『インターバルの間も一度も座る事のない勇利選手。スタミナに限界がありません!』
近くにいる客のラジオから、実況解説のコメントが流れ聞こえてくる。キャットは眉間にしわを寄せた。
(……そうなのか?
勇利は休息をおろそかにするタイプじゃない。
いくら体力に余裕があっても、むしろある時こそ、きっちり休むはずだ。セコンドもいないのなら、なおさら。
……なのに、それをしないのは)
もし一度でも座ってしまえば、もう立てなくなる。
そんな危惧があるからこそ、ああしてインターバルをやりすごしているのではなかろうか。
今、勇利の体の状態がどうなっているのかは分からない。
だが、試合が進むにつれ、傷跡が少しずつ赤みを増しているのが見て取れ、それが刻々と進む命のリミットを表しているようで、不吉に思えてならない。
(勇利)
ラウンドが進むたびに、その予感がどんどん増してきて、胸がつぶれそうだ。
キャットはパーカーの胸元をつかみ、太く息を吐いた。
苦しい。
試合は勇利優勢で進行しているというのに、彼がどんどん追い詰められている……いや、自身を追い込んでいるように見える。
(これが見たかったはずなのに)
勇利がしがらみから解放され、ただのボクサーとして、心から熱くなれる試合。
自分はずっとそれが見たかったはずなのに。どうしてこうも息苦しく、見ていられない気持ちになるのだろう。
ジョーのパンチが体に食い込むたびに息を飲み、とっさに目をそらしてしまう。
(怖い)
メガロボクスの試合を見て、怖いと思うのは初めてだ。
これまでずっと、男たちの殴り合いを見て爽快だ、すっきりする、わくわくするとかぶりついて観戦していたのに、今日は、今日だけは、そんな気持ちで見ていられない。
怖い。
勇利はあのまま限界まで闘って、燃えつきてしまいそうだ。それが怖くて、見ていられない。
キャットの恐れをよそに、チャンプの猛攻は激しさを増していく。
スイッチで相手の攻撃をしのぎ、オーソドックスへ戻してからの右が、相手の顔に突き刺さった。たまらず、ジョーがふっとんでダウンする。
「すっげぇ、さすがチャンプだ! ギアなくても全然いけるじゃねぇか!」
「いけいけぇーっ、勇利!」
「勇利、かっこいいーーっ!!」
周囲の客は拳を振り上げて歓声を浴びせている。
熱狂する彼らに、何でそんな気楽に応援できるんだ、と歯噛みしたい気持ちで、キャットは組んだ手に力を込めた。
ここで終わってくれ、と祈る思いで見ていたが――ジョーは、立ち上がる。立ってしまう。
(……駄目だ。もう、あいつの応援は出来ない)
ジョーは好きだ。
自分とどこか似た空気を感じるし、泥臭い、不器用なまでに真っすぐな試合は、見ていて胸が熱くなる。
勇利のライバルとして、全力で闘ってほしいと、心から思っていた。
だが、もう駄目だ。
自分には、勇利しか見えない。
彼が命を燃やすようにして闘う姿を見てしまっては、その勝利を願う事しかできない。
(勇利……勇利)
観客が勇利コールを上げる中、キャットは声も出せず、体を縮こまらせ、心中で名を呼ぶ。――五ラウンドが終了した。
命のリミット。それが自分の思い過ごしではないと確信したのは、勇利が二度もボトルを落とすのを目撃した時だった。
ラウンドはすでに七まで進み、ジョーはもちろん、勇利にも疲労の色が見える。
通常、メガロボクスの試合はギアを装着しているが故に攻撃力が上がり、短いラウンドで派手な一発KO、それで試合終了する流れがほとんどだ。
それが、お互いギアをつけていない状態であれば、本来のボクシングのように長引くのは必定――とはいえ、
(勇利はセコンドが居ない。あれじゃあ、疲れる一方だ)
彼がボトルを拾えずにいるのを見かねたのか、サチオが差し入れしているのが眼に入る。
それを拒絶する事なく受け取ったのにはホッとしたが、このままでは勇利が参ってしまう。
(行きたい。セコンドにつきたい)
何の用意もないけれど、未熟なトレーナー見習いだけれど、セコンドにつきたい。
彼の傍にいて、彼をサポートしたい。
(……でも、駄目だ)
それは出来ない。
どの面下げてと躊躇する気持ちはあるが、それ以上に――勇利はただのボクサーとして、たった一人で闘う決意を抱き、白都もギアも捨ててあそこにいるのだと思うと、
(自分には無理だ。勇利の傍にいるのも、支えるのも。
……いま出来るのは、試合を見るだけだ)
ジョーに勇利が打たれるたびに目をそらすのを、歯を食いしばって堪える。
目をそらしてはいけない、ただの一秒も見逃してはいけない。
これは自分が、勇利が望み続けてきた、本物のメガロボクスだ。
(勇利)
握りしめた手に力がこもりすぎて、爪の食い込んだ甲にじわりと血がにじむ。
その痛みにすら気づかないまま、キャットは試合の行く末を見守る。
試合の流れは、やはり終始チャンピオン優勢で進んでいる。
――なのに、なかなか決着がつかない。
ジョーはもう、上体のどこも、打たれていない所がないほどに打たれている。
だが、何度ダウンしても、ジョーはふらふらになりながらも立ち上がり、勇利に立ち向かっていく。
ラウンドがカウントを重ね、ついに二桁に乗っても、状況は変わらない。
「……ギアレス・ジョー、あいつすげぇな。全然負けてねぇや」
「こんな熱い試合、メガロボクスでもボクシングでも見た事ないぜ。俺ぁジョーを応援するぞ!」
「ジョー、いけーっ! 勇利に勝てーっ!!」
「ジョー! ジョー!」
決して退かない彼の姿に、野次を飛ばしていた客たちの空気も変わる。
湧き上がるジョーコールに、キャットは唇を噛む。
(……くそっ。ダウンしたまま終わってほしいって思うのに)
ジョーがマットに沈むたび、早くテンカウントが終わってほしい、と念じてしまう。
それなのにどうして、彼がよろめき立つたび、……まだ立つのか、やれるのかと胸が熱くなるのだろう。
「ジョー……」
会場に入ってから初めて、声が出た。
その名前を呟いたのは、ロープ際で勇利のラッシュを受けて耐える姿に、見入ってしまうからだ。
(ジョーは闘ってる。きっとずっと、ああやって闘ってきたんだろう)
未認可地区の違法闘技場で賭けボクサーをしていたくらいだから、順風満帆な人生ではなかったはずだ。
理不尽な暴力に虐げられ、耐えなければならない事もあっただろう。ちょうどいま、勇利の猛攻に耐えているように。
(それが、自分と重なる)
勝手に重ねんなよ、とジョーなら言うかもしれない。
それでも、これまで歯を食いしばって生きてきた自分を見ているようで、勇利だけを見ていたつもりが、段々とジョーからも目が離せなくなっていく。
(ああ、そうか。自分はやっぱり、あいつになりたいんだ)
ふ、と手の力が抜けて、ほどける。
ぱたりと膝の上に落として、ジョーを、そして勇利を目で追う。
(ずっとメガロボクスをやりたかった。あいつらを、藤巻を見返したくて、ぶちのめしてやりたくて仕方なかった)
けれど実際リングに上がってしまえば、身勝手な敵意など抱えている暇はなかった。
命を賭けたぎりぎりの闘いの高揚感と、己の拳で全身全霊を持って挑むその開放感に酔いしれて、夢中になった。
(メガロボクスが好きだ。闘う事が、好きだ)
そう実感してより一層トレーニングに身が入ったし、その幸福を無残に断たれた時は、死を願うほどに絶望した。
自分は、メガロボクスが好きだ。
出来るなら、ずっとメガロボクスをやっていたかった。けれど、それはもう叶わない。
だからきっと、ジョーの試合を見た時に、あれほど興奮して居てもたってもいられなくなった。
あんな風に自由に闘えたらと、憧れを抱いた――勇利への崇拝のようなそれとはまた違う、ごく身近な、自分自身を映し出すような、そんな憧れを。
(ジョーになりたい。あんな風にリングに立ちたい。
あんな風に……勇利と、闘いたい)
ラウンドはとうとう、メガロボクス史上初の十三を数えた。
ブザーが鳴り響いて早々、まるでこれが一ラウンド目であるかのように、勇利とジョーは激しく打ち合い始める。
双方、満身創痍。
体にも顔にも赤黒い痣がいくつも浮かび、殴られた箇所から血を流し、マットに赤をまき散らす。
勇利はそれに加えて、内側から火で焼かれているかのように、ギアの傷跡が真っ赤に染まっている。
痛みは、どれほどだろう。
もう立っている事も出来ないくらいの激痛ではないか。
そう思うと、もうやめてほしいと叫びたくなる。
だが一方で、
「勇利!!」
「ジョー!!」
相手をねじ伏せようと渾身の力でぶつかり合う二人の、獣のような咆哮が響き渡るのを聞いてしまえば、
(勇利。ジョー。……勇利。ジョー、勇利)
二人の名前が自分の中でこだまし、目が熱くなって涙が込み上げてくる。
見ていたい。
二人がこのままずっと、リングの上で闘い続ける姿をずっと見ていたい。
誰よりも自由に、心から楽しんでいる勇利とジョーを、見続けていたい。
――だが、終わりの時は容赦なく訪れる。
契機になったのは、二人の腕が交差して、互いの顔に突き刺さるクロスカウンター。
ジョーのパンチはまともに勇利のテンプルをとらえ、対して勇利のグローブは浅くかすめるにとどまった。
「!」
がたっ、とキャットが椅子から立ち上がったのは、その後の残り九秒で、勇利が初めて膝から崩れ落ちたからだ。
チャンプのダウンに会場がどよめき、カウントすら聞こえなくなる。
(勇利)
周りは喉が枯れんばかりに叫び続けているのに、自分は声が出ない。
急速に干上がり、舌が張り付いて、口を開ける事さえ出来ない。
まさか。まさかそんな。勇利が
あるはずもない現実に一瞬、彼がよろめきながら立ち上がる光景を幻視する。
だが、カウントは無情に進み――
「十三ラウンド、二分五十一秒、KO! 勝者、チーム番外地、ギアレス・ジョー!!
ついに勝者が決まり、興奮のるつぼとなった会場は、歓声と踏み鳴らす足とで、思わずよろめくほどに揺れ始める。
その揺れでとっさに椅子に手をつくも――キャットは次の瞬間、客席を飛び出し、駆けた。
通路にも溢れかえる人々を突き飛ばすようにして押しのけ、前へ、前へと、荒れる海を泳ぐように進み、やがて最前列にたどりつく。
観客席とリングエリアを分ける、腰の高さほどの柵が前方を塞いだが、キャットは勢いをつけてそれを飛び越え、
「――勇利っ!!」
真っすぐ走りながら叫ぶ。彼はまだダウンしたまま動かない。その姿にあと少しで届く、というところで、
「こら、貴様! 待て!!」
サチオの時のように警備員たちが立ちはだかり、後ろに押し返そうとする。
それに抗してもがきながら、キャットはただリングに向けて、
「勇利……勇利、勇利……勇利ーーーーっ!!」
すがるように、泣き叫ぶように、その名を呼び続けた――