心臓が、灼ける。
――いいか、お前は足と目が良い。フットワークを磨いて、
口から吐き出す息が熱い。
――ある程度はギアが打撃を吸収するとはいえ、お前みたいな小さい女が、体格も体力も勝る男のパンチを一発受けりゃ、その場でダウンだ。
全部ってのは大げさだが、極力避けて機会をうかがえ。
弾丸のように飛ぶグローブが耳をかすめ、風を切る。
――最大の問題は一発KOのパワー不足。
だがそいつはギアに任せられる。お前はギアを、自分の体の一部くらい使いこなせ。
吹き付ける烈風をかいくぐりながら、ただ一心、敵の姿だけを眼の中に焼き付ける。
――相手はお前を女だからと侮ってくるだろうが、そこを逆手に取ってやれ。奴のパンチをかわして、油断してるところに一発、
喉から獣じみた咆哮がほとばしる。
勝機の一点、がら空きになった顎に、全身の力を込めたアッパーが突き刺さり……
「……アアアアアアッ!!」
凄まじい自分の叫び声で、目が覚めた。
ばち、と開いた視界は闇に閉ざされていて、まばゆいライトはどこにもない。
何だ。何が起きた。ここはどこだ。
全身から汗が吹き出し、肩を激しく震わせるほど息が上がっている。天井に向かって突き出した拳は、グローブすら身に着けていない。
「……ゆ……め、か」
数秒後にようやく状況が飲みこめて、振り上げた腕を、ぱたりと布団に落とした。
激しく脈打つ心臓が落ち着くのを待ちながら、太く息を吐き出し、汗をぬぐう。
そして、夢を反芻した。
いや、あれは夢ではない。今夜、つい数時間前、自分が実際に体験した現実の出来事だ。
「…………」
目を閉じようとしたが、眠気が訪れるわけもない。
しばらくしてから諦めて、むくりと起き上がった。洗面所に行き、コップに水を入れる。
それを飲みながら視線を上げると、薄闇の中の鏡に自分の顔が映っていた。
我ながらひどいものだ。あちこち傷だらけの痣だらけ、手当はしたが、きっと明日は頬が腫れている。
トレーナーには極力パンチを避けろと言われたのに、うまく出来なかった。
一度はダウンもして、粘りに粘って五ラウンドでようやくの勝利。決してスマートな結果ではなかったが、
(勝てた。公式試合に、初めて、勝てた)
その事実に、息が詰まりそうなほどの喜びを感じる。
勝てた。自分がずっとやりたかったメガロボクスの公式戦で、自分より強い相手に勝てたのだ。
何度、夢に思い描いたかしれない。
決して叶わないだろうと心の底で諦めかけていた勝利を、初めてもぎ取った。
「……ああっ、くそ! こんなの寝られるか!」
全身震えが止まらなくなって、居ても立っても居られない。
コップを投げ出すように置くと、上着を羽織って玄関へ足を向ける。
全身はまだ試合の名残に悲鳴をあげていたけれど、このほてりを冷ます為には、じっとしていられなかった。
街の光が線となって幾重にも連なり、窓の外を流れ消えていく。
音もなく静かに走る車の中で響くのは、車載テレビのニュースだけだ。
『……さて、本日のスポーツピックアップは、メガロボクスのニューフェイスです。
エントリーの際にも話題になりましたが、なんと女性ボクサーが初参戦! 本日そのデビュー戦が行われ、みごと初勝利をもぎ取りました』
外を眺めていたゆき子は、その言葉に視線を向けた。
画面には、メガロニアトーナメントの会場が映し出されている。
そこにいるのは小柄な女と、彼女より二回りは大きい男。
大人と子どものような体格差で、一見して無謀な立ち合いにしか見えないが、男が次々と繰り出すパンチを、女はしなやかな動きで避け、的確に反撃を放つ。
解説によれば途中、痛烈なボディブローを喰らい、吐しゃするほどのダメージを受けてダウンしたが、それでも立ち上がって起死回生の一打を繰り出したという。
『……IMA規則では、女性の参戦が禁じられていません。
が、それにしても! 彼女のような小柄な女性がメガロボクスにチャレンジするのは、勇敢の一言に尽きます。
そのガッツもさることなら、これだけの体格差でも勝利を掴み取れたのは、やはり白都の合成チタン製のギアがあってこそでしょう……』
「――まずは初戦、無事に勝てたのね。おめでとう、勇利」
画面から目を離して隣に顔を向けると、同じ車内にいた勇利もまた、ニュースに見入っていた。
ゆき子の言葉に少し頭を傾けて、
「祝辞なら、本人に送ってください。
あいつが勝ったのは、あいつ自身の努力によるものです。俺は何もしていません」
そっけなく言った。
だがその声に滲む満足の色は隠しようもなく、ゆき子はふ、と微笑んでしまった。
「そうはいっても嬉しそうね」
「……そんな風に見えるのなら、オーナーに無理を言った結果が無駄にならずに済んだからです。
手間と時間をかけて結果が出なければ、白都の不利益にしかならないでしょう」
「仮に試合で結果が出ずとも、ギアテクノロジーの研究成果として、彼女は立派に役に立ってくれているわ。
そう心配しなくても大丈夫よ」
「俺は別に、あいつを心配をしている訳では」
「ええそうね、分かったわ」
反論を封じて、また笑ってしまう。
彼女が来た当初は、勇利に悪影響がないかと危ぶんだ。
しかし、このところの彼の様子や、ラボでの定期健診の結果を見ても、むしろ精神的に安定して良好のようだから、何が幸いするか分からない。
それに常日頃、自分を律してあまり感情を出さないメガロボクスのチャンピオンは、彼女が絡むと人間味がこぼれ出るようだ。
(無敗のチャンプも人の子、というところかしら)
そう思いながらニュースを眺めていると、勇利が口を開いた。
「……オーナー。あいつに、自分を試すチャンスを与えて下さって、ありがとうございます」
「? 急にどうしたの」
彼女の身分を保証し、メガロボクサーとして活動出来るよう手配した時点で、勇利はゆき子に礼を告げている。
改まって何をと首を傾げると、彼は足の間で指を組み、静かに続ける。
「――あいつはこれまで、自分という人間を証明する機会を得られませんでした。
今日、自らの手でつかみ取った勝利で初めて、自身の価値を見出せただろうと思います。
そしてそれは、ギアという助けがなければ、叶えられない夢だった」
組んだ手に力がこもる――まるで、それは己も同じだったのだと言うように。
「……あなたは恵まれた人だ。
望めば何でも手に入る。そういう人間は、もたざる者の気持ちをくみ取れない。
白都に来るまで、俺はそう思っていました。
だが、あなた達は俺のような人間に手を差し伸べ、人生を掴み取るチャンスを与えてくれた。
俺はそれをいつも感謝しています。
きっとあいつも同じように、あなたに感謝するでしょう」
だから、ありがとうございます、と。
勇利は静かに、心からの謝意を口にする。
その気持ちを受け取って微笑みながら、ゆき子は小さく首を振った。
「あなたがその身をもって協力してくれるからこそ、メガロボクスをここまで大きくする事が出来た。
メガロニアが成功すれば、お爺様と私の夢が叶うのだから……お礼を言うのならこちらの方よ、勇利」
『メガロボクスの紅一点となれば、今後も目が離せませんね。どこまでランクを上げられるか、要チェックです!』
会話の合間に、アナウンサーの弾んだ声が滑り込む。
ちょうどコーナーが終わったのか、画面にはメガロボクス初の女性ボクサーとして彼女の顔が大写しになっていた。
煽るように大きく踊るテロップを目にして、ゆき子はふと眉根を寄せる。ところで、と話を続けた。
「彼女のリングネームは、本当にあれで良かったのかしら。『
勇利もまた画面を見て、小さくうなずいた。
「本人がこれでと申告したそうです」
「あなたにもまだ、本名を言わないの?」
「市民IDを消失して、自分でも身元が分からない、と。
呼びたければキャットでいい、と言っていましたが……十回呼んで、一回反応するくらいですから、名前を呼ばれる事自体、好きではないのかもしれません」
「そう」
自分の出生を知らず、名前すら嫌がる。その感覚がゆき子には理解出来ない。
何も持っていないのなら猶更、自己を確立するために、名前は必要だと思うのに。
(あるいはそれすら持っていたくないから、全てを捨ててメガロボクスに賭けているのかしら)
もたざる者の気持ちをくみ取れない。
先ほど勇利が言った事はやはり、間違ってはいない。
自分はきっと、彼女を理解出来ない。
それで別段困るはずもないのに、ほんの少し寂しさを感じるのは、なぜだろうか。
よく分からないまま、ゆき子はテレビをじっと見つめる。
自らの手で勝利をつかみ取った女は、試合直後で顔から血を流し、あちこちボロボロになりながら、それでも満面の笑みで顔を輝かせていた。