スウィート・トーチャー

 資料室で手にした本は、これまで持った中でも特別に厚く重く、支えるのも困難だ。
 仕方なく本棚に背を乗せてページをめくるが、ぎっちり詰め込まれた文字の大群に襲われ、複雑怪奇な図解に頭がくらくらしてくる。
「うっ……く……くそっ、難しい……」
 今すぐ閉じて元の場所に放り込みたいのを何とか堪えて、キャットは行を懸命に指で追う。
 専門用語ばかりでちんぷんかんぷん。かろうじて分かる部分もあるが、ほとんど拾い読みだ。正しいかどうかも自信がない。
(バイクいじるの好きだから、機械に抵抗ないつもりだったんだけどな……)
 インテリヤクザに人生を仕切られていたせいで、そのあたりのストリートチルドレンよりは教育を受ける機会に恵まれてはいたと思うが、さすがに専門書は無理がある。
 トレーナーたるもの、メカニックほどは無理でも、多少なりともギアに通じていなければ、と意気込んできたが、ハードルが高すぎた。
 いきなりこれに取り掛かるのではなく、もっと簡単のにいった方がいいか、と顔を上げた時、
「……さっきからうるさいと思ったら、お前か」
「!」
 不意に本棚の影から、ぬっと人が現れた。
 すらりと背が高く、鍛えられた肉体を持ちながらスマートな印象を与えるその相手は、
「……樹生」
 白都コンツェルンの御曹司、白都樹生だ。
 数冊の本をわきに抱えた樹生は、整った顔を微かにゆがめ、
「呼び捨てにしていいと言った覚えはないぞ、野良猫。立場をわきまえろ」
 冷ややかに言い捨てた。それにむっとしたキャットだが、
(まぁ……確かにあっちが上だし)
「……すみませんでした、樹生さん」
 一応、敬称をつけて返す。
 変わらず険悪な視線を向けられたが、殊勝に俯いていたら、ふん、と小憎らしく鼻を鳴らし、樹生は隣に立った。
 自分では手の届かない場所にある本を、やすやすと取り出し、ぱらぱらめくる。
 どうやら彼も、本を探しにきたらしい。やな奴に会った、とキャットはつい顔をしかめてしまう。
 樹生はどうにも苦手だ。
 爽やかな笑顔の裏で、何を考えているか分からないのが、どうにも合わない。
 勇利も寡黙で、その心情を言葉に表すことはあまりないが、裏表がない分、樹生よりもよほどストレートで好感が持てる。
 もっとも彼は他の誰にもまして特別だから、比べるまでもないのだが。
(ちょっとよそに行くか。こいつのそばに居たら、喧嘩売られるだけだ)
 とりあえず向こうの棚へ、本を持ったまま移動しかけた時、
「――お前、勇利と付き合ってるのか?」
「!!」
 背後から切りつけられて、転びそうになった。
 なっ、と振り返れば、横目にこちらを見やった樹生が眉を上げる。
「その反応からして、本当なのか」
「な、何で……」
 知ってるんだ、と声もなく尋ねると、あちらは興味が無さそうに、本へ視線を落とした。
「特に聞きたくなくとも、色々耳に入ってくるんでな。
 しかし、勇利も物好きな奴だ。よりによって、お前みたいな野良猫を選ぶとは」
「……ほんとそうだよな」
 思わず頷くと、相手が顔を上げて怪訝な表情になる。
「なぜお前が同意する?」
「そりゃ、勇利が何で自分みたいなのを相手にするのか、いまだに分からないから」
 何だそれは、と樹生が呆れたように呟く。
「卑屈な奴だな。
 キング・オブ・キングスに選ばれた事を誇りに思わないのか。世の女なら、得意げに周りへ吹聴するだろうに」
 確かに。
 普通、勇利に告白されたら有頂天になって、自分はチャンプの女なのだと、誇らしげに言いふらすだろう。
 だが、
「自分の事はよく分かってるよ。
 正直今でも、夢なんじゃないかと思う時がある。だって、当然だろ?」
 手にした本を適当な棚に戻して、肩をすくめる。
「勇利はキング・オブ・キングス、メガロボクスのチャンピオンで、望めば何でも手に入る。
 何もしなくても、女なんて好きに選び放題なのに、よりによってどうして自分なのか、聞きたいのはこっちだ」
「……思ったより、分をわきまえてるじゃないか」
 樹生が鼻白んだ表情で言う。
 その顔からして、嫌味を言おうとしたのに意表を突かれたんだろうな、と思わず苦笑してしまった。
 はたから見れば、自分と勇利なんてアンバランスな二人だろう。
 だからまだ、周囲に交際を気づかれにくいのだろうと承知しているから、嫌味になるはずもない。
 自分なら、とキャットは続ける。
「もし自分が勇利なら、野良猫なんかじゃなくて、もっといい人……ああそう、オーナーみたいな、綺麗で頭が良くて、ずっと支え続けてきてくれた人を選ぶよ。
 あの人なら勇利と並んでも、完璧にお似合いだしな」
「ゆき子か」
 途端、相手の声のトーンが下がったので、あっしまったと思った。
 不仲の妹を話題に出されたら、樹生の機嫌が悪くなるかもしれない、と考えた途端、ばしんと音を立てて彼の持つ本が閉じられた。
「冗談じゃない。白都に野良犬の血が混じるなんて、おぞましいにも程がある。
 勇利には弁えるだけの分別があって幸いだったな」
 吐き捨てるように告げたので、瞬間的に頭に血が上った。樹生に向き直り、
「――誰が野良犬だって? 勇利がそうだっていうのなら訂正しろよ、樹生・・。勇利は野良犬なんかじゃない」
 視線も鋭くして、噛みつく。
 同じく体を正面に向けた樹生が、すっと目を細めた。
「侮辱されて立腹するのは、同じ野良同士だからか? なるほど、連帯感は強いようだな。
 お前が思っているより、勇利とお似合いじゃないか」
 冷ややかに笑って更に煽ってきたので、カッとなって、
「てめぇ!」
 ばっと拳を構えて、今にも殴りかかりそうになった時、
「……おいおいお前さんら、ここで喧嘩なんぞするなよ」
「っ!」
 唐突にのんきな声が割り込んできたので、たたらを踏む羽目になった。
 誰かと思いきや、研究所の技術者がこちらを覗き込んでいる。
「お、……じさん」
「…………」
「ぎゃーぎゃー騒ぐのは、ジムでだけにしてくれ、坊ちゃんに嬢ちゃんどもよ。
 おちおち調べもんも出来やしねぇ」
 二人分の視線を受けた相手は、しっしっと追い払うように手を振る。
 そんな態度は、樹生の怒りを買うのでは。キャットはひやりとしたが、
「……失礼します」
 樹生は軽く頭を下げると、大人しく資料室を出て行く。
 ずいぶん素直だな、と拍子抜けしてそれを見送っていたら、技術者がこちらの近くに歩み寄ってきた。なだめるように肩へ手を置き、
「坊ちゃんの言う事は、聞き流しておきな。あいつはこのところ、AIギアの開発で、相当カリカリしてるからな。
 ま、犬にかまれたようなもんだと思っておけ」
 などという。
 ずいぶん不遜な物言いだ。
 しかしそういえば、この年配の技術者は、昔から白都家とは懇意にしているらしいから、この程度は看過されるのか。
 その言葉にキャットは構えをといたが、
「……別に自分はどういわれたって構わないよ。
 でも、勇利をあんな風にけなされるのは、嫌だ。我慢できない」
 胸に沸き起こった怒りを処理しきれず、ぎりっと拳を握りしめる。
 技術者はやれやれ、と腰に手を当てた。
「お前さんの勇利信奉は変わらないまま、か。
 ま、そりゃ別にどうでもいいが、時と場所と相手を考えるくらいには大人になるんだな。
 あそこで坊ちゃんを殴ってりゃ、面倒な事になるのは知れたことだろうよ。
 下手すりゃ、勇利にも迷惑かかるだろ?」
「うっ……」
「それにな、みっともねぇから、やたら自分をぞんざいに扱うのもやめとけ。
 勇利はあいつの意思で、お前さんを選んだんだろ。
 そのお前さん自身が、野良猫だからと卑下するのは、あいつに対しても失礼だろうが」
「…………そんな事、考えてなかった」
 自分を貶めてる自覚も無かったし、それが勇利に対する無礼だなんて思いもよらない事を指摘されて、面食らう。
 言われてみれば確かにそうなのだろうが……かといって、キングに選ばれたのだからと胸を張るには、まだ自信がない。
(本当に分からないんだ。
 何で勇利が、こんなみっともない自分を選んでくれたのか)
 困惑して黙り込んでしまうと、相手は肩をすくめた。こちらの頭をぐいと押して、視線を移動させる。
「とにかく、資料室では静かにな。
 ギアの勉強したいんなら、この辺のを適当に持っていきな。
 素人でも、少しはためになるだろ」

「シャル。樹生に絡まれたと聞いたが、本当か」
「!」
 夕食後、ソファで本を読んでいたら、隣に座った勇利が静かに問いかけてきたので、肩が跳ねた。
「えっ……な、何で知ってんだ?」
 あんな不愉快な事は知られたくなかったから、黙っていたのに。視線を向けると、相手は軽く眉根を寄せて、
「ラボで聞いた」
 と簡潔に答えてきたので、思わず脱力してしまう。
(お……おじさんーー!!
 なんで勇利にバラしちゃうんだよーー!?)
 口が軽いとは思わなかったので、口外禁止をしなかったのだが、よりによってこの人に言わなくてもいいのに。
 黙っていようにも、勇利は話せ、と言いたげにじっと視線を向けてくるので、しまいにはその圧に負けてしまう。
「絡まれたって言うか……あんたと付き合ってるのかと聞かれただけだよ」
「それだけか?」
「…………はい」
 ここで話を終わりにしたいと思ったのに、彼はずいっと詰め寄ってきて、
「……本当にそれだけか」
 重ねて問いただしてきたので、……やっぱり負けた。
「いやその……、あいつが勇利の事、野良犬って言うから、キレそうになったけど……」
「俺がなぜお前を選んだのか分からない。自分が聞きたいくらいだと言ったそうだな」
「えっ、そっち?」
 野良犬発言をスルーされた上に、思いがけないところを突っ込まれ、キャットは戸惑った。
 それは、と弁解を口にしようとしたら、
「……お前がメガロボクスに賭ける情熱が好きだ」
「へっ」
 淡々とした口調で告げられて、目を丸くする。何を思う間もなく、
「何事にも真面目で真摯に打ち込むところが好きだ。屈託なく笑うのが好きだ。嘘のつけない素直さが好きだ。飯が美味いところが……」
 いきなり怒涛のように語り始めたので、
「ちょ、ちょ、ちょっと待った勇利、やめてくれ!!
 何だよいきなり!?」
 ぼわ、と熱で頭がくらくらしそうなくらい恥ずかしくなって、叫んでしまう。
 背もたれに肘をついた勇利は真顔のまま、
「なぜか分からないというから、教えているだけだが」
 しれっとそう言ったので、沈没しそうになった。
 何だこの人は、どうしていつもいきなりボケてくるんだ?
「い、いいよそんなの教えてくれなくて。
 恥ずかしいからやめてくれ、聞いてらんない!」
 耳を塞いで逃げ出そうとしたのに、勇利はその腕をつかみ、ぐいっと引きはがしたかと思うと、
「いいや、駄目だ。お前は、俺がどんな思いでお前の賛辞を聞いていたかを実感すべきだ」
 顔を覗き込んできてニヤッと笑う。えっまさかと硬直したら、
「……飯が美味いところが好きだ。犬とじゃれているところが好きだ。普段強がっているくせに、二人の時は甘えてくるのが好きだ……」
「……もういいです! 分かりました!! 勇利がなんで選んでくれたのか分かったから、本当に勘弁してくれ!!」
 自分が好きなところを上げる拷問を、音をあげるまで延々続けてきたので、恥ずかしさのあまり死ぬかと思った。
(……ヤブヘビもいいところだ……樹生のせいでひどい目に遭った……)
 いや、ひどい目なのかそうじゃないのか、よく分からないが。とにかく、これからはむやみに勇利を褒めるのはやめよう。
 こんな形で逆襲されては、いちいち心臓がもたない……。