リプレスト

 どっ、と重たい感触がグローブ越しに伝わり、腕が震える。
 まだ力が足りない。それを実感しながら、右、左、右とリズミカルに突き出して、サンドバッグへ拳をいれる。
 ガードの上から、ボディ、顔、再度ボディ。
 以前対戦した相手に見立てて、当時の攻撃をトレースし続けていたら、ぴぴぴ、と高いアラームが響きわたった。
「! はっ、時間か……はっ、はぁ、はぁっ……」
 もう少しやりたかったが、医者からはきちんと時間を守るように注意されている。
 やむなく、キャットはサンドバッグから離れ、息を切らしながらグローブを外した。
 壁際の椅子に腰掛けて、ヘッドギアをとれば、解放された頭から汗が幾筋もこぼれ落ちてくる。
「はぁっ、はあ……はー、きっつ……でもやっぱ、家で出来んの、いいな……」
 頭からタオルを被って、汗を拭きながら呟く。
 目の前に広がるのは、サンドバッグやパンチングマシン、筋トレのダンベルなどが置かれたトレーニングルーム。
 もちろん自宅ではなく、白都のジムでもなく、ここは勇利の家の一室だ。
(医者がスパーリング以外ならやっていいっていうから、借りてみたけど……やっぱ体動かすのすっきりするな)
 手術のごたごたからこっち、トレーナーの勉強が忙しくて、簡単な筋トレしかしていなかった。
 ジムで空いた時間なら使っていいとも言われたが、それも選手優先なので、満足するまで出来ない。
 いっそどこかに通うかと思っていたら、勇利が自前の設備を貸してくれたのだ。
(贅沢な話だよなあ。キングのトレーニングルームを使わせてもらうなんて)
 選手じゃないのに申し訳ない気もしたが、好意はありがたく受け取る事にした。
 まだ再開したばかりで体力がおっつかないにせよ、これならいずれ元に戻せるだろう。
(勇利に感謝しないとな。……ついでにシャワーも借りよ)
 我ながら図々しいと考えながら、グローブとヘッドギアを手にした。タオルを首にかけて、居間へ移動する。
 がちゃりと扉を開けて、
「勇利、ちょっと風呂借りても……」
 声をかけようとしたら、
「いっ、オーナー!?」
 夜の帳が下りた庭先に勇利と、オーナーの白都ゆき子が佇んでいたので、硬直してしまった。
「! ……キャット?」
 何か真剣な話をしていたのか、彼の腕に触れていたゆき子が、はっと息を飲んで一歩下がる。
「……。用件はそれだけよ。今後は十分、振る舞いに注意なさい」
「はい。わかっています」
 勇利とこちらを見比べた後、気を取り直した彼女は、
「では、夜分に失礼したわね、勇利――それに、キャット。おやすみなさい」
 そのままくるりと背を向け、ヒールの靴音も高く、去っていく。
「おっ、お疲れさまです、オーナー!」
 慌てて頭を下げ、上げた時にはもうゆき子の姿はない。
 表の方で車が発進する音が聞こえてきたから、早々に立ち去ったらしい。
「…………」
 勇利はベランダに立ち尽くしたまま、動かない。何か物思いにふけるように、視線を落としている。
 それが深刻そうな様子で、声をかけるのも逡巡したが、
「……勇利。あの、まずかったかな。
 隠れてた方が良かったか?」
 おそるおそる問いかけると、彼はハッと顔を上げた。こちらへ視線を向け、それから小さく首を振る。
 静かに部屋の中へ戻ってきて、
「いや。お前とのことは、オーナーに報告済みだ。問題ない」
「ほ、報告してたのか!?」
 未だに交際を公表していないというのに、いつの間に。
 つっこみを入れそうになったが、いやそんな空気でもないかと言葉を飲み込んだ。勇利の元へ歩み寄り、
「……じゃあもしかして、未認可地区に行ったこと、怒られてたのか?」
 そろりと尋ねると、返ってきたのは無言の肯定だった。
 庭から駆け戻ってきた犬が、足下にすり寄ってきたのを撫でる様子を見ると、よほどきつく戒められたのかも知れない。
 だが、オーナーが叱責するのも当然だろう。
 他のボクサーならまだしも、勇利はチャンピオンだ。
 チャンプとなれば、リングで勝てばそれでいいというものではない。常日頃の立ち居振る舞いも、公明正大、清廉潔白を要求される。
 勇利に関して言えば、本人が元々自制心が強い質だから、それも苦にならないだろうが、だからこそ今日の振る舞いは、逸脱して余りあった。
(地下の賭けボクシングなんて、キングが立つリングじゃない)
 であれば、オーナー自ら、彼を咎めに来るのも当然だ。
(……自分が余計な事したから)
 そう思って肩が落ちる。
 いくら勇利がいつになく興味を示したからといって、JDの事を教えなければ、失点にはならなかっただろう。
(もう未認可地区じゃ、噂が広まってるだろうし……)
 今更取り返しがつかない。落ち込んでいたら、
「……シャル」
「!」
 ぽん、と頭に手を置かれて、びくっとした。
 そろりと上を見れば、笑みを口元にためた勇利がこちらを見下ろしている。
「今夜のことは、俺が自分で望んでしただけだ。お前が気に病む必要はない」
「勇利」
 でも、と抗弁しようとしたら、緩やかに髪をかき混ぜられる。
「今後はもう、あの男と会わない。地下にも行かない。
 ――過ぎたことだ。気にするな」
「……うん」
 勇利がそう言うのなら、これ以上何も言えない。
 先ほどのオーナーの態度からして、これで彼の立場が悪くなる、というほどの事態でもないようだから、この場限りと収めてしまえば、それでいいのだろう。
(でも、勇利は楽しそうだったのに)
 惜しい、と思う気持ちはくすぶったままだ。
 この先、あんな風にメガロボクスを楽しむ勇利を二度と見られないのではと思うと、気持ちが沈む。
(オーナーは正しいけど……少しくらい大目に見てくれたっていいじゃないか)
 子どもみたいな感傷だと自分で思いながら、ちえっと毒づきたい気分になり――そして、ハッと気づいた。
「あっ、勇利、待った!」
「!」
 頭に置かれた手を、両手で掴んで持ち上げる。何事かと目を瞬く相手に、
「トレーニングしてたから汗まみれなんだ、手が汚れる! ごめん、シャワー使わせてもらって良いか?」
 そもそもの用件をようやく口にすると、手を掴まれたまま、勇利は一瞬の間を置いて、頷いた。
「ああ、構わない」
 そして、身を屈めてこちらの顔をのぞき込み、
「俺も入る。……いいか、シャル?」
 に、と口の端をあげて笑ったので、な、と言葉に詰まった。
(俺も入るって、え、それ、い、一緒にって事か!?)
 思い至った途端、カーッと頬が熱くなってしまった。
 ぱっと両手で隠そうとしたが、こう顔が近くては意味がない。
(ま、マジか、そういう事言うか、勇利……)
 見た目クールなくせに、どうしてしれっと爆弾発言するんだ、この人は。
 つきあい始めて少しは慣れたつもりでいたが、やはり勇利がこういう台詞を口にすると、軽く混乱を来してしまう。
 しかも、綺麗な顔を間近に寄せて、低い良い声で言わないで欲しい。
「そ、……それは、その、……ゆ、勇利がそうしたいなら、い、良いけど……」
 ――結局、こういうしかない。勇利ずるい、という文句は、言葉に出来なかった。
 ……こういうのが惚れた弱みというのだろうか。
 恥ずかしいからあまり実感したくない……。