アンダー・チャーム

(話するって決めたはいいけど、さて……勇利をどこで捕まえられるかな)
 未認可地区を訪ねた次の日。
 会社の廊下を歩きながら、キャットは頭の後ろで手を組んだ。
(勇利はいつ見ても忙しそうだし、トレーニング中にする話でもないし……。
 コーチにこっそり予定聞いて、空いてる時間確かめるか? でも何のためにって聞かれたら……答えにくいな)
 昨日の子どもに指摘された通り、嘘は苦手だ。
 なにか上手い言い訳はないものかと思いつつ、エレベーターホールに足を踏み入れた。ちょうどやってきたところに乗り込み、目的の階を押す。
(家に押しかけるってのも気が引けるし……いやそもそも、勇利の家でする話じゃないよな!? 迷惑にもほどがあんだろ!!)
 別に何を連想したわけでもないが、急に頬が熱くなって思わず、ごしごしこすってしまう。
 プライベートの話ではあるが、あの家で二人きり……犬もいるが……で向き合って語るなんて、考えただけで落ち着かなくなる。
(あーっ、とにかく、どうにかしてまず勇利を捕まえないと、それこそ話にならないだろ。何とかしないと……)
 顎に手を当ててぶつぶつ考え込んでいると、不意にエレベーターが止まった。
「ん?」
 目的の階にはまだついていない、と思う目の前で扉が開き、
「あっ」
「…………」
 いつぞやのラボの再現か、その向こうに勇利が立っていた。
 乗る素振りで少し前のめりになっていた上体を戻し、わずかに目を伏せた後、再び視線を戻して、
「…………乗ってもいいか」
 ぼそり、と尋ねてくる。
「え……あっ、ああ、もちろん!」
 自分に遠慮してるのかと気づいて、慌てて隅に寄った。勇利はそれを見やった後、乗り込んできてボタンを押す。
 静かにドアが閉まり、エレベーターは再び上昇を始めた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 巻き上げの微かな振動音以外、静寂が落ちる。
 お互い避け合っていたせいで、密室に二人でいるのはひどく気づまりだ。とはいえ、
(い、今だろ今、話すなら今!!)
 ぎゅっと拳に力を入れて、自分に発破をかける。
 この機会を外せば、次いつ話せるか分からないのだ、逃すわけにはいかない。
 ……とはいえ、何をどこから言えばいいのやら。
「……あー……えっと、勇利」
 迷って、前方の扉を見つめたまま、声を出す。
 離れた場所に立つ勇利が動き、こちらを見る気配を感じながら、
「その……あんたと、ちょっと話がしたい、んだけど」
「……何だ」
 低い返答。とりあえずの会話が成立した事にほっとして、キャットはしどろもどろに続けた。
「えっと……あの。びょ、病院で話してた事、なんだけどさ」
「…………」
「何かこう、まともに話も出来なくて悪かったなと、思って。
 まさかあの、あんたが、あんな事言うなんて、考えもしなかったから」
「……忘れていい」
「え?」
 呟きを聞きとがめて振り返ると、勇利は目を合わせないまま、静かに言う。
「元々、言うつもりはなかった。言えばお前が戸惑うのは、分かっていたしな」
「勇利」
「だから忘れろ。……俺も忘れる。それでこの話は終わりだ」
「っ」
 ズキッ、と不意に胸に痛みが走った。
 勇利の申し出は、優しさだ。これ以上、ぎくしゃくした関係を続けないようにしようという、彼の優しさ。
 それは分かる。分かるのに、
(何でこんなに痛いんだ)
 思わず心臓の上を掴んで、握りしめる。勇利、と名を口にして、
「でも、勇利。自分は、あんたのそばに居たいよ」
 感情走った言葉が転がり落ちた。
 ぴくっと眉を上げた彼がこちらを見る。今日初めて、真っ向から視線が合った。
「多分、あんたの言う、……す、好きって気持ちと、自分のは、違うと、思う。
 というか、自分の気持ちとか、よくわかんねぇんだけど」
 頭に血の気が上ってくるのを感じて、顔を伏せたい欲求にかられながら、それでも懸命にしゃべる。
「違うけど、でも言っただろ、あんたは特別なんだって。
 力になりたいって気持ちも……嘘じゃなくて。
 だから、その……あ、あんたが嫌じゃなかったら、……そばに、いさせてくれないかな。……今までみたいに」
「…………」
 す、と勇利が動き、目の前に立つ。
 壁のようにそびえたつ姿を見上げると、その大きさだけで気おされそうになって、思わず足がすくんでしまう。
 体が勝手に震えだすのは、拒絶を恐れるからなのか、それとも――不意に大きな手が、右肩に置かれた。
「ゆ、うり」
 頼りなく名を紡ぐこちらに身をかがめ、勇利の顔が、至近距離に近づく。
 唇から漏れた息が、耳たぶに触れてびくっとした時、
「――今までと違う形になっても、いいのならな」
「!!」
 低い、そのくせ何もかも溶かすような甘さを含んだ柔らかな声がとろりと流し込まれ、一瞬、体の芯が痺れるような衝撃が背中をかけ上った。
(なっ、ん……!)
 同時にポーンと到着音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。
 すっと肩から手の重みがなくなり、勇利が離れる。
 こちらを観察するようにじっと見下ろした後、
「また、後でな。……子猫キトゥン
 口の端を上げて穏やかに別れを告げ、外へ出ていく。
 やがて扉は自動でしまり、再び上昇し始めたが――

 ……ポーン。
 ボタンの点灯した階につき、扉が開く。
 エレベーターを待っていたらしいゆき子が、乗り込もうとして、眉を上げた。
「……あなた、そこで何をしているの?」
 問われて、キャットは……耳まで真っ赤になって床にへたり込んだキャットは、
「…………………こ、腰が抜けた…………」
 かろうじてそれだけ答えた。
 ――「勇利の声に腰砕けにされた」なんて理由は、口が裂けても言えない。