サムワン・フォー・プレイヤー

 ――深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上し、まぶたの裏に光を感じる。
 頬を撫でる優しい風に誘われるように目を開くと、頭上の窓は開け放たれ、白いカーテンがふわりと踊るように揺れていた。
 差し込む陽光に瞬いていると、鳥の鳴き声が耳に飛び込んできて、目覚めをさらに促す。
(……朝……?)
 ぼんやり目を瞬くと、顔がうずもれるほど柔らかい枕越しに、人影が見える。
 気になって少し頭を上げれば、陽光が降り注ぐ世界の中、彫像のように美しい横顔で目を閉じた男――勇利の姿が目に入った。
(……綺麗だ)
 つい声もなく見とれてしまう。
 もう神なんて思わないようにしようと決めたのに、彼は時折、自分の目には人間離れして美しく見えた。
(勇利)
 声に出さないまま呼びかけると、それが届いたように、ふっと長いまつげが揺れ、勇利の目が開いた。
 数度瞬きを繰り返し、緩やかに息を吐き出すと、身じろぎしてこちらに寝返りを打つ。と、視線が合った。
「…………」
 少し驚いたように軽く目を瞠った後、勇利はふっと笑う。こちらに手を伸ばしてきて、柔らかく頬を包み込み、
「……おはよう、シャル」
 低く、優しい声で語り掛けてくる。
 大きな手の温もりと少しざらついた固い感触に包まれて、自然と顔がほころんでしまう。
 胸に宿ったあたたかな気持ちを抱えたまま、それに答えるために息を吸い――

 ――目を開いた時、一番に襲ってきたのは、激しい頭痛だった。
「っ……ぐ……」
 鈍痛に思わず顔を歪ませ、額へ手を当てる。
 ブロックで殴られているような痛みはもちろん、口の中がカラカラに乾いていた。
 カーテンを閉めているから屋内は薄闇なのに、光が眼に刺さって痛む。
(……気持ち悪ぃ)
 やっとの思いで身を起こすと、脇の棚に置いたミネラルウォーターを手にした。
 顔をしかめて開けてゆるゆる口を湿らせ、ようやく半分ほど飲み干す。
 それでようやく一息つき、立てた膝に腕を乗せて、かくんと頭を下げた。
(あー……飲みすぎた)
 自分でも適量を越してるのは分かっていたのだが、飲まずにはいられなかった。このところ毎晩この調子で、いい加減、体が追いつかない。
「……はー……」
 我ながら酒臭いため息をもらしながら、薄い掛布を蹴ってベッドを降りる。
 床に散乱したビール缶を避け、のろのろ洗面台の前に立つと、蛇口をひねった。
 勢い余って周囲に跳ね散らかす勢いで水が出たが、調整するのも面倒で、そのままばしゃばしゃと顔を洗う。
 目を閉じたまま、手探りでタオルを掴み、ざらついた布で水を払ってようやく、少し目が覚めた。
 タオル越しにもう一度、息を吐いた。ゆっくり上げた視線の先には、白い汚れの浮いた鏡がある。
 そこに写っている自分の顔は、酷いものだ。
 クマで目の下は黒く、ろくなものを食べていないからやつれているし、二日酔いのせいで青白い顔色はまるで幽霊だ。
(ひっでー顔だな……。
 さすがに今日は、どっかで飯食べるか)
 そう思いながら三度、息を吐き――そして、不意に夢のかけらが頭をよぎって、めまいがした。
「っ……」
 よろけそうになって、洗面台に手をつく。
(……なんて夢、見てんだ)
 あれは、勇利と初めて夜を共にした日の朝、実際にあった光景だ。
 思い出してしまえば、あの時の幸福感に体中を焼きつくされて、より頭痛が増していく。
 もう二度と目にできない情景を、自分から手放したくせに、
(未練たらたらなのは、どっちだ?)
 吐き気がこみあげてきたので、よろめきながらトイレに駆け込んだ。
 いっそこんな思い出も全部、流してしまえればいいのに、と思いながら。

 数日ぶりに安モーテルを後にして、街へ買い物に出向いた。
 日の光にまだしぱしぱする目をこすりながら、食料品店へ立ち寄り、適当に朝食を買いあさる。
 さすがに食欲がないので、果物をいくつかとジュース、栄養ドリンクを手にぷらぷらとレジへ向かえば、愛想のない店員が、こちらの顔も見ずに清算を始めた。
 ぼんやりとその手元を眺めていたが、
『……では、チャンピオンに伺います。
 メガロニア開催当初から……』
「!」
 不意に聞こえた言葉に、びくっとして顔を上げた。
 レジの奥、古びた棚の上に、赤い小さなラジオが置いてある。
 店と同様におんぼろなのか、かなり音が割れていて聞こえにくいが、
『……何も……勝者が残る。それだけだ』
 その声は間違いなく聞き取る事が出来て、息が止まりそうになった。
(勇利)
 低く落ち着いた、揺るぎのないトーン。
 夢で聞いたのと同じ声質だが、それでいてまとう空気はまるで違う……これは、チャンピオンの声だ。
「っ……」
 とっさに見下ろすと、レジ前のスタンドに、新聞が無造作に刺さっている。
 キャットはメガロボクスタイムズに手を伸ばし、それを会計の列に加えた。

 足早に公園へ向かい、適当なベンチに腰掛けた。
 朝食もそっちのけで新聞を手にし、開こうとして、一瞬ためらってから、恐る恐る開く。
 新聞の内容は当然、メガロニアの記事一色だった。
 キャットはこのところ引きこもっていたので、ここ数日の動向をまるで知らない。
 確かまだバロウズの対戦相手が未定だったはずと目を走らせて、息を飲む。
「ジョー……あいつ、本当にメガロニアまで来たのか!」
 ファイナルワンとして堂々と写真を飾られているのは、ギアレス・ジョーの姿だった。
 その自信に満ちた表情を目にして、ぞくぞくっと背中に震えが走る。
(たった数か月で最下位からトップランクへなんて、あいつ、凄すぎるだろ……!)
 これは、バロウズ戦を是が非でも見に行かなくては。
 興奮のまま目を走らせていたら、最後に勇利の記事に行き当たって、うっと動きを止めてしまう。
 彼については、これまでと同じ内容だ。
 メガロニアトーナメントの当初から優勝候補の筆頭と目されてきたチャンピオンの第一戦は、メキシコからやってきたペペ・イグレシアス。
 ここ数年でめきめきと実力を身に着け、変則的なスタイルで相手を翻弄する『スパイダー』との対戦がどうなるのか。
 新聞は各方面の見解を戦わせて、試合への期待を煽っている。
(……勇利)
 名前を声に出すことも逡巡して、キャットはそっと紙面、勇利の写真の上に手を置いた。
 自分が失踪してから後、少なくとも見た目は変わりないように見えて、ほっとする。
「……試合、今日だよな」
 先ほどラジオから漏れ聞こえたのはおそらく、ファイナリストたちの記者会見だろう。
 いよいよメガロニア当日となって、勇利は今、静かに時を過ごしている頃だろうか。
(…………試合が、見たい)
 そう思う。
 思うが……ためらいを覚えて、吐息を漏らした。
 ばさりと新聞を閉じ、食料品店の紙袋からりんごを取り出して、皮ごとかじる。
(顔を見にいくなんて、出来ない)
 勇利の試合は見たい。何しろずっと待ちわびていた、メガロニアの大舞台だ。
 勇利があのスタジアムでキングとして立ち、選りすぐりの強者たちと拳を交わすのを見たい。そう願い続けてきた。
 だが……事ここに至って、自分がそれを見に行くのは、不遜に過ぎる。
(まさかあの広い会場で、勇利やオーナーと出くわすなんてないと思うけど)
 万が一、という事はなくもない。
 いやそもそも、足を踏み入れるのが怖い。見たいけど、見られない。
「……自業自得だ」
 相反する感情を持て余し、キャットは額に手を当てて、一人呻いた。頭痛も喉の渇きも、まだ去らない。

 ――結局、夜になって近所の酒場へふらっと出向き、テレビ観戦をすることにした。
 未認可地区は貧民の集まりなので、テレビを持っていない人間も多い。
 その上、メガロニアという一大イベント、チャンプの試合を一目見ようと、人が押し寄せていた。
 キャットは何とか画面を見上げられる席を確保し、ビール瓶の口に刺さったライムを押し込みながら待つ。
 ……そしていよいよ、時が来た。
『ついにこの日がやってきました!
 メガロボクスの頂点を決める闘い、メガロニアの火ぶたが切られようとしています……』
 画面に大観衆で埋め尽くされたスタジアムが映ると、店内でもわぁっと歓声が上がる。
 キャットの近くにいる中年男たちの集団が、
「なあ、どっちが勝つと思うよ? ペペか? 勇利か?」
「そりゃあお前、チャンピオンに決まってらぁ。
 無敗のチャンプが、あんなメキシコ野郎にやられるわけねぇ」
「いやいや、ペペも最近は相当よくなってるぜ。
 何しろ勇利は、王道すぎるほど王道なだしな。あの変則技に対応出来なくて、って事もありうるだろ」
「ねぇよ、何なら賭けるか? 俺ぁもちろん勇利だ、負けたら今日の分奢ってやるよ」
「おぉいいじゃねぇか! なら俺はペペだ!」
 試合開始前から盛り上がっている。
 気楽に見られるのが羨ましい、とため息をついたら、それが聞こえたのか、
「よう、そこの姉ちゃん! あんたも試合見に来たんだろ? どっちに賭けるよ!」
などと飛び火してしまった。すでに酒が回ってるらしい、赤ら顔を見返したキャットは一瞬黙ったあと、
「……勇利、だ」
ためらいがちにその名を口にする。
「そらな、やっぱり女は顔がいいほうが好きなんだよ」
「かーっ分かってねぇなぁ、ペペのいぶし銀の良さをよ!」
 答えた途端、好き勝手に騒ぎだす男たちに、
(そうじゃない。自分はずっと、ずっと、勇利が)
 思わずむっとして反論しかけた時、
『続きまして、ウェストコーナー!
 IMAランキング一位、チーム白都所属、キング・オブ・キングス――勇利ィィーッ!!』
「!」
 コールと共に、ボクシングガウンをまとった人影が、スポットライトに照らし出された。
 息を飲んでその姿を目で追うと、優美な仕草でリングに上がったキングは、セコンドにガウンを取り払われ、一体型ギアをまとったその姿をさらけ出す。
(……勇利)
 ぎゅ、と瓶を握る手に力がこもる。
 新聞を見た時も思ったが、傍目にはいつもと変わらないように見える。
(良かった。ゆき子さん、ちゃんと守ってくれたんだな)
 あの後、藤巻の動向を探って、本当に勇利から手を引いたのか疑っていたが、どうやら懸念だったようだ。
 自分が姿を消したせいで、余計な心労をかけていないかも心配だったが、特に問題なさそうだ。
(それは当然か、勇利だもんな。メガロニアに向けて集中してれば、忘れるだろ)
 むしろそうであってほしい。でなければ、あんな伝言を残したりはしない。
 勇利が自分を忘れてくれれば、心置きなくあの思い出を抱えて、この先一人でも生きていける。
 ――そんな物思いにふけっている合間にブザーが鳴って、第一ラウンドが幕を開けた。
 最初の打ち合いはお互い、様子見をしているようだった。
 挑戦者が軽く放ったジャブを、キングはグローブの内側で受ける。
 続けて放った勇利の左を、ペペは大仰にのけぞって避けた。威圧的なまでに胸を張って上体を戻し、軽快かつ複雑なフットワークで舞うように相手を翻弄する。
 両者の攻防は、一歩も譲らず。
 さすがIMAランキング一位と二位の試合は、どちらも技術に優れていて、見ごたえがあった。
 打ち合うたび、見事な体さばきで相手の攻撃をしのぐたび、テレビ越しの店内も湧き上がり、皆が皆、夢中になって画面に釘付けになっている。
 キャットも無論、そのうちの一人だ。
 ひとときも目を離す事なく、じっと試合の様子を見つめていたが――ふと眉根が寄る。
(……メガロニアなのに。勇利は、いつもと同じだ)
 メガロボクスの頂点を決める世界大会。
 相対するのも世界を戦い抜いてきた強者で、一筋縄ではいかない相手だ。
 それなのに勇利はまるで、普通の試合をこなしているかのように、淡々と挑んでいる。
 ペペを侮っている訳ではないだろう。
 ただ勇利は、正確に相手と自分の力量を読み取って対応しているだけで……キャットはやはり、そこに熱を感じる事が出来なかった。
(駄目なのか、勇利。メガロニアでも、あんたは熱くなれないのか)
 そう思うと、胸が痛くなる。
 リングに上がれば上がるほど、どんどん冷めていく勇利を見てしまった後では、彼はもうメガロボクスで心の赴くままに楽しむ事はできないのでは、と思ってしまう。
(勇利。あんたがやりたかったのは、本当にこれなのか?)
 ただ勝つために闘う。そこに勝負にかける熱や勝利の喜びがなければ、それは闘うためだけの機械のようだ。
 キングがまとう一体型ギアは、彼を人でない物に変えてしまったのか。
(でもあんたは、機械なんかじゃないのに)
 共に過ごした時間、この目で見てきた勇利は、寡黙であっても確かに、感情のある人間だった。
 あれほどに優しく情の深い人が、生きがいとも言っていいメガロボクスであんな風に冷えてしまうのは、どう考えてもおかしい。
 どうすれば、自分が知っている彼のように、リングの上で心をあらわに出来るのだろう、と考えたところで――
『あーっ! ついにペペが勇利をとらえた!』
「!!」
 二ラウンドに入って打ち合いが続いたすぐ後、ペペの左が勇利の顔に突き刺さった。
 試合が始まってから初めてのヒットに、店の中で歓声と悲嘆の声が同時に上がる。
 キャットはハッと息を飲んだが、それは攻撃に驚いたからではない。
(――来た!)
 狭いテレビの画面では分かりにくいが、距離を取ってガードを固めた勇利、その気配が変わった……ように思えた。
 ぎっ、と瓶を握る手に更なる力がこもり、キャットが身を乗り出すと同時に、勇利は滑るようなフットワークで近づき、相手のグローブの下をくぐり――

 次の瞬間、ペペの顎が勢いよく跳ねあがったかと思うと、スパイダーはあっけなくその場に崩れ落ちた。

「……な……えっ、何だ? 今何が起きた??」
「ペペがダウンしたぞ! おい、どうなってんだ!」
 あまりにも一瞬の出来事に、騒々しかった店の中が静まり、ついで戸惑いの声があちこちから上がり始める。
 ざわざわと語り合う人々の中で、くいっと煽って瓶を空にしたキャットは、
「……左フックだ」
 誰にともなく呟いて、席を立った。
 人をかきわけて店から出ると、そのまま夜道を足早に歩きだす。
 結果は見るまでもないと分かったから、もうここにとどまる必要がない。

 ミリタリージャケットのポケットに手を入れて背を丸めながら、キャットは黙々と歩く。
 視界に映るのは舗装されていない、足場の悪い道だが、その目が見ているのは、勇利の勝利の瞬間だけだ。
(アッパーの後に左フックが、弾丸みたいにペペのテンプルに入った。あれは多分、見えなかっただろうな)
 白都のジムで勇利を含めて多くの選手を見ていたから、辛うじて分かった。
 あの瞬間、相手の懐に入り込んだ勇利はたった二発で、ペペをマットに沈めてしまった。
(……あれが、キングだ)
 足が止まったのは、底知れない震えに襲われたからだ。
 ポケットから出した両手は小さく揺れて、きつく拳を握りしめなければ止められない。
 その手を顔に当てて、勇利、と呟く。
(そうだ。見たいのは、あの勇利だ。
 ……ほんの一瞬だけど、あの時、熱があった)
 それはまるで熾火のような、それでも確かに存在している熱。
 自分がずっと待ち望んでいた、生身の勇利が抱える闘争心の欠片。
 それが垣間見えた事に、喜びを感じずにはいられない。
(勇利。……勇利、勇利)
 きつく目を閉じる。
 手を押し当てていなければ、涙がこぼれてしまいそうで、ぎっと歯を食いしばる。
 泣いてはいけない。泣く権利なんて自分にはない。
 だから、その代わりに祈る。
(どうか勇利が、心から自由に、メガロボクスを楽しめるように)
 神なんていない事は知っている。
 もしいるのなら、生きる事はこんなに苦しくないだろう。
 けれど、野良猫がたった一つ抱いたこの祈りだけは、拾い上げてほしい。
 他の何が叶わなくてもいい、何を奪われてもいい、どうかこれだけは聞き届けてほしいと、希って低い声で呻いた。

 ――お願いします、神様。
 どうか勇利を、リングの上で、誰よりも自由にしてください。お願いします……お願い、します……!――