ファースト・コンタクト

 その名を知ったのは、メガロニア開催まで二か月を切った頃だった。
「おばちゃん、はよっす。新聞一部、頼むわ」
 よく立ち寄るニューススタンドの前にバイクを停めたキャットが声をかけると、顔見知りの店主がはいはい、とにこやかに応じた。
「今日は何か面白い話はあるかい、おばちゃん」
 多くの人が利用するスタンドで働く彼女の耳には、街の噂や情報が集まりやすい。
 いつものようにメガロボクスタイムズを買いながら、何の気なしに尋ねてみれば、店主は新聞を指さした。
「これ買う人はこのところ、ギアレス・ジョーの話をしてるわね。
 いま人気らしいわよ。最下位からどんどんランクアップしてるんですって」
「ギアレス・ジョー? ……メガロボクスの話だよな?」
 ただのボクシングならともかく、ギアあってこそのメガロボクスで、ギアなしレスとは何の冗談か。
 そうよねぇ、と人のよさそうな笑顔の同意が返ってきた。
「でもそれが面白いんですって、わたしにはよく分からないけどねぇ。
 新聞でも取り上げてるから、見てごらんなさいな」
「わかった、後で見てみるわ。サンキューおばちゃん」

 ――そしてその日の昼。
 ようやく時間が出来たので、食堂を訪れたキャットは日替わり定食を持って、席についた。
 さて新聞を読むかと広げて、
「……んっ?」
 開いた途端、視界に飛び込んできた写真に目を瞠った。
 ――経歴の知れない謎の新人ボクサー、ギアレス・ジョー。
 それはスタンドの店主が言っていた、男の記事だ。
 メガロボクスにギアなしで参戦してきたその男は、最下位スタートしたというのに、あっという間に三戦勝利をもぎ取り、破竹の快進撃を続けているという。
 ギアを身に着けずに生身で泥臭く闘うジョーの姿に、ファンが急増しているらしい。
 一方、メガロボクスという過激なエンタメスポーツに対する賛否両論まで引き起こしているようだが……そのあたりの細かい内容は、後で読んで知った。
 記事を最初に見たキャットの視線は、紙面に大写しのギアレス・ジョーへ釘付けになった。
 そこで不敵に笑っているのは、顔に傷のある、くしゃくしゃ頭の若い男……。
「……ジャンクドッグ?」
 口から零れた名前は、時を経るにつれ、少しずつ記憶の奥へと追いやられ始めていたもの。
 もう二度と顔を見る事もないだろうと、惜しむ気持ちを抱いていた男。
 思わずがたん、と椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
 両手で新聞を握りしめ、写真を穴が開くほど凝視しても、間違いない。
 地下で勇利に挑んだ男が、公式試合に出場している。
(マジか……あの野郎、本気で勇利のリングに上がろうとしてる!)
「……!!」
 ぞくぞく、と背筋に震えが走って、息を飲んだ。
 食事をするつもりだったのが一気に消し飛んで、他の事が考えられなくなる。
 キャットは定食も倒れた椅子もそのままに、身をひるがえして走り出そうとした。
 勇利に知らせて、と思うと同時に、
(――いや、待て。いま知らせてどうすんだ)
 冷静な考えがよぎって、足が止まる。
 しわくちゃになった新聞を改めて読んでみれば、ギアレス・ジョーの現在の順位は百二位。
 参戦してから、短期間のうちに最下位からランクアップしている。そのスピードは驚異的だ。
 とはいえ、今からメガロニア開催まで届くランクかといえば、奇跡でも起きない限り、無理があるだろう。
(こいつが勇利の挑発をまともにとったのはいいとして……本当に闘れるかどうかわからない。途中敗退するかもしれないじゃないか)
 だとすれば、それを知らせても意味がない。
 もし勇利が再戦したいと思ったとしても、その相手が結局勝ち上がって来なければ、失望するだろう。
(…………教えるのはやめておこう。上にあがってくれば、嫌でも耳に入るだろうし)
 そう結論づけるも、一度跳ね上がった気持ちはおさまらない。
 居てもたってもいられなくなって、すぐ食堂を後にし――

 そして、ギアレス・ジョーのジムがある川べりまでやってきて、バイクを停めた。
(あそこがあいつのねぐらか)
 未認可地区に住んでいるようだと聞きつけ、藤巻に見つからないように気を付けながら情報収集した結果、行き当たったのがこの場所。
 住処らしい船が川に浮かび、橋の下の空間を使って、サンドバッグやリングが設置されているが、
(吹きっ晒しのおんぼろジムじゃないか。
 なんつーか……ハングリーというか、ジャンクドッグらしいというか)
 地下にいた時、身に着けていたジャンクギアから考えても、実入りが良さそうには見えなかった。
(ギアレスは売名って話もあったけど、単純に金もないんだろうな)
 そんな事を思いながら、キャットはエンジンを切った。
 土手の上から見る限り、人影は見えない。もし誰かいるとすれば、船の中か。
(……勢いでここまで来たけど、どうするかな。顔の一つも見たい気はする)
 しかし、自分が一方的に彼を知っているだけなのに、いきなり訪ねて行って歓迎されるはずもない。
 ファンです、とでもいうか。
 ……いや嘘は苦手だ。絶対すぐばれる。
 そもそもそんな嘘をついてまで、会いたいわけでもない。
(遠目にちらっと見てみたい、くらいなんだよな……。むしろ行きつけの店でも聞いてくりゃよかったか)
 今は地下に出入りもしていないようだし、様子を窺うにも、ここでは見晴らしがよすぎる。
 どうしたものか、と二の足を踏んでいると、
「……あれ? あんた……野良猫ストレイキャット、だよな?」
「!」
 不意に背後から声がかかったので、反射的に振り返った。
 土手の向こうから歩いてくる人影――呼びかけを発したのは、オレンジ色の帽子をかぶった子ども。
 そしてもう一人、その後ろからゆっくりやってきたのは、
(! ジャンクドッグ!)
 探していた相手がまさにそこに現れたので、思わず息を飲んだ。
 あんた、と言いかけるが、子どもが目の前で立ち止まって、
「やっぱり野良猫だ。こんなとこで何してんだ?」
 知り合いのように話しかけてくる。
(何だ? こいつ……、あっ)
 一瞬訝しく感じたが、思い出す。
 そういえば以前、土手で一緒にファストフードを食べた、あの子どもだ。
「お前……えーっと」
 名前。そういえば名前を聞いてなかったと言葉に詰まると、相変わらず察しのいい子どもは、
「サチオ。俺はサチオだよ」
 手に抱えた紙袋を持ちなおして名乗ってくる。
「ああ……サチオ、な。あの時はどうも」
「何だよ、また何か悩みごとあってウロウロしてんのか?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
 どういったものかと眉間にしわを寄せた時、
「――おい、サチオ。そいつ、知り合いか? 野良猫?」
 サチオと同じ紙袋を抱えて立ち止まったその男が、声を発した。
 不思議そうにこちらを見る顔は、記事の写真と同じ……そして、地下で見たのと同じ。
『こんなもんかよ、本物のメガロボクスってのは』
 勇利に投げつけたあの声も、たたずまいも何もかも。
 試合によるものか、怪我が増えているとはいえ、寸分狂いなく同じだった。
(間違いない。こいつ、ジャンクドッグだ)
 本人を目の前にして確信すると同時に、ぶるっと震えが走る。
 ドキドキと胸が高鳴り、声が出せないまま、ただじっと見つめてしまう。
「……?」
 その様子がおかしいと思ったのか、ジャンクドッグの太い眉が寄る。それが不快の色を帯びる前に、
「知り合いってほどじゃないけど、前話した事あるんだ。
 それにこの人、ジョーより前にトーナメントに出てたんだよ。野良猫ってリングネームで」
 サチオが気を利かせて紹介をしてくれる。
 途端、ああ? と素っ頓狂な声が上がった。
「試合に出てた? あんたが?」
「……」
 これはなじみ深い反応だと思ったら、急にすっと気持ちが冷めた。
 女がメガロボクスなんて、とはこれまでさんざん言われてきた。
 トーナメントに出ていた時に受けた取材でも、なぜ女性がメガロボクスをやろうと思ったんですか? 他に女性向けのスポーツがあるでしょう、と何度も質問されてきた。
 相手に悪気はないのだろうし、いい加減慣れて諦めてはいるが、まともに話をしようという気はなくなる。
(こいつも同じか)
 一時でも自分を重ねて同一視していた相手も所詮、とすねかけた時、
「……へぇ、そりゃ大したもんだ。俺より先って事は、あんたはセンパイって訳か」
「!」
 ジャンクドッグがふっと表情を和らげたので、意表を突かれた。
 センパイ。センパイ……。
(……やべ。何かいい響きだ)
 本気で言ってる訳ではなかろうが、それにしても悪い気はしない。思わず顔が緩みそうになって、
「あ、あー……いやそういっても、もう引退してるよ。
 今はもうやってない。トレーニングはしてるけど」
 ごほんと咳払いして答える。そうか、とジャンクドッグは頭を傾けた。
「そりゃ残念だ。あんた、何位だったんだ」
「八十二」
「八十二!? 今の俺より上かよ、小せぇのにすげぇじゃねえか。
 そうなると引退なんて惜しいな。時期が合ってりゃ、あんたとも闘れたのに」
(――ああ。それが出来たら、どんなに良かったか)
 もしこの男とリングで対面したら、それは確かに楽しかったかもしれない……いや、きっと心から楽しめただろう。
 生身と、性別のハンデをそれぞれ背負いながらも、全身全霊を込めて、互いの全力を出し切る戦いが出来ただろう。
 それはもう、絶対叶わないのだけれど。
「……そうだな」
 ちく、と胸に痛みが刺したので、口の端を上げて笑う。その話を続けるのは辛くて、視線を伏せると、
「で、ここで何やってんだ? 何か偶然通りかかったって感じでもないし。
 ……もしかして、ジョーに会いに来たのか?」
 サチオが問いかけてきた。
 相変わらず鋭い奴だ、と苦笑したキャットは、バイクに寄り掛かって足を組んだ。
「ああ、まぁそうだな。……今話題のギアレス・ジョーがここにいるって聞いたからさ。ちょっと顔見てみたくて。お前が一緒にいるとは思わなかったけど」
「俺はチームのブレインなんだ。
 ジョーはギアの事も相手選手のデータもさっぱりだし、おっちゃんも半端に知識持ってるから下手うつしな」
「言ってろよ、ったく」
 得意げに胸を張るサチオの頭を、軽く小突くジャンクドッグ。
 もう一人『おっちゃん』ってのがいるのかと思いながら、
「でも、思ってた以上にこじんまりしてんだな、あんたら。ここ見てびっくりしたよ、野ざらしじゃないか」
 ジムの方を親指で示すと、男は肩をすくませる。
「見かけじゃねぇよ。大事なのは中身だろ」
「……ふーん。だから『ギアレス』? あくまで生身で勝負って事か」
「ま、そんなところだな。で、俺に会ってどうするんだ。サインの一つでもねだりにきたのか」
 皮肉混じりの物言いで、にっと笑ってみせる。
 その人を食ったような態度にふと、親近感が湧いた――のは、自分もこういうところがあるからだろうか。
(ああやばいな。こいつ、好きになりそうだ)
 もとより地下の時から面白い奴だと思ってはいたが、いざ話してみると、直感的に好感が持てる。
 ひねているのにどこか素直な、まっすぐな目と物言い。
 勇利が最初にひかれたのも、こういうところなのかもしれない。
「――いや、別にあんたのファンってわけじゃないから、サインはいいや」
「あん?」
 だからキャットも素直になることにした。ポケットに指を引っかけ、軽く頭を傾けると、
「今日は、確かめに来ただけなんだ。ギアレス・ジョー、あんたが――ジャンクドッグなのかどうかって事をさ」
 何でもない事のように、さらりとその名を口にする。途端、
「!」
「ジャンクドッグって……それ、ジョーの前のリングネーム!」
 一気に警戒の色が強くなり、はっと息を飲んだ二人が身構える。思っていた以上の固い反応に、少し意外さを感じた。
(そういや謎の新人ボクサーって肩書きか。あんだけ地下で派手にやったら、簡単に漏れそうなもんだが)
「……そいつを確かめて、どうしようってんだ?」
 鋭くこちらを見据えるその表情こそ、まさしく野良犬が牙をむいているかのようだ。
 警戒する眼差しは、自分がこれまで馴染んできた世界と近しい。奇妙な懐かしさを覚えながら答えようとしたら、
「――そういえばあんた、チーム白都だったよな」
 今度はサチオがキッとこちらを睨みつけてくる。
 子どもにしてはらしくないほど、刃をこめた目は強い敵意があふれていて、
「もしかして白都の回しもんか? ジョーが勝ち上がってきたから、いちゃもんつけにきたのかよ!」
 噛みつくような怒鳴り声を浴びせてくるに至り、すっかり気がそがれてしまった。
(……何だ? 白都が嫌いなのか?)
 未認可地区こちらにいれば、認可地区あちらの象徴とも言える白都を妬むのも分からなくはないが、それにしても……いや、そんな事より、今は誤解を解くのが先だ。
 キャットはひらひらと手を振って、
「そんなんじゃない。確かに自分は白都のもんだけど、ただのトレーナー見習いだし」
 それに、と肩をすくめる。
「もしあんたが、地下賭博の八百長ボクサーだったって白都に知られてたら、今頃こんなのんびりお喋り出来るかよ。
 とっくに問題になってるさ」
「じゃあ、何しにきたんだよ」
 サチオに刺々しく詰問され、だからとバイクに手をつく。
「確かめに来たんだっていったろ。
 ――あんた、このあいだ勇利と地下で試合やったよな」
「! 見てたのか」
「まぁ……見てたっていうか」
 そもそも勇利と一緒にきたのだが。それは言う必要がない。
「ジャンクドッグって面白い奴が地下にいるんだって思ってさ、気になってたんだよ。
 で、そいつが今、メガロニアトーナメントで名を上げてるなんて新聞に載ってたら、そりゃ確かめにも来るだろ」
 そう告げると、それもそうか、という顔でジャンクドッグは納得したようだ。
 だが、サチオの方はまだ警戒心もあらわに、
「そんな事いって、ジョーの偵察しにきたんだろ。
 色々かぎ回って、出られないように手を回すつもりなんじゃないか」
 突っかかってくるので、あのなぁ、とため息をついった。
「本人目の前にして悪いけどな。今のところジムで、ギアレス・ジョーの名前なんて聞いたことない。
 トップランクにいるチーム白都としちゃ、下位の選手なんかいちいち取り合わないんだよ」
「……つまり、眼中にねぇって事か」
「ああ。今はまだ、な」
 ぎっ、とバイクから離れて、男の前に立つ。
 勇利ほどではないが、彼も背が高い。
 傷だらけの野性的な顔立ちは野良犬ジャンクドッグの名にふさわしく、それでいて真っ直ぐな眼差しは、どこか純真な印象を与える。その胸に軽く拳を当てて、
「でもあんた、メガロニアに行くつもりなんだろ」
「!」
 ニッと笑って言えば、茶色の瞳が大きく見開かれる。
「それならこれから、白都はあんたを絶対無視できなくなる。
 何しろギアテクノロジーをアピールする大会で、ギアなしの選手が、まかり間違ってトップ四枠の中に食い込んでみろ。
 オーナーは公明正大な人だから、結果を出せば文句を言わないだろうけど、他の連中はなにかしら、横やり入れてくるだろうな」
「その方が、あんたらには都合いいんだろ」
 まだ噛みついてくる少年の頭に、キャットはジャンクドッグから移動させた手を乗せた。逆さ、と言う。
「これから先なにがあろうと、ギアレス・ジョーがメガロニアに出て欲しい。自分はそう思ってる」
「……あんた、俺のファンじゃないって言ってたよな?
 まさか俺が、決勝で負ける方に賭けたい、とでも?」
「それこそ、まさか。自分はあんたが、ガチで勇利とやり合うところが見たいだけだ」
 そうだ、それが見たい。
 あの地下の時のように、勇利がメガロボクスのリングで楽しんでいるところが見たい。
(もしこいつがこのまま勝ち抜けば、それが叶う)
 地下で余興を仕掛けるのではなく、真剣勝負、夢を賭けたメガロニアの大舞台。
 そこで命知らずに噛みついてきた野良犬相手に、勇利が本気で向き合う姿を目にする事が出来たら――想像しただけで、胸が熱くなる。
「……あんた、俺じゃないとしたら、勇利のファンか? いいのかよ、俺があいつに勝っても」
 変な奴、と言いたげに笑って、ジャンクドッグが尋ねてくる。何を抜かしやがる、とキャットは腕を組んだ。
「うぬぼれるのも大概にしろよ。
 勇利は世界一強いんだ、負けるわけないだろ。あんたが決勝に行くまでは応援してやるけどな、あんたは勇利を楽しませてくれればそれでいいんだよ」
「楽しませる?」
 なんだそれは、と言いたげに眉を上げるジャンクドッグ。そこへ突然、
「……あっ! もしかしてあんたが前に恋愛相談してきた相手って、勇利なのか!?」
「!!」
 サチオが素っ頓狂な声を上げたので、ぎょっとしてしまった。あまりにも不意打ち、かつ的を射ていたので思わず絶句してしまうと、
「恋愛相談? 何の話だよそりゃ」
 話が分からないジャンクドッグが、更なるハテナマークを顔に浮かべて問いかける。
「ちょ、さ、サチオまっ」
「まえ、話したことあるって言ったろ?
 その話の内容が、身近な男に告られて困ってるみたいな恋愛相談だったんだよ。さっきの口ぶりだと勇利っぽいから、もしかしてと思って」
 止めようとしたのに、すらすらとサチオが説明してしまったので、今度はジャンクドッグが、はぁ!? と声を跳ね上げた。
「じゃ、あんたまさか、勇利の女なのか!」
「ぅがっ」
 勇利の女。そのフレーズのインパクトに殴られたようになって、思わずよろけた。
 なまじ、周囲の人間には秘密にしているだけに、こう面と向かって指摘されると、ダメージがでかい。
 思わずよろっとバイクにすがり、かーっと顔が熱くなっていくのを感じながら、
「そ……、……そういうのは、良いだろ、そういう話は……」
 とっさに嘘をつけず、かと言って正直に肯定するのも抵抗があって、もごもごと呻くしかない。
「……マジか……。あいつ、あんなしれっとした顔で、ちゃっかり女いるのかよ……」
「本当にあれ、勇利なのか……まさかと思ったのに」
 男二人も衝撃を受けたのか、思い思いに呟いている。
 くそっ、ほっといてくれ。今日はそんな話しにきたんじゃないんだ!
「……そ、それはともかくだ。今日はあんたの顔拝みにきただけだから、帰る」
 キャットはごまかすようにバイクのスタンドを上げて、またがった。エンジンを入れ、かぶったメット越しにジャンクドッグを振り返る。
「とにかくあんたは、早く勇利のリングに上がって来いよ。
 自分も、……一言もそんな事いわないけど、たぶん勇利も。あんたを待ってるからさ」
「……ああ。念を押されるまでもねぇよ」
 しゅっ、と拳が突き出され、腕越しに彼がニッと笑う。
「俺は必ず、何があろうと、勇利と闘る。
 それまで絶対に負けねぇから、首洗って待ってろ――って、あんたの男に伝えておきな」
「ぐっ……、だ、誰が伝えるか、自分で言え!」
 キャットは真っ赤になりながら言い返し、勢いよくバイクを発進させた。
 逃げるようにしばらく走った後、バックミラーでちらっと視線をやると、二人の人影が、船に向かって降りていくのが見えた。
(……ジャンクドッグ)
 初めて言葉を交わした野良犬は、今はまだ脅威となるほどではない。だがきっとこの先、波乱を引き起こす。
 そう予感できるだけの空気をまとった男だと知れた上、それがきっとチャンプを燃え上がらせるだろうとも思えて、嬉しさがこみあげてくる。
 これから先、あの男の行く末が楽しみで、胸が躍るようだ。こんな高揚感は、勇利を初めて見た時以来かもしれない。
(ジャンクドッグ……ギアレス・ジョー、か)
 川向うに行く橋へとバイクを向けながら、キャットはその名前を胸中に上書きし、知らず知らずのうちに笑ってしまった。
 ああ、本当に――メガロニアが楽しみで、仕方がない。