――そして、その日は突然やってくる。
はぁ、と吐いた息が白く濁り、ゆっくり空中に溶け消える。
今日は季節外れの寒さだ。頭上はどんよりと灰色の雲に覆われ、陽光が一筋も差さない。
空の色を映し出す海もまた黒く沈み、身の凍るような風は波と共に浜辺へ打ち寄せている。
「……寒ぃ」
声を出すのも億劫なほど寒い。
厚手のジャンパーを着こんでいても、冷気は隙間から滑り込んで、容赦なく体の熱を奪っていく。
血が滞り、筋肉が強張り、鋭い痛みが走る。
当然だ、まだ試合で負った傷が少しも癒えていない。手当もそこそこに、飛び出してきてしまったのだから。
「…………」
しゃべった事で痣の出来た頬が引きつれ、眉尻に貼った絆創膏の下で切り傷が痛む。
ち、と舌打ちして、ジャンパーに顔をうずめた。
堤防に停めて寄り掛かったバイクは、とうに熱を失っていて、暖を取れない。
このままここにいては凍え死ぬだろう、そう思うのに――少しも、動けない。動きたくない。
(……だりぃな)
疲労が重くのしかかり、考える事も煩わしい。目を開けているのも面倒で、まぶたが落ちるまま、閉じる。
自分一人だけの空間に響くのは、絶え間ない波の音と、寒々しいカモメの鳴き声。
まるで世界中が死んだような静寂の中にいると、このまま消えてしまうのも悪くない、なんて思う。
(もう疲れた。どうでもいい)
重く濁った思考が枷となって全身を
首筋が硬直していく痛みを感じながら、唯々諾々と寒気へ命をゆだねてしまおうとした時、
「……」
車の走る音が、かすかに聞こえた。
こんなものさびしい場所を通りかかる車にしては、良いエンジンを使ってる。
そんな些細な事が気になって目を開けると、道路の向こう側から、流線型のスポーツカーが滑るような速さで近づいてくるのが見えた。
(あれは……)
見覚えのあるそれに、目を瞬く。
一瞬逃げるべきかという考えが頭をよぎったが、体は思考についていけないほど、凍り付いている。
結局、その車が間近で停まり、
(勇利)
すらりと背の高い、何よりも尊敬してやまないその人が近づいてくるのを、見ている事しか出来なかった。
「ここにいたのか。探したぞ」
開口一番の言葉は低く、叱責の色を帯びているように思えた。
とっさに申し訳ない気持ちと、反発する気持ちが同時にこみ上げた。
海へ視線を戻し、ぶっきらぼうに返す。
「探してくれなんて言ってない」
「……家にいなかったからな。ずいぶん荒れていたが、いつもああなのか」
そういえば前も自宅に来た事あったっけ、と目を伏せる。
確かに他人が見たら、驚くだろう。
断片的にしか覚えていないが、病院から帰った後、手に触れるもの全て、叩き壊すような暴れ方をしたはずだ。
「……あんたには関係ない」
突き放すような物言いに、自分でも無愛想だと思ったが、
「そうか」
気を悪くした様子もなく、勇利は答える。
間を置いた後、空気を乱す事も恐れるように、静かな所作で歩み寄ってきて、バイクの反対側に寄り掛かった。
ぎし、とわずかに車体が揺れ、勇利の重みが伝わってくる。
(行かないのかよ)
何でわざわざ探しに来るんだ。
あんたはチャンプなのに。
これからメガロニアに向けて、トレーニングしなきゃいけないのに。
自分なんて、放っておけばいいのに。
「……何でここが分かったんだよ」
戸惑いながら、小さく尋ねる。
家からバイクに飛び乗って、やみくもに走らせてきたので、誰も自分の居場所は分からないはずだ。
そう思ったら、
「白都の
勇利がそんな事を言ったので、ついハッと笑ってしまった。
「白都コンツェルンはそんなのも使えるのかよ、おっかねぇな。おちおち悪さも出来ないじゃんか」
「今回はだいぶ無理を言った。
……お前が練習に来なかったのは、初めてだったんでな」
皮肉な笑みがのぼる。
確かにサボリは初めてだが、そんな事で大げさな追跡をするはずがない。肩越しに勇利を見上げ、
「何だよ、もしかしてどっかで死んでるかもしれないって慌てた?」
鋭く突きさすように吐き捨てた。
こちらを見下ろした勇利は、
「…………」
何も言わずに視線を前に戻した。図星だったのかもしれない。
(自分が死のうが生きようが、あんたには関係ないだろ)
そんな毒を吐こうとして、しかしさすがに八つ当たりだと自覚して飲みこんだ。
くそ、と口中で呻く。
何でこんなにイライラしているのだろう。
勇利はただ、自分を探してくれただけなのに。
(謝らなきゃ駄目だ。ごめん勇利、来てくれてありがとうって言うべきだ)
そう思うのに、言葉は口の中で形にならず、溶け消えていく。
「…………」
「…………」
何も言えないまま、勇利も無言のまま、波音だけが沈黙を埋めていく。
その静寂が続くほど、体の痛みと心の重荷が増していくようで、次第に息苦しくなってきた。
長い間にやがて耐え切れなくなり、
「……勇利、何か用あるのか。探してたんだろ」
思い切って口火を切ると、彼はポケットに手を入れて、視線を下げる。
「用はない。お前の方が、吐き出したい事があるんじゃないかと思ってな」
「……」
「話したければ聞く。話したくなければ、無理にとは言わない」
何だそれ。
思いがけない言葉に、勇利の横顔をまじまじと見てしまった。
ふっとこちらを向く気配がしたので、慌てて視線を避けて、襟に顔を沈める。
(何だそれ。こっちの話聞くためだけに、こんなところまで来たってのか?)
そんな暇じゃないくせに何だそれは。優しすぎる。
不意にぐ、と目の奥が熱くなった気がして、慌てて瞬きする。ここで泣いたら、涙が凍りそうだ。
ごし、と冷え切った手で目をこすってから、息を吐いた。乾いた唇を舌でなめて潤し、
「……その口ぶりじゃ、もう知ってんだろ。医者の話」
意を決して話し始める。
勇利が声に出さないまま頷いた。それを視界の隅に収めて、続ける。
「試合の怪我が酷かったから、病院で診てもらってさ。
そしたら何か、やばい病気にかかってるんだって言われた」
とんとん、と頭を指で叩く。
「小難しい事は何も分かんないけど、聞いた話じゃ、頭ん中に水の袋があって、それが脳や神経を圧迫して悪さをする、とかなんとか。
最近妙にふらついてたのは、これのせいらしくてさ」
「重症なのか」
勇利の問いに、首を振る。
「手術すりゃ取り除けるし、術後の大きな後遺症はないだろうって言ってたよ。
普通にしてりゃ全然問題ないってさ。……ただし」
――ボクシングのような激しいスポーツをしなければ。
ひときわ強い海風が、ひゅうと高い音を立てて吹きつけてくる。
刺さるような冷気に目を眇めて、身を縮こまらせた。
その冷たさは病院で医者から告げられた時、背中をかけあがった寒気を思い起こさせるような鋭さだった。
「…………」
勇利は何も言わない。
そうやってただ黙って聞いてくれているのが、助かる。
他の誰にも言えない弱音が零れ落ちるのを、無理に飲みこむ必要がない。
強張った手で自分の顔を覆い、呻く。
「……やっと……やっと、ここまできた。
あともうちょっとで八十台を切れる。
メガロニアは無理でも、メガロボクスさえできれば、それでいいのに」
腹の底から突き上がってくる熱が、傷つき力を失った体を燃やし尽くそうとしているようだ。
理不尽な現実に罵詈雑言を浴びせるには、もう疲れすぎている。
「キトゥン」
勇利が静かに呼んだので、顔を上げる。
名を呼ばれるのは嫌だが、これは彼がつけてくれた名前だ。応えるのも苦にならない。
そう思った時、皮肉な事に気づいて、泣き笑いを浮かべた。
ごそ、と懐を探り、覚束ない手つきで取り出した一枚のカードを、勇利に差し出す。
「?」
何だ、という顔をするその手に押し付けて、見るように促した。
今はすでにない、記名式のカードを手にした勇利は、そこに刻まれた文字を読んだ。
「……シャーロット……ティシキャット?」
耳に心地の良い声で読み上げられると、それはひどく優美に響く。
おかしくなって、キャットはハッと鋭く呼気を吐き出した。
「笑えるほどふるった名前だろ? ちゃんと見合ったのをつけりゃいいものを」
「……これは、お前のIDカードか? 無くしたんじゃなかったのか」
「無くしてないよ。使いたくないから、嘘ついた」
「どうして使わなかった。
市民IDがあるなら、白都の手を借りずとも、メガロボクスに参加できただろう」
「だってそんなお綺麗な名前、全然馴染みがないからさ」
手をこすりあわせて息を吐きかけながら、笑う。
「自分でも覚えてないんだ。
物心ついた時には孤児院にいた。
そこのシスターの話じゃ、それと一緒に院の前に捨てられてたんだってさ」
「……ティシキャット」
勇利が何かを確認するように、再び呟いた。ああそうか、と一人合点する。
「もしかして、聞いた事あるか? 昔は結構な名家だったらしいな」
ゆき子と共に公式の場やパーティーに参加して、上流階級の人間と顔を合わせる事が多い勇利なら、小耳にはさんだのかもしれない。とはいえ、
「自分が生まれた時にはもう、借金まみれで本家は没落。
当主夫婦は、借金取りに全部持ってかれて空っぽの屋敷で首くくってたって言うから、知らないよな」
冷ややかに言った。
勇利がカードからこちらへ顔を向け、じっと見つめてくる。
「……親を、恨んでいるのか」
「……かもな、っ」
身じろぎすると、頭がふらついて急にめまいがした。
ぎゅっと目を閉じて、くらくらする感覚がおさまるのを待って、続ける。
「医者の話じゃ、この病気は生まれつきの事が多いんだってさ。普通にしてりゃ問題ないから、頭ん中の写真撮りでもしない限り、気づかないらしいけど」
口が歪む。
ドロドロした怒りがまたこみ上げてきて、固まった首の違和感に苛立ちが増す。
「――笑えるよな。勝手に産んで、勝手に放り出して勝手に死んで、おまけにこんなお土産まで残して、最低な連中だ」
ぎしり、と顎に力が入る。
冷気が頭の芯にまでまとわりつき、凍り付かせていく。ちくしょう、と罵声が漏れた。
「いらねぇもんは全部捨ててやったのに。何にもなくなってからようやく、ここまで来たのに。何で……何で、こんな事になるんだよ!!」
ダンっ! とバイクに拳を叩きつけた。
骨まで振動が響き、びりびりと痺れが走り、皮膚が裂けてぬるい血がゆっくりと滲み出す。
痛いはずなのに、もはやその痛みすら分からない。荒い息が白くこごって、目の前をのぼっていく。
「…………」
勇利は黙っている。肩で息をするこちらが落ち着くまで、十分に待ってから、
「……これからどうするつもりだ」
静かに尋ねてきた。そんなの、と俯いたまま呻く。
「そんなの、わかんねぇよ」
「ずっとここにいて、恨み言を並べるだけか」
「!」
びくっと顔を上げると、勇利は氷のように冷静な眼差しでこちらを見ている。
まるで、お前の事情など知った事ではない、というように。
(そんな目で見ないでくれ)
膨らんだ怒りがしぼみ、かわりに怯えの感情が忍び寄ってくる。
違う、こんな情けない事を勇利に聞かせるつもりはなかった。
(見捨てないでくれ)
この人に見限られたら、自分は本当に一人になってしまう。
「勇、利」
名を呼びながら、手を伸ばした。腕を掴み、服越しに伝わる冷たく硬いギアの感触にすがりつきながら、
「勇利、どうすればいい、教えてくれよ。諦めたくない、諦めたく、ないんだ……!!」
割れた声でそう叫ぶ。対して勇利は、
「――自分で決めろ」
断ずるように、そう言い放った。
勇利は切れ長の目でこちらを見据えたまま、
「俺はお前の神じゃない。
俺に決断をゆだねるな。決めるのはお前自身だ」
一言一言、噛んで含めるように告げる。その声は硬質で、強くて、抗いがたい力があった。
「ゆ……」
命綱を断ち切られて、落下するような感覚。掴んだ手がずるっと滑り、力なく落ちた。
(勇利)
ガラガラ、と何かが崩れていく。同時に視界が歪み、涙が勝手にあふれ出す。冷気に蝕まれた心臓が鼓動を早め、息があがってきて苦しくなる。
「そ、んな、の……わかんないよ、ゆう、り……」
あえぐように漏れた言葉を最後に、声が声にならなくなる。次々と零れる涙が頬に幾筋も流れ、顎からすべり落ちていく。
止まらない、止められない。
「う……あ、ああああああ………っ!!」
頭の中が真っ白になる。
せき止めていた感情が溢れて、嗚咽となって喉からほとばしる。
時間も、周りの状況も、何もかも分からなくなって、ただ子どものように泣いて、泣いて、泣き続ける。
唯一、しゃっくり上げた時、大きな手が頬の涙をぬぐってくれたような気もしたが――そこで記憶は唐突に途切れた。