従者、彼の日を思う2

 夜も更けたというのに、眠りはまだ訪れない。体は疲れ切っているが、目は冴えていく一方だ。
「うーん……うーん……あぁ、もう!」
 どれほど頑張っても、眠れそうにない。転々と寝返りを繰り返したあげく、シャムスはがばっと起きあがった。狭い一人部屋の中は闇に閉ざされていて、しんと静まりかえっている。だが今のシャムスにはその静寂さえ耳にうるさく、煩わしかった。
「……どうしよう。早く寝なくちゃいけないのに」
 明日はいよいよ、敵軍の主力とぶつかる決戦が控えている。シャムスも一兵士として出陣する故、十分に体を休めなくてはならないというのに。
「……はぁ」
 げんなりため息をついて、シャムスは胸に手を当てた。
 規則正しく上下する胸元には今何の異常もない。だがまだ、あの痛みが残っているような気がして、ついさすってしまう。
(……あれは何だったんだろう)
 思い出すのは日中のこと。シャムスは突然胸を突き刺されたような激痛に襲われ、手にしていた剣を取り落としてしまった。
 それはすぐに消え失せたのだが、あまりにも衝撃的な痛みだったので、もしや病かと心配になって、医師に看てもらったほどだ。結果は何もなかったのだが。
(どうしてだろう。この頃、陛下とロクサナ様がご一緒のところを見るたびに、胸が痛む)
 今回ほど激しくはなかったものの、その症状はしばらく前からシャムスを悩ませていた。
 イスカンダル王が后にすべしと連れ帰ってきた姫はまるで女神のように美しく、シャムスは一目見た時から憧れていた。
 己のように皮が固く分厚い手とは違い、ロクサナの手は滑らかで、指先に至るまで一点の瑕疵もない。滑るようにしとやかな身振りは、大股でがさつに歩く自分とは同じ人間に思われないほど、どこまでも優美だ。
(あんな風になれたらいいのに)
 女としては規格外に背が高い自分には叶わない夢と知りながら、シャムスはかの姫君に憧れずにはいられなかった。
(なのに……どうしてこんなに、嫌な気持ちになるんだろう)
 王はロクサナと語らう時、いつも楽しそうだ。初めてシャムスを対面させた時も、口を極めてロクサナをほめそやしたものだ。
 シャムスは王を尊敬してやまない。王になら何もかも捧げて惜しいとは思わないし、王が幸せならば、シャムスもまた幸せだ。
 そのはずなのに――今シャムスは、王の幸せたるロクサナを、疎ましく思う気持ちを、抱え込んでいた。
『陛下が取られるみたいで、気に入らないんだろ。お前まだ親離れ出来てないし。なぁに、いずれそんな気持ちもなくなるさ』
 初めて芽吹いた感情を持て余したシャムスが相談したカラムは、そう言っていた。そういうものかとその時は納得して、自分でもおかしな事を考えないように努めた――のだが。
(私、いけない子だ)
 自分が嫌になる。もう十六になるというのに、尊敬する父の幸福を素直に喜べないなんて。
 シャムスはため息をついて、掛け布に突っ伏した。
 こんな気持ちはもう封じて、きたる婚儀の日は、晴れやかに祝福しなければ。しかしそう思えば思うほど、息苦しくなる。
『いずれ遠からず、お世継ぎのお顔を拝見することになろう』
 イマームの何気ない言葉が、胸を抉るようだ。シャムスは手を握りしめ、眉根を寄せた。
(もし御子が生まれたら……私は、いらなくなる)
 実の子が生まれれば、王はきっとたいそうお喜びになり、可愛がられるに違いない。その時自分は、王にとって意味のない子供になる。自分はただの孤児で、イスカンダル王の情けで養子とされただけなのだから。
「……っ」
 それは当然の事だ。当たり前だ。なのにどうしようもなく、胸が痛い。苦しい。
 耐えかねたシャムスは寝台から飛び降りた。そして壁に立てかけた剣を手に取り、足早に部屋を出る。

 むき出しの腕を、夜気が撫でた。
 段々指先がしびれてきたが、シャムスは構わず、素振りを続ける。汗だくになった体に寝間着がぴったりと張り付いて煩わしいが、二百を越えたあたりで、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。
(あと少しやったら、寝ようかな)
 これだけ体を動かせば、いい加減眠れるようになるだろう。そう思いながら頭上に剣を振り上げた時、
「……シャムス? え、お前、何してんだ?」
 背後から不意に声をかけられた。びっくりして振り返ると、暗闇からカラムが歩み寄ってくる。
「おま……おいおい、こんな夜中に鍛錬なんて、どういうつもりだ?」
「ん……ちょっと眠れなくて。体動かしたらいいかなと思って」
 不眠の理由は言いたくないので、後ろめたく視線が下げながら、シャムスは手で顔を仰いだ。動きを止めると、体が放つ熱でいっそう汗が出てきて、暑い。
 カラムは呆れ顔になって、顎を撫でた。
「バカかお前、どんだけ訓練好きなんだよ。そういうのは昼だけにしとけ。休むのも仕事のうちだぜ」
「……うん。分かってる」
 何も反論出来ず、シャムスは口を曲げた。夜番のカラムはしっかり仕事してきているようだから、よけいに何もいえない。
「それにお前……」
 カラムは服が張り付くシャムスの胸元に視線を向け、すぐ気まずそうに目をそらした。
「……こんな夜中に、女が薄着で外をふらふらするもんじゃないぞ。変な奴に襲われでもしたら、どうするんだ」
「そんなの平気よ。襲われたってやっつけちゃうもの」
 自分の腕を疑うのかと、シャムスはむっとして口を尖らせた。
 シャムスはそこいらの男に負けるような腕ではないと自負している。たとえ不意打ちをかけられたとしても、一方的にやられるような下手を打ちはしない。
「いや、そういう事じゃなくてだな……つまり……」
 何かいいたげにごにょごにょと口を動かしていたカラムは、頬を赤らめた。いつもはっきり物を言う兄弟子が、こんなに口ごもるのは珍しい。
「何よ。言いたい事があるのならはっきりしてよ」
 ごまかしや躊躇いの態度は嫌いだ。シャムスは、まっすぐカラムを見上げて口を尖らせた。視線が真っ向からぶつかると、カラムの顔はますます赤くなり、
「だから……その、だな……あぁもう、要するに……こういう事だよ」
 いきなりシャムスの腕をつかんで、その胸の中に抱きしめる。
「えっ?」
 何の脈絡もなく抱擁され、虚を突かれるシャムス。何が起きたのか理解する前にカラムの手が背中に回り、上から下へと撫でる。
「っ」
 汗で服が肌に張り付いていたから、よけいに感触が生々しく感じられて、ぞくっと震えが走る。
「カラム、なにすっ、んっ!?」
 気持ち悪いと文句を言おうとした口が、いきなり塞がれる。
 ぱちくり、と目を見開いて硬直したシャムスは、視界いっぱいに映るカラムの顔を凝視した。かさついた唇がその口から吐息を奪うように深く重ね合わされる。
(な、ん……っ)
 予想外の事態に放心して、手から剣が滑り落ちた。だが、甲高い金属音は遠くで響いて聞こえるだけだ。
(や、だ)
 腰に腕が回され、よりいっそう強く抱き寄せられる。押しつけられた体の熱に凍り付いていた思考が動き始め、シャムスの肌が一斉に粟だった。
「……シャムス……」
 総毛立つシャムスをよそに、唇の線をなぞり角度を変えて口づけながら、カラムが掠れた声を漏らす。その目にはシャムスが見たこともない、得体の知れない熱が揺れている。
「この際だからいっちまうけど……俺、前からお前の事……」
 語る言葉は優しく、甘い響きを帯びている。だが、シャムスにはそれさえも、恐ろしい変貌のようにしか思えなかった。
(やだ、やだやだやだ)
 吐息が、触れる肌から伝わる熱が、胸の鼓動が、唇が、腕が、目が、何もかもおぞましく恐ろしい。
 今日まで兄弟子と慕ってきたカラムがまるでおぞましい物に思えて、シャムスは恐慌状態に陥った。
「や……ぁっ!!」
「うっ!」
 とっさに足を踏みつけ、相手がひるんだ隙に突き飛ばす。そして振り返りもせずその場から走り去った。
「ま、待て、シャムス!」
 背後からカラムの呼びかけがかかる。だが、それは恐怖を煽るだけだ。追いかけられるのも恐ろしくて、シャムスは全速力で駆けた。
(怖い、怖い怖い怖い)
 心の中は恐怖で混乱して正常な思考はままならない。行き先も考えず、むちゃくちゃにかけ続けたシャムスはやがて、息が続かなくなって、よろよろと足を止めた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 運動の汗と恐怖の冷や汗が混じって、しとどにしたたり落ちていく。息を切らせ、激しく弾む胸を押さえてあえいだ。どっ、とそばの柱に寄りかかって呼吸を整えようとした時、ふと視線をあげて、シャムスは息を飲む。
 その視線の先にあったのは、王の居室の窓だった。どうやら恐怖のあまり、無意識に頼ってきてしまったらしい。
 今より幼い時分なら、きっとそのまま飛び込んでいただろう。
 しかし深夜を過ぎてなお部屋には明かりがともり、人影が紗幕に映っている。
(あれは……)
 王は一人ではなかった。明らかに女と分かる影と寄り添い、互いの顔を近づけて、なにやら語り合っている――否。あれはきっと、口づけを交わしているのだ。さっきのカラムのように、王は愛するロクサナに、接吻を与えているに違いない。
「――!!」
 ずきん、と今までにない激痛が胸を刺し、息が止まる。汗をしたたらせながら、シャムスはよろけ、あえいだ。痛い。怖い。苦しい。悲しい。負の感情が体の内を駆けめぐり、何も考えられなくなる。不意に視界がかすみ、ぶれる。鼻の痛みが突き抜けると共に汗が涙と混じり合い、顎から伝い落ちていく。
 どうして今あそこに、自分がいないのか。この恐怖を取り除けるのは、王の広い胸の中だけだというのに。どうして、あの場所を、奪われなければならないのか。
 それまで理性で押さえつけ、自身でも気づかなかった望みが、感情の爆発と共に現れいでる。
 足がかくんと折れて、シャムスはその場に崩れ落ちた。胸の痛みはもはや耐える事も出来ないほど激しく、息も出来なくなるほどに苦しく、その涙はもはや、とどまることを知らなかった。