思いは、遠く、近く1

 王にこの命を捧げ、魂を賭けて何よりも尽くしよう。従者となったあの日に抱いた誓いは、この胸に刻み込んで、一時たりとも忘れた事はない。
 唯一人の、尊く愛しい主の為なら、どんな犠牲も厭いはすまい。
 王のおわすところに我があり、王の崩ずるところに我は消えゆくのだから。

 闇夜に霧が下り、むせかえるような悪臭と水蒸気が周囲に立ちこめる。人間であればまともに吸い込むだけで死に至るだろう瘴気の渦、分厚いその幕を、雷鳴と疾風が轟風をもって切り裂く。
「はぁぁぁぁっ!!」
 キャスターの邪悪な召喚によって、未遠川に現れいでた巨大な海魔。不気味に蠢くその体表を、シャムスは気合い一閃、駆け抜けた。
 その手が振るう剣は、次々と襲いかかってくる触手を千々に切り落とし、落とした瞬間には五メートル、十メートル先まで跳んで、留まることを知らない。空を奔る稲妻にも等しいシャムスの速度に、巨体の鈍重さでは到底追いつかぬと判断したのか。それまで執拗にシャムスを追いかけていた触手が、突然ぴたりと止まった。
 それを見咎める間こそあれ。不意に足下の地面が周囲まるごとめくれあがり、シャムスは空中に投げ出される。
「っ――!」
 如何に速さを誇ろうと、足場がなければ逃げようがない。下からの強風に結った髪がごうと巻き上げられ、ハッと肩越しに視線を走らせたシャムスは、川面が割れて、そこから幾重にも束ねられた触手が突き上がってくるのを認めた。その瞬間、
「うっ!」
 体勢を立て直す事も叶わぬシャムスの体を触手が覆い尽くした。どす黒い紫色の皮膚からにじみ出るぬめぬめした酸の液が、音を立てて従者の腕や具足を焼き始め、同時に容赦なくその全身を締め上げて一息に握りつぶそうとする。
「く……っ!!」
 みしみしと骨が軋み、肉の焦げる嫌な臭いと激痛に目の前が明滅し、悲鳴が漏れかかる。もがきながらも抜け出せず、シャムスが歯を食いしばった時、
「AAAALaLaLaLaLaie!!」
 目の前に雷光が迸り、闇を霧散させた。否、それだけではない、シャムスに巻き付いていた触手が刹那に引きちぎれ、ばらばらにはじけ飛ぶ。
「シャムス!」
「っが君……!!」
 名を呼ぶ主の声に、息を継ぐ間も惜しみ、シャムスは苦しげにのたうつ触手を思い切り蹴った。吹き荒れる風の中、身を投げ出した空中でくるりと回転し――ついで、だん! と勢いよく御者台に着地する。シャムスを受け止めた神威の車輪は、おいすがる触手を雷で焼き払いながら、急上昇した。
「うわぁ、落ちる、落ちる!!!!」
 飛び乗った衝撃と急加速で御者台がぐらりと傾ぎ、座り込んでいたマスターの少年が悲鳴を上げる。
「結界があるのだ、落ちるか! 怖ければその辺りにしがみつけ!」
 体勢を立て直したシャムスは肩で息をしながら叱咤し、改めて眼下を見晴るかした。
 高みから見下ろした海魔は、しかし一向に弱る気配を見せていない。シャムスの剣や、蹄と車輪に引き裂かれた傷は瞬く間に再生しており、先よりもなお勢いを増している有様だ。
 これまで幾度となく致命傷に相当する打撃を与えたというのに、その全てが無に帰すのを見咎め、シャムスは鋭く舌打ちした。
(おのれ、おぞましき異形め……!)
「むぅ、これではきりがないのう」
 同じ事を見て取ったらしいイスカンダルも、渋面で唸る。
「キャスターの魔力も、あれの体力も、どうやら無尽蔵のようだな。速攻で叩き潰そうにも、これじゃあ埒が明かぬ」
「ど、どうすんだよ、ライダー。このままじゃあいつ、上陸しちゃうぞ」
 明かりのともる民家をこわごわ見下ろし、少年は言う。
 先にアインツベルンのマスターが言っていた事だが――キャスターから供給される魔力で現界を保っている海魔がもし、川から上がり、人間を食い始めたら、止める手だてが無くなってしまう。
 そうなれば聖杯戦争どころではない、巨魔に蹂躙された冬木は、何一つ残らない死の街を化すだろう。
「我が君……」
 どうすればいい。自分自身どころか、王さえ攻め倦ねる現状に、シャムスは不安の表情で主を仰ぎ見る。御者台の端にしがみついた涙目の少年からの視線も受けたイスカンダルは、口を真一文字に結び、
「……うむ、とりあえず戦略を変えるしかあるまいて。このままではどうともできんわ」
 神牛たちへ手綱を打ち、水面を自在に駆けて戦うセイバーの頭上へと滑るように向かった。

 海魔をひとたび王の軍勢の固有結界内にひきこみ、時間稼ぎをする。その間にあれを討つ手を考えろ――王が共闘するセイバー、ランサーへ提示したのは、そんな苦し紛れの手段だった。
 戦略家として名を馳せたイスカンダル王をしてそのような方策を採らざるを得ないとは、よほどに窮地なのだ。
「我が君……」
 昨夜に続いて、冬木の夜を浸食する固有結界を、シャムスは歯噛みしながら感じていた。
 海魔と軍勢がぶつかり合う気配はこの場にいるサーヴァントとマスターの誰もが感知しているが、シャムスはイスカンダル王との繋がりが深い故に、目を閉じれば、異なる位相で皆が戦う様を、瞼の裏に見る事ができた。
 悪魔の術によって尋常ならざる治癒能力を持ち合わせた海魔は、勇壮なるマケドニア軍をもってしても討ち果たす事は叶わない。
 振るう槍が折れ、軍馬がなぎ倒され、鬨の声をあげて駆ける戦士達がいともたやすく触手に巻き取られて握りつぶされる。断末魔の叫びを残して消えていく兵達の中、王もまた無傷ではいられない。
 むしろ、先陣を切って勇猛果敢に攻めかかる王と神威の車輪は、時を重ねるごとに傷を増し、砂塵と共に鮮血をまき散らしていく。
 吠え猛る王の剣と牡牛の蹄が海魔の体に大穴を穿ったのと同時に、別方向から伸び上がった触手によって戦車が弾き飛ばされたのを見て、シャムスは悲鳴を上げかけた。
(我が君……我が君……!!)
 声を殺し、拳を握りしめ、歯噛みする。王に仇なす敵の姿を見ながら、王が傷つく様を見ながら、自身で何も出来ない事が苦しい。
『我が君、私も共に参ります!』
 もちろん、王の軍勢を展開するにあたってシャムスは当然のごとく名乗り出ている。が、王は即座に否と答えた。
『そなたはここで坊主と共におれ。余があのデカブツを相手にしている間、何が起きるか分からぬ』
 王の赤い瞳は、ランサーとセイバーの裏切りを懸念していたのではなく、アーチャーとバーサーカーの戦いを捕らえていた。
 海魔など知らぬとばかりに、二体のサーヴァントは轟音をあげてぶつかり合い、火花を散らし、自在に空を駆ける。激突の度に爆ぜる魔力はその余波だけで烈風となって川面に大波を作り出し、時に、海魔を倒そうと奔走するサーヴァント達の妨げにもなるほどだった。彼らは今はまだ相手のみを敵と見据え、こちらに矛先を向けてはいないが、一時でも海魔がいなくなれば、状況が一変する可能性がある。
(いざという時の為、マスターの守護を任せた)
 確かにこの激戦の最中、未熟な魔術師である少年を取り残すのは危険だ。言外の命を読みとり、シャムスは渋々頷いた。だが、いざ王の存在が無くなると、やはりついていけばよかったと悔いに襲われる。
(我が君の為に、一刻も早く手だてを打たねばならぬのに)
 セイバーの封じられた左手には、対城兵器がある――その情報をもって、ランサーは自らの宝具を破壊して、彼女を呪いから解きはなった。万全の状態になったアーサー王が顕した黄金の宝具は確かに、息を飲むほどに強大で力強い。闇の中にあって燦然と輝き、戦場に立つ者全ての憧憬と誉れである伝説の剣の顕現に、その場にいた誰もが、間違いなく勝利を確信した。
 だがそのセイバーは今再び、狂戦士に翻弄されていた。
 海魔の消えた川面に水柱が立て続けに起こり、振動に足下が揺らぐ。バーサーカーの乗る黒い化鳥――あれは王が見ていたビデオにあった、F15とかいう戦闘機だ――が火を吹き、セイバーを容赦なく追い立てる。頭上を取られたセイバーにはバーサーカーに抗する手が無いのだろう、少女は水面を疾走しながら、ただひたすら砲弾の嵐から逃げ回っていた。あのままでは、とても海魔に対峙などできまい。
「セイバー……どうすればいいの……!」
 アインツベルンのマスターは己がサーヴァントを目で追いながら悲痛な声を漏らす。その隣に立つ少年もまた焦りの色を浮かべながら、
「そうだ、ライダーに……!」
 現状を伝える為か、意識を集中するそぶりを見せたその時、

 ド ッ

 突然シャムスの視界が三重四重にもぶれ、鼓動が弾けた。
「!?」
 目の前が赤くなり、膝が勝手に折れて、体が沈む。わななく手から剣が滑り落ち、耳障りな音を立てて地面に転がった。
「えっ……お、オマエ、どうした!?」
「――シャムス!」
 音に驚いて振り返った少年と、結界の中から現れいでた親衛隊が一人、ミトリネスが同時に声をあげる。遠く二千年の昔、共に戦場を馳せた懐かしい顔に、しかし再会を喜ぶ余裕など、シャムスには無かった。
「あっ……が、ぁっ……!!」
 熱い。内側から炎に食い尽くされているかのように、体が熱い。シャムスは痙攣しながら自分の体を抱きしめた。熱い、痛い、苦しい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いだがこれは、自分自身の痛みではない……!
「ミトリネス……殿っ、わ、我が君は……!!」
 絞り出した声に、ミトリネスはぐっと歯を食いしばった。その苦々しい表情を見て、悟る。
(我が君が、限界を迎えようとしている)
 先に述べたように、シャムスの存在は、王と密接に繋がっている。生死を共にする誓いを立てた主従はいついかなる時でも、パスを通じて互いの状態を確認することが出来たし、いざとなれば魔力の交換供給を行うことも可能だ。
 だが、今。
 イスカンダル王は海魔を押さえきれず、限界を越えて放出してきた膨大な魔力は、枯渇し始めていた。
 このままでは現界すら危ぶまれるほど逼迫しているというのに、この期に及んで、王がシャムスやマスターからの魔力供給を抑制していることに気づき、シャムスは絶望のあまりあえいだ。
(なんということ……我が君、命じてくださればこの命、いつでも差し上げましょうに……!)
 王が消えてしまう。その可能性を突然目の前に突きつけられ、絶望に心が震える。これでは、あの時の繰り返しだ。自分はまた王の末期に間に合わず、その死を嘆く事しか出来ないのか。
「おい、おいしっかりしろよ!! 大丈夫か?」
 その時、マスターが慌ててシャムスの顔をのぞき込んだ。心配そうに眉根を寄せた少年は、シャムスを支えるように肩に手を回してくる。
「……」
 その腕はシャムスのそれよりも細く頼りなく、王のそれとは勿論比べようもない。だが――彼女を助けるその温もりは、恐怖に凍えた体に、少しだけ熱を取り戻させる。
(……そうだ……何を諦める。あの時は何も出来なかったが、今の私には、王にご助力する手だてが……あるではないか)
「――私は、いい。気に、するな」
「そんな顔で、何言って……うわ、おい!」
 シャムスは力の萎えた体を叱咤して立ち上がると、同じく腰を上げた少年を押して、無理矢理川へ向き直らせた。その薄い肩に、震える手ですがりつき、
「……マスター、ミトリネス殿。後は……任せた……」
「え?」
 細い声で吐いた懇願の答えを聞きもせず。
 ランサーによってバーサーカーが遂に撃ち落とされた瞬間、シャムスはその身を青い光の粒にほどき、雲散霧消した。