リンガリング・セント

 一日を終え、街の賑わいから遠ざかり、静寂に包まれた我が家に帰る。
 聞こえるものといえば周囲の森を駆け抜ける風の音、それに乗って届く波音。
 穏やかな暮らしは、日々闘い続けている中で一時の休息だ。
 どれだけ気を張り詰めていても、ここに戻れば誰に邪魔される事なく、存分に身を休める事が出来る。
 ――その我が家が、今日は少し、落ち着かない。

 シャワーで汗を流し、夕飯を終え、後は寝るばかり。
 いつかも同じことをしたな、という思いがよぎったのは、ベッドを前に立ち尽くした時だった。
(あの時は緊急事態だった)
 ゴロツキに襲われた女を匿ったはいいものの、らしくない事をした、もうあの女には関わるまいと心に決めた。
 それが今日、全く違う心持ちになっているのは――いうまでもなく。昨夜、シャルと呼ぶようになった彼女と、夜を共にしたからだ。
(もう居ないだろうとは思ったが)
 勇利が帰宅した時、家の中は真っ暗。いつものように大人しく留守番していた犬の出迎えを受けただけで、彼女は居なくなっていた。
 家の前にバイクは無く、渡した鍵はポストの中に入っていたから、無事帰ったのだろうが、
(……少し、期待してしまったな)
 もしかしたら、彼女がお帰りなさい、と迎えてくれるかもしれない。心のどこかでそう考えていた自分に気づき、苦笑した。
 いくら心身ともに通じ合ったとはいえ、いささか浮かれすぎだ。
(あいつは俺に執着しすぎだと考えていたが……人の事は言えないな)
 一度肌を合わせれば、少しは気持ちが落ち着くかと思っていたのに。
 昨夜、彼女の足腰が立たなくなるまで抱いてなお、ここにいてほしいと願うのは、欲に見境のない若造のようだ。むしろいなくて良かったのかもしれない。
 そう思いながら、勇利はベッドに上がった。掛布の下に滑り込み、ベッドサイドの灯りを消す。
 柔らかく彼の頭を受け止める枕に顔を埋め、
(明日は早い。余計な事を考えずに寝よう)
 そう決めて目を閉じた時、ふかっ、とベッドに重みがかかった。
「!」
 飛び乗ってきたのは犬だ。
 いつも寄り添って寝る彼は、居場所を探して、掛布をぼすぼすと踏みしめた。
 その場で何度かぐるぐる回った後、ようやく気に入った所があったのか、勇利の足にどすんと尻をぶつける格好で丸くなる。
「…………」
 この儀式自体は毎夜なので、慣れている。
 しかし……犬が動きまわるたび、ベッドが沈み込んで、空気の塊が吹き出し、何度も顔に当たった。それが、
(シャルの匂いがする)
 以前は全く感じなかった、だが間違いなく彼女の、柔らかな甘い香りを微かに含んでいる。それに気づいた勇利は、何とも言えない気持ちになってしまった。
 そして同時に、
『……うん。好きだよ、勇利』
 甘く囁くシャルの声と共に、昨夜この場所であったあれやこれやが一気に蘇ってきてしまい、誰にともなく咳払いをする。
(……寝よう)
 これから毎晩こんな気持ちになるのだとしたら、ここで事に至ったのは、失敗だったかもしれない。
 そう思いながら、勇利は匂いも記憶も遮断して目を閉じた。
 ――あの続きを夢に見てしまわないかと、恐れと期待を半々に抱きつつ。