思いは、遠く、近く2

 結った髪をほどき、真っ白なワンピースをまとったアイツが、駆けていく。
 裸足の足下では波が砕け、どこまでもどこまでも、砂浜と海が広がっていた。
 鳴り止まない潮騒。砂を踏む音。それ以外何一つ聞こえないその場所で、アイツは波と遊んでいた。ふわふわした髪は、水面に弾ける光を受け、鮮やかに輝く。
 それは、アルムス・シャムス――地平に沈む太陽が最後に投げかける、燃えるような赤。『夕陽』の名を与えられた女は、何もない海辺で、無邪気に、楽しげにはしゃぐ。
 やがてこちらに気づくと、アイツは笑顔で、まっすぐにやってきた。躊躇いもなく、ふわりと抱きついてきて、囁く。
「誰よりも、何よりも、あなたを愛しています」
 とろけるほどに甘い声音の告白に、どきりと心臓が跳ね上がり、調子外れのリズムを刻む。こんなことはあり得ない、そう思うのに、なぜか手が動いて、アイツをしっかり抱きしめてしまう。優しく頭を撫でると、アイツはうっとりした表情でこちらを見上げ、
「……あぁ、我が君……」
 目を閉じて、ゆっくりと顔を近づけてくる……

 ――そうだ、最初から分かり切っていたじゃないか。
 ――アイツが見ているのはライダーだけで、他のモノなんて眼中にないんだってことくらい。
 ――アイツが誰を好きだろうと、そんなの関係ないと、思っていたのに。
 ――なのになぜ――

 ――ボクは今、ライダーに代わってコイツにキスしたいと思ったんだろう――

「どうした、坊主。さっきから黙りこくって」
 夢の残滓は、野太い声であっさり蹴散らかされた。ハッと我に返ったウェイバーは、背中を向けたライダーが、肩越しにこちらを見下ろしているのに気づき、
「な、何でもない」
 慌ててそっぽを向いた。そうか? と首をひねりながら、問いつめる気も無いのか。ライダーがあっさり前方へ顔を戻したので、ほっとしてつい、ため息をついてしまう。
 助かった、突っ込まれて説明する羽目になったら、何と言っていいか分からない。
(別にボクが好きで見たわけじゃないけど)
 ライダーの夢を覗くだけでも後ろめたいのに、ましてやあんな内容ではなおさら――。
 夢の中でウェイバーはライダー自身になっていて、シャムスとオケアノスで抱き合った。他に何をしていた訳でもないのだから、たかがそれだけ、と割り切ってしまえばいい。だが、女子と手をつないだ事も無い少年には、あれでも十分刺激的だった。
(ううっ、何であんな夢見るんだよ、バカッ!!)
 顔を真っ赤にしたウェイバーが恨めしげに睨みあげた先では、ライダーが手綱を取り、アインツベルンの城目指して、神威の車輪を走らせている。
 二夜にわたって王の軍勢を展開した結果、ライダーは深刻な魔力不足に陥り、丸一日姿を見せなかった。
 それに気づいたウェイバーが、彼を召喚した場所で魔力供給に専念した結果、こうして実体化し、宝具を操れるようにまで回復している。
 だが、その力の嵩は明らかに減っていた。今もなお、ウェイバーから魔力が送られてはいるのだが、ライダーの巨大な器に比して、彼の供給量はあまりにもささやかすぎるのだ。
「調子がすぐれんのなら、早めに言っとけよ。セイバーとの決闘中に倒れられでもしたら、敵わんからな」
 しかし不調など微塵も感じさせず、平素の威厳を保ったまま、ライダーはウェイバーを気遣った。
「…………」
 心配しているのか、バカにしているのか。今までだったら後者にとって憤慨していただろうウェイバーは、しかし小さく首を振るだけで応えた。
(自分のサーヴァントに気を遣われるなんて、情けない)
 悔しいが、しかし仕方がない。聖杯戦争も終盤に至って、ウェイバーはようやく己の力不足を認めていた。
 ウェイバーは戦うライダーの補佐を勤めるどころか、十分な魔力も与えられず、敵の剣の一振りであっさり死に至るような、脆弱な存在にすぎない。
 こんな有様では、ライダーがマスターたる自分に、上から物を言うのも仕方ないではないか。
(ボクは今までライダー達に守られてただけだ)
 これまで生きながらえてきたのは、最強のサーヴァントが彼の前に立って刃を受け続けてきたからなのだ。そう思ってふと正面に目を向けたウェイバーは、そこで先ほどから胸にわだかまっていた違和感に気づいた。
「……なぁ、ライダー。アイツは、どうしたんだ?」
「んん? シャムスの事か」
 そう、いつもライダーの背後に控えている従者の姿が無いのだ。てっきりライダーが復活すれば出てくるだろうと思っていたのだが。
 あんな夢を見た後で顔を合わせるのは気まずかったが、姿が見えないとなると、それも落ち着かない。
(もしかして、あいつも魔力不足で出てこられないんだろうか)
 ライダーは実体を保てるようになったが、シャムスの分まで回せたかどうかは分からない。パスで繋がっているとはいえ、ウェイバーは彼女の状態がいまいちよく見えないのだ。それに、
『……マスター、ミトリネス殿。後は……任せた……』
 海魔戦の最中、真っ青になったシャムスは突然消えてしまった。あれはまるで、遺言じみた台詞だった――そう思い返してぞっとする。
「まさか……消えちゃったり、してないよな?」
 最悪の事態を考え、おそるおそる尋ねる。が、ライダーはあっさり首を振った。
「消えてはおらぬ。が――」
 そこで珍しく言いよどむ。困ったように頭を掻くその横に移動して、ウェイバーは何だよ、と巨漢を見上げた。
「アイツも、実体化出来ないほど弱ってるのか」
 もしそうなら、何とかしてエネルギーを摂取し、魔力を回せるようにしなければ。そう考える彼に、ライダーは一つ大きなため息をつき、物思わしげに眉を寄せる。
「そうではない。あやつは眠りについておるのだ」
「……眠ってる? 何でまた」
 サーヴァントには本来、睡眠など必要ない。ライダーは生前と同じ振る舞いを好む故、ウェイバーの部屋で遠慮なく鼾をかいていたが、それは例外だ。
 この期に及んで、ライダーに対して忠実すぎるシャムスが、主をほっといて惰眠をむさぼるとは到底考えられなかった。
 首を傾げると、ライダーは口の端に苦笑を上らせた。星の瞬く空を見上げ、言う。
「シャムスは自身の活動を全て停止し、魔力を余に注いでいるのだ」
「え」
「余の窮地を救わんと、余の内に戻ってからこの方、ずっと供給を続けておる。己が身も省みずにな」
 なりふり構わず、ひたすら王へ魔力を捧げる従者――その意味と導かれる結果を頭の中に描いた途端、ウェイバーの血の気がざぁっと引いた。思わずライダーの腕にしがみつき、
「な、何考えてんだよ、アイツは! そんな事したらアイツの方がほんとに消えちゃうじゃないか!」
 勢いよく叫ぶ。ライダーも然り、と渋面になった。
「先ほどからもう十分だと、何度も言っておるのだが、どうにも目を覚まそうとせんのだ。自身など、どうなろうと構わぬと思い切っておるのだろう」
「……っ」
 あぁ、あり得る。アイツなら十分あり得る。何しろ王の為なら、自分の願いもゴミだと言い切った奴だ。
 恐らくシャムスは、海魔戦の時にライダーの魔力不足を感知し、全力で支援する決意を固めたのだろう。だから、あんな捨て台詞を残して消えたのだ。
「何てバカなんだ、アイツは……」
 ライダーから離れ、ウェイバーは思わず呻く。
 物事には限度とか、ちょうどいい案配とかあるだろう。ウェイバーの補給でひとまず回復出来たのだから、自分も適当な頃合いで復活すればいいのに。
「そうさなぁ。元よりシャムスは余に魔力供給する事を第一義としておるから、まぁ本来の役目を果たしているといえば、間違いではないのだが」
「え? 魔力供給が役目、って……」
 言葉を反芻したウェイバーは、不意にカァッと全身が熱くなるのを感じた。
 魔力というのは体液に凝縮されている。例えば汗や唾液、血などにも含まれているが、何よりも濃厚な魔力を得られるのは――
「って……じゃ、その、オマエ達が、ふ、風呂場であぁいう事したのは、つまりその……そっそう、儀式、儀式のためだったってのか!?」
 しどろもどろになりながら何とか質問すると、ライダーはハッハッハッと軽やかに笑った。
「そういう意味も無くはない。一番はシャムスと久方ぶりのセックスを楽しみたかったからだが」
「わ――! わ――――ー!! 黙れこのバカ――――――!!」
 上空を走る戦車の上で誰が盗み聞くわけでもないのに、つい声を張り上げてしまう。聞くんじゃなかったと激しい後悔と恥ずかしさのあまり、ウェイバーは頭を抱えた。
(ば、バカバカやめろ思い出すな、畜生、なんであんなリアルな夢見るんだよコイツは!!)
 セ……いや、その言葉を聞いた途端、夢で抱きしめたシャムスの温もりや良い匂いや柔らかさが蘇ってしまい、体がぶるぶる震えてくる。駄目だ、あんなものを思い返してしまったら、あられもない想像が駆けめぐってしまうではないか……!
 だらだら汗をかきながら、挙動不審に陥るウェイバー。それに構わず、ライダーは手綱を片手に持ち替え、空いた手で顎を撫でた。
「しかし、身の内に溜めた魔力を余に補充するのは良いが、それでシャムスの形を保てなくなるのでは、いささか困る。そろそろ引っ張りださねばなるまいて」
(形を……保てなくなる?)
 あうううう、と細い悲鳴を漏らしていたウェイバーは、しかしそこでライダーの台詞に引っかかりを覚えた。
 消える、ではなく、形を保てなくなるというのは、なんだか妙な物言いだ。まるで……そう、例えばホムンクルスか何かのように、依り代をもってシャムスという形があるような表現ではないか。
 それに先ほどから話を聞いていると、どうもシャムスは、ライダーへの魔力を与えるのが本来の仕事らしい。
 しかしサーヴァントは元々、外部からの魔力供給によって現界を維持する存在である。いくらシャムスがライダーの従者とはいえ、自身の魔力を提供する事が最優先されるなんて、少々おかしい気がする。
(いや……そうじゃない)
 おかしいといえば、そもそもシャムスの存在自体があり得ない。
 サーヴァントの召喚は聖杯の手助けによって実現するもので、それ自体は簡易な儀式でも問題ない。だが、シャムスはその儀式さえ行わず、ライダーの求めによって姿を現した。
 もしその召喚が聖杯のバックアップ無しなら、現界に必要な魔力は一流の魔術師でも一日と保たないほど膨大な量になるはずだし、ウェイバーは勿論そんな力など持ち合わせていない。
 それなのにシャムスが今なお、存在を保っているということは――
「……なぁ、おいライダー。ちょっと聞くけど……アイツって、正規のサーヴァントなのか?」
 今更の質問に我ながらバカみたいだと思う。だがおおかた予想していた通り、ライダーは否、と首を振った。
「シャムスは優れた兵士だが、業腹なことに英霊として認められなくてな。余の軍勢に加える事も叶わなんだ」
 いかにも口惜しいと言いたげに眉根を寄せる。だが、その表情はすぐおおらかな笑みに塗り変わった。なぜか誇らしげに胸を張り、ライダーは告げる。
「故にな、余は世界の奴と英霊の契約をする際、シャムスを宝具とさせたのだ」
「ほ……宝具!? アイツが!!?」
 ウェイバーは目をこぼれ落ちそうなほど見開き、呆気に取られた。人の姿をした宝具だなんて、そんなバカな! そんな事が出来るなんて、聖杯戦争について記述した本にはいっさい書かれていなかった。
「人一人を宝具にするなんて、そんな無茶苦茶な……そうだ、だいたい宝具ってのは、その英霊にまつわる故事や逸話が具現化したものだって、オマエもいってたじゃないか。アイツ自身が、オマエの逸話そのものだっていうのか」
 身を乗り出して問いつめると、ライダーは大きく首肯する。
「シャムスは神雷と詠われた神速の使い手よ。その剣が余を助けた事は一度や二度ではないのだ。まぁ英霊になるには足らぬとしても、その軍功はこの征服王の宝といって相違ない。
 坊主、余は宝具が必ずしも武器の形を取るとは限らない、とも言ったはずだが?」
「そ……そりゃ、言ってたけど……」
 にわかには信じがたい。が、そもそも、臣下との絆を最強の宝具としているライダーであれば、シャムスが宝具であっても不思議ではないかも知れない。しかもそういう事なら、先ほどの疑問も解消する。
 なるほど、シャムスがサーヴァントではなくライダー自身の宝具なら、ウェイバーにかかる負担がそれほど無いのも分かる。ウェイバーが彼女の状態を把握しきれないのも、おそらくは宝具である故だ。
「じゃあ……アイツがオマエに魔力供給してるってのは」
「平時においては魔力を身の内に蓄積し、此度のように余が事欠いた際は、それを補充する――余の宝具としてのシャムスの役割は、まぁそういったものだな」
(つまりシャムスは、ライダーの予備バッテリーのようなものか。……うーん)
 ぱっと思いついた例が、しかしいかにも無機質な感じがして、ウェイバーは顔をしかめた。本来の役割がどうであれ、あんなに感情豊かな存在を物として扱うのには抵抗がある。それはライダーも同じなのか、
「だが、宝具としての本分を果たすより、余はシャムスが姿を見せてくれたほうが、余程喜ばしいのだがなぁ。あれは誰に似たのか、頑固にすぎる」
 口を曲げながらぶつぶつ言っている。
「……そんな事言ったって」
 そのいかにも気心の知れた風な言い方が、何となく、癇に障る。ウェイバーはライダーから目をそらし、ぶっきらぼうに言った。
「アイツをそういうモノにしたのは、オマエなんだろ? あの性格を考えれば、今回の事だって、簡単に想像つくじゃないか。……そんな事言うくらいなら、最初からアイツを巻き込まなきゃ良かったんだ」
 我ながら驚くくらい、声が尖る。ウェイバーとしては結構な怒りがこもった非難に、しかしライダーはそうさなぁ、としみじみ応える。
「余と共に世界の奴隷になるような無理を強いたのは、軽率だったやもしれん。あやつは幼少より戦以外を知らず、平穏な、女としての幸せなど、この征服王をして与える事が出来なんだ」
『私の、願いは――我が君のお子を生み、ともに生きることだ』
 どきっとしたのは、シャムスの言葉を思い出したからだ。王の子を産み、母になる事が出来なかった、シャムスの無念。それをライダーも察していたという事だろうか。
「だがな、坊主」
 ウェイバーの動揺を知らず、ライダーは手綱を持ち直し、目を細めて眼下を見据えた。冬木の街はとうに通り過ぎ、そろそろアイツベルンの森へとさしかかるところだ。敵の本拠地を前にして征服王の気迫はみなぎり、戦の興奮に酔いしれるように獰猛な笑みを浮かべ、それでも、

「――それでも、余はシャムスと共に居たかった。あれは余が愛した女であり、従者であり、我が娘に他ならぬのだから、永久とこしえに、共に生きたかったのだ」
 その声音はどこまでも優しく。
 どこまでも慈しみに満ちていて。
 まるで、今目の前にシャムスがいて、愛を語りかけているかのように甘く、深く響いた。

「――」
 言葉では言い尽くせないほどの強い、強い絆。それを感じ取ってしまったウェイバーは、もう口を噤むしかなかった。逃げるように眼下の闇へ視線を転じ、ぐっと拳を握りしめる。
(何だよ……何だよ、それ。ライダーも、アイツの事、大切に思ってるんじゃないか)
 そんな事は当たり前だ。あれほどまっすぐ、何の迷いもなく慕われれば、ライダーとてシャムスを愛さずにはいられないだろう。それこそ、死した後も側に侍らしたいと願うほど――
(……バカ。バカバカバカ、オマエは大バカだ、シャムス。こんなに思われてるのに、王の為なら自分はいらないなんて)
 何かも奪い尽くして止まない征服王が、死に分かたれてもなお愛したのは、シャムス自身に他ならないのに。
(……そうだよ、バカだ。ボクも、アイツも)
 ライダーの為を思い、今にも消え失せそうなほど自分の身を捧げるなんて無茶をするアイツも。
 そんなバカに怒りを感じながら、今すぐ会いたいと、あの笑顔を自分にも見せてほしいと、そう願ってしまう自分も……
(……っ、あぁもう、何でこんな事になっちゃったんだ!)
 ぐちゃぐちゃにこんがらがった思考を持て余し、ウェイバーはため息まじりに視線を動かした。と――闇に沈む風景の中で一点、ひときわ明るい光が視界に映る。
「……ライダー、おい、あれ……ボクらのことを追ってきてないか?」
 指さしたその光の点。それを見咎めたライダーが眉を上げ、
「ほぉ? 誰かと思えばセイバーか。こりゃ探す手間が省けたわ」
 にんまり、といかにも楽しげに笑うのを見上げ、ウェイバーはとりあえず、もやもやとした懊悩を棚上げにすることにした。
 考える事なら後でも出来る。今はただ、目の前にある戦いに備えるべきだ。
 ……以前、シャムスに言われたように。
 自分はライダーにはそぐわない、未熟なマスターだ。不満を抱かれても仕方がない。もっと相応の力を持っている他の誰かが、ライダーを使役すれば、きっと楽に勝てた。
 それでも――ウェイバーはライダーのマスターだ。
 世に名高い征服王に選ばれたのが脆弱なこの身なら、せめて精一杯、マスターとしての務めを果たそう。
(そうしなければ、アイツに顔向け出来ない。――勝つ。この戦に、勝ってやる)
 新たな決意を胸に、ウェイバーはきっと顔をあげる。その幼い眼差しはもう、怖じることさえ忘れているように力強い光を宿していた。