夜を走る。
光が溢れる街中を、人気の失せた道路を、閑静な住宅地を、ひたすら走る。
会社から家まで、普段は車で通っている。相応に距離があるのだが、今日は走ると決めた。何しろ午後のトレーニングを全て飛ばしてしまったので。
走る。走る。走る。
フードをかぶり、ひたすら前だけを見て走る。聞こえるのは自身の息遣いと鼓動。体は熱く、汗が滑り落ち、激しく息が漏れる。オーバーワークだ。わかっていても、走らずにはいられなかった。
そうしてようやく家についたのは、普段の帰宅時間を大幅に過ぎたころだった。
鍵を開けようと玄関で足を止めたら、息が上がってしまった。
「は、はっ、は……」
顎をあげて、整えようと努める。体中がきしむようだ。油断をすればふらつきかねない。それほどの運動をしたつもりもないのに、ダメージが予想より大きい。
(情けない。何をひ弱な)
己を叱咤し、フードを下ろしながらドアを開けた。動きを検知したライトがパッと光り、それに合わせて、玄関先で横たわっていた犬がひょいと顔をもたげた。
「……遅くなったな。すまない」
腰を下ろして靴を脱ぐ。声をかけると、犬はすりすりと頭をこすりつけてきた。甘えているのかと目を向ければ、その口にはしっかり皿がくわえられている。
「ああ、わかってる」
食事、そうだ自分も食事をとらねば。今日は何も食べていなかったと今更気づく。
周りをまわってアピールする犬とともに、ダイニングへ。電気をつけ、棚からドッグフードを取り出し、目を輝かせる犬の前に配膳する。
「わん!」
礼を言うように一声吠えて、さっそくかぶりつく様に、少し笑った。普段と変わりない光景。それがこんなに落ち着くものか、と思いながら腰を上げた時。
「……っ」
ふと、流しに置きっぱなしにしていたマグカップが目に入り、眉間にしわが寄るのを感じた。
昔から使っているだけで、何も変わったところのないカップ。今日の朝、水を飲むために使って、そのまま置いていただけ。それだけのものなのに――数日前に泊まったシャルがそれを使っていた、という事を思い出してしまったから、胸が痛んだ。
(……どうして)
フードをしまった棚に額を押し付け、目を閉じる。
よみがえるのは、電話越しの声。別れよう、と穏やかに告げた彼女の声だ。
(理由がわからない)
わからないまま、シャルが別れを決意した事実だけは揺るがしようがないことだけは理解できて、つらい。そして、
(あいつはここに、何も残していかなかった)
それにも気づいて、なおさら息苦しい。
付き合い始め、私物を置いてもいいくらい頻繁に泊まるようにもなっていたのに、シャルは何一つ持ち込まなかった。いつも自分の荷物は自分だけ、まるでいつ去る時が来てもいいように……いずれこの関係が終わると、思っていたかのように。
「……シャル」
呻いて、その場にしゃがみ込む。千々に乱れる心から目をそらすために会社から走り続けてきたが、無意味だった。
子供のように泣きはしないまでも、この辛さを抱えて立ち続けるのは無理だ。喪失が辛い。悲しい。どうすればいいのか、わからない。
「くぅん」
顔を覆って身じろぎもせずにいると、ぬくもりが寄り添った。ふいに犬が腕の中に頭を入れてきて、彼の顔を見上げる。青い瞳は、常ならぬ様子を案じているかのようだ。
「……ああ。わかってる」
もう一度つぶやき、すがるように抱きしめる。確かな温かさと鼓動を感じると、ほんの少し孤独がまぎれるように思えて、知らず大きなため息を吐き出してしまった。ああ、一人でなくてよかった。
勇利話でキャットがいなくなった時の小話。