従者、彼の日を思う4

 白い敷布の上を、汗ばみ紅潮した肌を伝って、鮮やかな赤の髪が花弁を散らされたかのように波打ち広がる。
 果てしないと思えるほど惑乱の時を過ごした後では、今が夢なのか現なのか分からない。神々の宴もかくやと思うほどの幸福感が満ちあふれ、あまりの充足に全身が麻痺してしまったかのように動かなかった。
「体は痛まぬか、シャムスよ」
 言葉もなく惚ける彼女に、優しい声がかかる。陶然とした眼差しを動かし、シャムスはイスカンダルへとゆっくりほほえみかけた。己の頭の下に敷かれた逞しい腕、すぐ側でふいごのように上下する分厚い胸板にたとえようもない安堵を感じながら囁く。
「はい……どこも……何も……」
 痛みどころか、王の御手で与えられたのは、これまで全く知らなかった新しい幸福だけだ。
 シャムスとて、男女が床入りして何をするかは知っていた。だがその知識は兵や下働きの女達が語る話を小耳に挟んだ程度のもので、その内容をしかと理解していたわけではない。ただ、初めての女には大層な苦痛が伴うという話は聞いていたから、どれほど苦しいものなのか、戦々恐々としていたのである。
 だが、今夜。イスカンダルは最初から最後まで優しくシャムスを扱い、痛みなど少しも感じさせなかった。それどころか、シャムスは自分でもままならぬほどの衝撃――いや、あれこそ快楽というものなのだろう――に何度も見舞われ、つい我を失って王にすがりついてしまった。
(あぁ……幸せだ……)
 けだるい疲労感の中で、シャムスは幸福を噛みしめた。あれほど悩み苦しんでいたのが嘘のようだ。
(もうこれで……何の心残りも、ない)
 子としてずっと王の側に居たい。長じるほど大きくなっていったその望みはいつの間にか、女として愛されたいというものに変わっていた。ロクサナを愛おしむ王を見てようやくそのことに気づき、シャムスは衝動的に己が身を差し出した。どうせ受け入れられぬだろうと自暴自棄になっていたが、王の寛容で思いもかけず願いが叶ったのであれば、もはや悔いはなかった。
(この一夜があれば私は、この先何があろうと、耐えていける)
 満ち足りた気持ちの中、シャムスは徐々に現実へと意識を切り替えていき、やがてけだるい体を押して起きあがった。はらりと掛け布が落ちて肌が露わになったので、今更恥じらいを覚えて、胸元まで引き上げる。
「陛下……」
「……ん? 何だ?」
 満足そうにうとうと寝入り始めたイスカンダル王は、瞼をあげて目線を向けてくる。シャムスを見つめる時はいつも優しいその目にほっとしながら、シャムスは言葉を続けた。
「私は……今宵の事、決して忘れませぬ」
「うむ。余にとっても、忘れがたき夜であった」
 そういって空いた腕枕の手で頬杖をつき、もう片方でシャムスの長い髪をすくい上げ、無骨な指を絡める。
「つい少し前まで小さな幼子であったと思っていたが、よもやこれほど美しい乙女になっていようとは。いやはや、余も年を取るわけだ」
「そのようなご冗談を……陛下はいつまでもお若くていらっしゃいます」
 シャムスからすれば勿論ずいぶんな年上だが、イスカンダル王は実際まだ二十と六を数えたばかりで、数々の国を平らげてきたその総身は若々しさに満ちている。王はにやっと笑った。
「そうかそうか、余もまだ、うら若き乙女を満足させられるだけの精力はあるというわけだな」
「それは……あの……素晴らしゅうございました……」
 身も世もなく乱れてしまったことを思い出し、シャムスは頬を紅潮させて縮こまった。
 先ほどまでの自分はまるで別人のようで、あまりにもはしたなかった。王にも呆れられているのではないかと恐れたが、イスカンダルは満悦の笑みを浮かべた口元にシャムスの髪を引き寄せ、口づける。
「それは重畳。そなたの新床の相手をつとめられたこと、余は嬉しく思うぞ。こうなってから考えてみたがなぁ、余は多分他の男にそなたを寝取られていたら、そりゃもう悔しくて仕方がなかったであろうよ」
「そ、そんな……」
 初めての閨は王以外に考えられないし、きっとこれが最後だ。これから先どんな出会いがあったとしても、シャムスは固く貞節を守ることになるだろう。
「……陛下、我が儘を御聞き入れ下さり、有り難うございました。このシャムス、一生の、忘れがたき思い出でございます」
 耳まで熱くなっているのを感じながら、シャムスはか細い声で囁いた。朝は近い、夢も覚める時だ。王の側近が現れるより前に退室しなければ。
 満ち足りた幸福と、一方でこれが王の側にいられる最後の時だと絶望的な寂しさを抱えながら、シャムスは寝台から下りようとした。だが、
「待ちおれ、シャムス。どこへ行くつもりだ」
 むくりと起きあがったイスカンダル王が驚きの声を発したので、シャムスは思わずびくっとした。
「も、勿論、自分の天幕へ戻ります」
「なにをいう。そなたは余のものだ。もう一人寝など許さぬぞ」
「あっ」
 始まりの時と同じように王はシャムスの腕を掴み、己の懐中に捕らえてしまう。熱く脈動する広い胸に再び抱き寄せられ、シャムスはボッと音がしそうな勢いで赤面し、同時に混乱した。なぜ王は引き留めるのだ、ここに自分がいては騒ぎのもとにしかならないのに。
「へ、陛下、おはなし下さい!」
「ならん。今のそなたを兵士どもの中へ戻してみろ。野獣の群に子兎を放つようなものだわい。四六時中、身の危険に晒される事になろうぞ」
 軍の中にあって男と同然の扱いを受けてきたのだから、まさかそんなはずはない。とシャムスは思ったが、カラムの狼藉を思いだし、つい言葉をなくした。
(あんなことがこれからも起きないとは……確かに言えないけど)
「そなたは余の従者となれ、シャムスよ」
 引き寄せたシャムスの背を、滑らかな肌の感触を楽しむように撫でながら、王は囁きかける。
「そなたは余の側近くに仕え、余と共に戦場をかけ、余の腕の中で夢を見よ」
「っは……へ、へいか……ですが……そ、それはあまりにも酷な仰りようで、ございます……っ」
 艶めかしい愛撫と夢のように甘い誘惑に、またも体が火照る。くらくら目眩に襲われながら、シャムスは必死に言葉を紡いだ。
「はて、酷とな。余の従者となるのは不満か」
 首を傾げる王に、シャムスは不敬と知りながら一瞬苛立ちを覚えた。豪放磊落な性根であれば些事にこだわらぬのかもしれないが、いくら王とはいえ、これは見過ごせない。
「……私のような卑賤の者がおそばにいては……ロクサナ様はたいそう不快に思われる事でしょう」
 イスカンダルの胸に手をついて離れ、シャムスは砂を噛むような思いで呻いた。
 勘違いしてはいけない、この腕は、胸は、声は、笑顔は――自分のものではないのだから。
「陛下がロクサナ様をどれほど愛しておられるか……私とて、理解しています」
 胸の痛みがまた蘇ってきて、辛い。シャムスは目をきつく閉じ、言葉を吐き出す。
「私はただ今宵一度きりの思い出さえあれば――それで十二分に、幸せでございます。どうか……どうか私を哀れと思われるのであれば、そのような御命令を御下しにならないで下さい」
 これは、もう二度と王の側近くに姿を見せぬと決めたが故の、決死の行動であったのだ。
 胸中に燃え上がる恋情を抱えたまま、王と后が愛し合う姿を側で見届ける事など、出来ようはずがない。
「陛下、私はもう二度と御前に――」
 この身を晒しはしない。そう告げようとした時、不意に顎がすくわれ、
「んっ……!」
 口を塞がれた。続く言葉は飲み込まれ、先ほどまでの優しさなど嘘のように荒々しく、深く、貪るように唇を奪われ、シャムスはたちまち、全身がとろけるような悦楽に襲われる。
(へい、か……っ)
 これ以上求めてはいけない。それは自分をなおさら傷つけるだけだ。だが体は言う事を聞かず、かろうじて己を抱きしめる巨腕に手をかけ、弱々しくひっかいただけだ。
「……シャムスよ」
 気が遠くなるほどの間シャムスを翻弄し、ようやく顔を離した王は、ひどく真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「余は確かにロクサナを愛しておる。この戦が終われば、婚礼の儀は滞りなく行われるであろう」
「……っ……」
 朦朧とした意識の中でも、王の言葉は針のように刺さる。シャムスがその痛みに浅くあえいだ時、王はだがなぁ、と一転、明るく言い放った。
「余はそなたの純潔を奪ったのだぞ。一度手に入れたものを、むざむざ捨ておけるものか」
「そ……んな事は……」
 この身が王の気に召したというのなら、それもまたシャムスにとっては喜びではあるが、だからといって手慰みの為に留め置かれるなど、苦しいに決まっている。弱々しく反論しようとするシャムスに、王はに、と笑った。
「それに、余はそなたをこの上なく愛しておるのだぞ。余の子として、また余の為にその身を投げ出した、一人の乙女としてな」
(――!!)
 その言葉は、シャムスに雷で打たれたかのような衝撃を与えた。
(今……陛下が……私を、愛している、と……)
 まさか。そんな事があるわけが。卑しい身の上で、ロクサナのように可憐な美姫でもない自分を、王が愛しているなど、考えられない。
 だが、ばっと見上げたその視界に映るのは、初めて出会った時目にしたのと同じ、大海のごとき大らかな笑顔。その笑みには嘘もおもねりも何もない、ただ心のままに描き出した、まぎれもない愛情があった。それを認めた途端、不意に目が熱くなり、視界がぼやける。
「そ……そんな……陛下……ほんとう、に……?」
 止めようもなく涙がぼろぼろあふれ出し、まともに喋れない。しゃっくりあげながら何とか言葉を押し出すと、王はシャムスの頭を自身の胸に抱え込み、
「余がこれまでそなたに嘘をついた事があるか? そも、慰みの為にそなたを抱くほど、余は節操なしではないぞ、シャムス。愛しておればこそ、余はそなたの初めての男になった。余の側に置いておきたくなった」
 己と同じ色の髪を愛しげに撫でながら言う。
「故にシャムスよ。余の前から姿を消すなど、寂しい事をいうてくれるな。もしそうなれば余は、地の果てまでそなたを追いかけて、連れ戻すしかなくなる」
「へ、陛下……」
 そうなったら逃げきれる気がしない。恐れおののくシャムスに、
「――とは申せ、余の従者となれば、ロクサナと顔をあわさぬわけにはゆくまいて」
 王はいささか自嘲めいた笑みを見せた。
「それを我慢出来ぬのであれば、余は強いて取り立てはすまい。そなたの苦しい心の内、分からぬでもないからな」
「っ……っ……」
 そしてその大きな掌でシャムスの頬を包み込み、親指で涙を拭った。
「最後に選ぶのはそなただ、シャムス。今こそ問おう――余の従者となるや否や?」
 涙はまだ止まらない。胸の痛みも去らない。だが、新たにわき起こった幸福が、何もかも洗い流していくようだ。
「……あぁ……陛下……」
 王の手をそっと包み込み、シャムスは目を閉じた。
 この胸にあるのはただ、王への愛のみ。ならばもう、迷いはすまい。この先にどれほどの苦しみや悲しみが待ち受けていようと、この選択を、決して悔いはしないだろう。
 シャムスは目を開き、濡れた瞳のまま、柔らかく微笑んだ。そして、自分でも意外なほど静かな声で、
「――はい。私は、陛下の従者となります」
 諾と、何の躊躇もなく、深々と頷く。
 と、王が今度は音を立てて軽くシャムスに口づけし、
「うむ、よきかな。何しろそなたにはまだまだ、閨の楽しみというものを教え足りぬ故な。これからじっくり教育せねばなるまいて」
 にぃ、と悪童がごとき笑いを浮かべて顔をのぞき込んできたので、シャムスはえっ、と硬直した。
 今宵のひとときですら、天上に舞い上がるような幸福であったというのに、
(あ、あれ以上にいったい何があるの!?)
 これから先に待っているものは、全くもって想像の埒外だ。かぁぁぁ、と赤面して絶句するシャムスに王は呵々大笑し、
「なんとかわゆい顔をするのだ、愛いのう。――シャムスよ、楽しみはこれからであるぞ、ん?」
 その巨腕にシャムスを閉じこめ、熱っぽく囁きかけたのだった。

 黄色い砂塵が舞い、怒号と悲鳴、金属の音が響きわたる。地面が揺れるほどの勝ち鬨をあげてぶつかりあった二つの軍は、敵味方入り乱れて血で血を洗う白兵戦を演じていた。
「AAAALaLaLaLaLaie!!」
 その前線、誰よりもその身を矢面に晒しながら、黒馬ブケファラスを駆って征服王は雄叫びをあげた。
 その剣は振るうはしから敵兵の首をはねとばし、砂の大地に鮮烈な赤をまき散らす。その巨体を支える愛馬もまた見上げるほどに大きく、主の求めのままに駆ける蹄は無慈悲に敵兵達を踏み殺していく。
 戦列を分断する勢いで敵軍に迫る征服王はまるで嵐のごとく荒々しく、理不尽で、圧倒的だった。
 王の行く先にあるものはことごとく薙払われ、散り散りになって潰走していくしかない。あるいはあまりの恐怖に前後の見境をなくし、わめきたてながら突っ込んでいくものも少なくない。
 そのうちの一人、たまたま巨馬の間近に出てしまった敵兵のひとりが、目の前で縦に分断された自軍の兵をまともに見てしまい、錯乱した。
「うあぁあぁ、あああああ!!」
 もはや敵も味方も区別がつかぬと見え、手にした槍をめちゃくちゃに振り回して暴れ、その刃先がブケファラスの尻を裂いた。思いがけなく深く切れた傷からどっと血が吹き出し、驚いたブケファラスは思わず竿立ちになる。
「むお!?」
 高々と前足をあげた牝馬の上でイスカンダルは振り落とされまいと膝をしめた。手綱を引き絞り、落ち着かせるより先に、
「死ぃねぇぇぇぇ悪魔めがぁぁぁぁぁ!!」
 喉も裂けよとばかりに絶叫して、敵兵が槍を力一杯投げつけた。びゅおと風を切って槍は過たず征服王の顔に向かって飛来し、――だが次の瞬間、空中でばらばらに分解した。
「!」
 何が起きたのか理解するより早く、光が走って男の喉が真実、裂けた。血が吹き出す喉を押さえようとかぎ爪状になった手を当ててひっかく男は、しかし不意の打撃で背後にふっとび、砂地をごろごろ転がった。砂だらけになりながら血を吐く男に、
「控えよ、この痴れ者が!」
 凛とした声が浴びせかけられる。戦場の胴間声とはそぐわない清涼な声音につい顔を向けた者達が目にしたのは、剣を抜き、王を守るように立つ、鎧兜の女。
「我が王の拝謁の栄に浴したくば、まずはこのアルムス・シャムスの刃をくぐり抜けてみせよ!」
 びゅっと剣をふって血を払い落としながら、女は喝破する。その鎧はすでに血に汚れあちこちへこみ、激しい戦闘の跡を物語っている。だが、羽根飾りの兜の下からにらみすえる眼差しは闘志に燃え上がり、決してひく事がない。
「おおシャムスよ、よき剣筋であったぞ! そなたはまっこと、戦場の花よな!」
 どずん、と地響きを立てて足を下ろしたブケファラスの手綱をかり、征服王は満面の笑みで自らの従者を誉める。すると刃のごとき殺気を放つシャムスの眼差しに一時陶酔の色が浮かびあがり、
「勿体なきお言葉でございます、我が君!」
 ここが戦場ということも忘れたかのように艶やかな声が言葉を紡ぎ出す。次々と襲いかかってくる敵兵を切り捨てながら、シャムスの瞳は常に王を映して離れない。
(あぁ……我が王、我が君)
 大地をどよもす雄叫びをあげ、神々のごとく鍛えあげられた体一つで大軍に立ち向かって怖じる事を知らぬ、猛々しい威容。その存在自体が奇跡であり、彼女の世界そのものでもある、イスカンダル王。
(この身命を賭してもなお足りない。すべては我が君の御為に)
 シャムスは体の内に燃えさかる闘志と愛にかき立てられるように吠え、王と共に戦場を駆けた。鮮やかな赤の髪を翻し、決して立ち止まることなく突き進んでいくその姿は、まるで炎を身にまとう女神のように容赦なく苛烈だった。