サレンダー・トゥ

「キャット、ちょっと勇利を呼んできてくれ。今なら仮眠室にいるはずだ」
「仮眠室?」
 タオルの束を棚にしまっているところに声をかけられて、つい疑問形で返してしまった。
 ジムには選手のため、仮眠室が設置されている。しかし、常に完璧な体調管理を旨とする勇利が、そこを利用するのは珍しい。
 こちらの問いを含んだ声に、トレーナーは肩をすくめた。
「昨日グレンに捕まって、だいぶ飲まされたらしくてな。二日酔いだ」
「……あのおっさん、自由すぎるだろ」
 重量級メガロボクサーがいくら豪放磊落とはいえ、勇利をして二日酔いにするほど飲ませるとは。
(バロウズ、勇利より縦も横もでかいからなぁ……さすがに根負けしたのか)
 節制しているせいか、勇利は普段口を湿らせる程度しか酒を飲まない。あの大男につき合っては、ダウンするのも無理はないだろう。
「そろそろ落ち着いてきただろうから、様子見て、こっちに来るように言ってくれ」
「了解、行ってきます」
 トレーナーに言われるまま、キャットは仮眠室へ向かった。

 扉を開けて、仮眠室の中を窺う。
 いくつも並んだ寝台はパーティションで区切られていて、手前のカーテンを閉めれば、個室さながらに隔離される。
 今は一番奥だけが埋まっていたので、そちらへ歩み寄ってみた。
 そっとのぞき込めば、予想通り勇利が横になっている。
(起こしてこいとは言われたけど……良く寝てるな)
 音を立てないように近づき、枕元の椅子に腰掛ける。
(あんまり顔色良くないな)
 白い肌がいつもよりも青白く見えるのは、本調子ではないからか。
 普段は気配に聡い勇利も二日酔いには負けるのか、静かな呼吸を繰り返すばかりで、起きる気配はない。
 無理にたたき起こすのも不憫で、自然に目を覚ますまで少し待とうかという気になった。
 キャットは足の上に頬杖をつき、
(そういや勇利の寝顔見るなんて初めてだな)
 好奇心に駆られてつい、しげしげと見入ってしまう。
 ロードワークの時も思ったが、メガロボクスという荒々しいスポーツをしているというのに、勇利は綺麗な顔立ちだ。
 キングほどになると顔を殴られて怪我だらけ、なんて機会も少ないからか。
 傷一つなく肌艶も良くて、本当にモデル顔負けという気がする。
(まぁ顔の話で言えば、樹生も良い顔してるんだろうけど。あいつはいつも皮肉っぽい、嫌な感じに笑うから)
 端的に言って好みではない。
 というよりも、自分の中で勇利が唯一無二すぎて、他の誰とも比較にならないのだけれど。
(ひいき目なしで綺麗な顔してる、とは思うんだよな)
 時に野生の獣を連想させる鋭いまなざしは閉じられ、伏せた長いまつげに縁取られている。
 涼やかな柳眉にすっと高い鼻も形良く、真一文字に結ばれた唇は意志の強さを感じさせ、それらのパーツが絶妙なバランスをもって端正な顔を形作っていて――つくづく、
(……勇利はかっこいいなぁ)
 とため息をついてしまう。
 しかし、以前よりも気軽に賛辞を口に出来なくなったどころか、そう思う度にカーッと顔が熱くなってしまう。
(……やっぱ、起こそうかな。人に寝顔見られるのも、嫌だよな)
 このままじっと見つめているのも悪い気がするし、あまりぐずぐずしていると、トレーナーも困るだろう。……何より、自分が落ち着かない。
「……勇利」
 揺り起こそうとして、触れるのを直前でためらい、ひそやかに名を呼ぶ。
 しかし小声過ぎたのか、全く変化がないので、
「勇利。勇利、起きてくれよ」
 少し声を大きくして呼びかけを重ねた。すると、まぶたが動いて、目を開いた。まつげをゆっくり瞬かせ、
「勇利」
 声をかけると、視線を動かしてこちらに目を止めた。
「……キトゥン」
 目つきや声がおぼつかないのは、二日酔いで、寝ぼけてるからだろうか。こんなにぼんやりしているのも珍しい。
「ごめん、寝てるところ起こして。気分はどう……」
 肘をついて上体を起こすのを気遣ったのだが、
(ん?)
 その勇利がふっと体を傾け、視界に影が差すほど接近してきたと思った瞬間――

 自分の唇に、柔らかい感触が重なった。

(――――――)
 何が起きたのか分からない。
 目を見開き、呼吸さえ忘れて、時が止まったようにその場で硬直してしまう。状況が掴めないまま、
(……やっぱりまつげ長いし、綺麗な顔だな)
 間近に迫った顔を見て、そんな的外れな事だけ思った時、
「……っ」
 ハッとこぼした息で唇を撫でて、勇利が顔を離した。凍り付いたようにこちらを見つめた後、
「…………、……その……すまない……」
 目を背けて口元を手で覆った。青白かった頬に、今まで見たことがないくらい血の気がのぼっている。その瞬間、
「……、……! …………!?」
(い、今、キスされた!?)
 がたがたがたっ、ごんっ!!
 ようやくその事実に思い至り、キャットは椅子ごと勢いよく後ずさって、パーティションにぶつかってしまった。
「なっ、なんっ、……!?」
 ぼっと火がつきそうなほど顔が熱くなって、心臓が早鐘を打って息さえ苦しくなる。
 何でいきなりこんな、と疑問を口に出来ないほど、舌が回らない。だくだく汗をかきつつ奇声を発すると、
「……すまない。夢だと、思った」
 これまた聞いたこともない、ばつの悪そうな声で、勇利が呟く。
「ゆ、ゆめ……夢って、」
 なんだそれは。夢を見てたから、寝ぼけてさっきみたいな事を、
(えっ待て、夢? 自分が出てくる夢!?)
 だから何だそれは、どうしてそんな夢まで見てるんだ勇利!!
「~~~~!!」
 もはや声も出ないくらい動悸がして、頭がくらくらしてきた。めまいがして額を押さえていると、
「……謝って済むものでもないが、すまない。
 犬に噛まれたようなものだと思って、忘れてくれ」
 勇利は遠慮がちに謝る。
 普段とまるで違う語調に、彼自身も想定外の行動だったのだと察せられて、ますます混迷深まる。
「……わ、忘れられるか、こんなの……」
 キャットは手の甲で口を隠して、ほとんど恨みがましい気持ちで呻いた。
 いまだに、勇利に告白された時のことをふっと思い出して、その場で叫び出したくなる事があるのに、これは強烈すぎる。
 しかも忘れる、と考えただけで、重なった唇の感触がまざまざと蘇ってきて、いっそう汗が噴き出す。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
 そして、しん、と沈黙が落ちた。エレベーターで会話した時、いやそれ以上に、沈黙が重い。
(ど……どうすりゃいいんだ、これ)
 最初のパニックからようやく少し落ち着きを取り戻し、動きが鈍くなった頭を必死に動かす。
 とりあえず、どっちが悪いかでいったら、誰がどう見ても勇利が悪い、と思う。
 こっちはあんな事をされるなんて考えもせず、完全に不意打ちだった。
(そ、そりゃ、そばに居るなら覚悟しろとは言われたけど、こんなの反則だ)
 勇利自身が犬に噛まれたと思ってと謝るくらいだから、過失は向こうにある。ある……とは、いえ。
(だからって責めても、起こった事はどうしようもないし)
 ここは自分が、気にしてないから勇利も気にするなよ、とでも言えばいいのだろう。
 それで水に流してしまえば。この場は収まるはずだ。
(って、この場限りに出来るわけあるか!! こんなの、もうまともに顔見られなくなるだろ!!)
 自分で自分にツッコミを入れて、ぐるぐる考えてみても、熱で頭が沸騰しそうだ。
 耐えかねて、うううう、と呻きそうになった時、
「……俺が、お前から離れるべきだな」
 ふと低音の声が響く。
 えっと目だけ上向けば、勇利は顔を背け、静かに続ける。
「俺は無理強いをしない。そう言った舌の根も乾かない内に、この始末だ。
 そばに居れば、お前を傷つけるかもしれない」
 ――自分から勇利が離れていく。そう考えただけで胸に痛みが走った。とっさに、
(嫌だ)
 と思い、「勇、利」すがるように名前を呼ぶと、彼は伏せた視線をこちらへ流した。
「……このままだと、俺はお前を襲ったチンピラと同じだ。
 そんな事は、したくない」
 恐れと懇願。珍しく感情に揺れる声音で、密やかに囁いた。
(チンピラ……って)
 一瞬何の話だと目を瞬いたが、以前、試合出場を妨害しようとした暴漢たちの事と気づいて、絶句する。
 ――確かに客観的に見れば、女の意思を無視して、男が手を出してきた、という事実は同じなのかもしれない。
(けど、それは……それは、勇利、違うだろ)
 抗弁しようとして、胸が締め付けられて、声が出ない。
 は、と息の塊を吐き出したキャットは、顔を伏せてうめき声を漏らした。
(ああもう、何だこれ……こんなの、絶対、敵わない)
 頭の中は驚きと困惑と羞恥と――そして、目を背ける事も出来ないほどの嬉しさが入り混じって、どうしようもなく苦しい。
(勇利が、自分なんかを好きだと言ってくれて、夢にまで見てて……そんなの……)
「……そんなの、違うだろ」
 掠れた声が、喉から搾り出るように落ちる。
 のろのろ顔を上げると、何か諦めたように静かな表情をした勇利が、こちらを見つめている。
 その涼し気な様子に何だか急にいらっとしてしまって、
「勇利、そんなバカな事あるかよ」
 キング・オブ・キングスにはこれまで一度も口にしなかった罵声が飛び出した。
 虚を突かれたように目を瞬く勇利を、半ば苛立ち、半ば胸が痛くなるほどの息苦しさを抱えながら、
「……あんな連中とあんたが、一緒なわけないだろ。
 大体、…………す、好きな人に、キスされたら、……う……れしい、よ」
 耳まで熱くなる思いで、告げた。
「……………………」
 息を飲む音。沈黙――そして、衣擦れの音。
「キトゥン」
 ベッドから抜け出してこちらに向き直った勇利が、自分につけた名前を呼ぶ。
 顔を上げるのも精一杯な思いで何とか身を起こすと、互いに視線が合う。
 一度合えば、そらす事を許さないような強い眼光とぶつかって、釘付けにされて動けなくなる。
(怖い)
 とっさに思う。目をそらしたい。逃げ出したい。そう思うのに、それだけはしてはいけない、と体が拒否している。
 だから、勇利が手を伸ばして、頬に触れてきても、身じろぎ出来なかった。
「……本気か」
 勇利が半信半疑、と言った様子で聞いてくるので、
「……こ、こんな事、嘘や冗談で言えるか……」
 手で覆われたところから、火を噴きそうな錯覚を覚えながら、やっとの思いで答える。
 本当はまだ、自分がキング・オブ・キングス――ではなく。
 勇利という一人の男に対して、恋愛感情を持っているなんて、実感できていないのだけれど。
(でも、もう駄目だ)
 自身でもどうしようもないほど、感情を持て余してしまう。
 夢に見るほど思われて、キスをされて、頬に触れられて、その全てを嬉しいと思う気持ちを、もう無視できない。
 恥ずかしい。顔を見たくない。見られたくない、きっと変な顔をしてる。
「……キトゥン」
 そう思うのに、勇利は長くしなやかな両手で顔を包み込み、かみしめるように名を呼ぶ。
「……ゆう、り」
 その手におそるおそる触れて、ぎゅっと握りしめる。
 掌に伝わってくる温もりと固い手の感触に、胸が高鳴ってどうしようもない。
 だから、もうこれは、認めなくてはいけないのだろう。

 ――あんたが好きだ、勇利。

 その囁きは自分でも聞き取りにくいほど小さく頼りなかったが、それをすくい上げるように、紡いだ唇が塞がれる。
 不意打ちだった先のそれとは違い、今度のキスは気が遠くなるほど長く――そしてどうしようもなく体が震えるほど、深くあたたかな喜びに満ちていた。